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日本の乳受容における菓子の役割

日本の乳受容における菓子の役割

京都府立大学京都和食文化研究センター:橋爪伸子
 
乳食文化の導入期である明治・大正期、京都では、官立の牧畜場からはじまった本格的な乳業を中心とする乳の需給関係と、それを受容する文化的な背景が成立していました。

また、菓子屋では洋菓子屋と江戸期以来の菓子屋の両方で、洋菓子の材料や意匠が積極的に採用され、乳も新しい材料として注目されていました。

日本における乳食文化の受容では、菓子がなかだちとなって異文化の抵抗をやわらげ、後の展開にも影響をもたらしたと考えられます。
 

はじめに

乳食文化に関する従来の研究は、東京における飲用乳の薬餌的な利用が中心で、他の地域における多様な乳の受容については検討されてきませんでした。そこで本研究では、菓子を通した乳の受容に注目し、京都の事例を通して検討しました。

方法としてはまず、明治10~36年、明治政府が5回に渡り開催した内国勧業博覧会(以下、内国博)の記録を中心に、乳及び乳を使用する菓子の製造に関する全国的な概況を分析しました。次に、明治・大正期における京都の乳の生産加工販売業(以下、乳業)の実態と乳への対応について、史料及び関係者への聴取により検証しました。


[1 内国勧業博覧会の記録にみる乳及び乳を使用する菓子の出品受賞概況]

煉乳とバター

内国博の第1・2回には、官園や県庁の勧業場から多品目の乳製品が出品されました。第3回以降は民間からの出品も増え、第4回以降その主流は煉乳とバターとなりました。バターの主な出品者に注目すると、長野の神津邦太郎が第3~5回に継続的に出品、受賞し、輸入品と同等品質と評されています。また第4・5回には、後に日本の酪農の基礎を築いたとされる札幌の宇都宮仙太郎が出品しています。しかし主催者による全体的な評価としては製造技術が未熟で、「乳油固有ノ芳香」に欠けると述べられています。当時はまだ、バターは輸入品が中心であったことがわかります。

乳を使用する菓子

一方、菓子の出品は、洋菓子のうちビスケットやケーキの類(以下、洋菓子類)と、打物・羊羹・煎餅等の和菓子に乳が添加される類に二分できます。全5回の概況としては、東京を中心に開港地やその周辺府県から、特に洋菓子類の出品が増えていく傾向が認められました。

第1・2回は、和菓子に乳を添加する類が主流でした。その乳に対する価値観としては、滋養や文明開化の象徴と認識されていたと考えられます。例えば東京の岡野金平が第1回に出品した「紅白牛酪糖」は、『読売新聞』(明治10年6月19日付)で「開化先生ハ大そう珍重する」と紹介されていま。

第3・4回になると、和菓子屋と洋菓子屋の両方でビスケットとかすてらの出品が増加します。これらは必要とする材料と加熱機器(天火)が共通していました。第5回には、乳の使用に進化が認められます。例えば岩手や兵庫では、明治以降新たな特産となった乳を煎餅に活用することで地域性を表現しました。また長崎では、地域の名菓であるかすてらに乳を加えた「牛乳入カステーラ」や「バタカステーラ」を出品し高評されています。これらの事例から、乳の菓子材料としての実質的な価値を認め、積極的に採用する意識がうかがえます。



[2 京都の乳業]

乳業のはじまりと発達

以上の全国的な記録では確認できなかった京都の動向を、別の史料で具体的にみていきます。京都の乳業は明治5年、愛宕郡(おたぎぐん)吉田村聖護院の旧練兵場敷地における官立京都府営牧畜場の開設にはじまります(図1、2)。
 
米国より輸入した牛34頭と羊19頭が飼育され、バター・粉乳・煉乳・クリームが製造されました。翌年からは米国人による農学牧事の指導が行われ、実習では生徒が毎日6時と16時に搾乳し、8時にはバターと粉乳を製造しました。明治12年に牧畜場は民間へ払い下げられて京都牧畜場となり、分畜場を増設し発展します。

ところで京都牧畜場のあった愛宕郡では、明治19~21年に5牧場が開業し、乳牛数・搾乳量は京都府全体の9割以上を占めていました。その南端に位置して市中と接する田中村には4牧場があり、搾乳高は同郡の5割以上を占めていました。当時牛乳は、都市住民を主な需要層とし、運搬や冷蔵設備が未発達であったため、近郊で生産される必要がありました。田中村は病院や大学、洋菓子・パン屋が集まる場所にも近く、界隈にはその関係者が居住し、需要地としても主要な場所でした。その後、生産地は次第に郊外へと広がりますが、田中村周辺には昭和初期においても5~6軒の乳牛牧場が盛業で、各場が最寄りの居宅や喫茶店に牛乳や乳製品を配達していました。明治30年代後半から搾乳業者が郡部へ移転していった東京とは異なるこのような状況は、京都の地域性ともいえます。その背景を京都における行幸に探ってみたいと思います。

行幸による影響

天皇の地方への行幸は、明治以降、全国的に展開されますが、特に京都には約3年に1度の高頻度で訪れていました。また欧州の生活様式を導入した宮中では、乳は必要不可欠な食品でした。そのため京都における行幸は、乳食文化の受容にも影響を及ぼしたと考えられます。

行幸時の御料乳(天皇に供する乳)に関する京都府の記録の初見は、明治20年の行幸に関するものですが、ここではその供給実態が具体的に確認できる昭和8年の「御用乳納入者森田梅吉」の記録に注目します。森田は明治18年頃田中村で搾乳業を始め、同32年に市街地の西北に近接する太秦村で森田牧場を開きました。そこでは「普通牛舎」とは別に設置された「御料用乳牛舎」で、専用の牛が飼養されていました。行幸の際にはその牛の牛乳とクリームが、温度管理、器具や従事者の消毒に細心の注意が払われ、規程の処理を経て生鮮のまま毎日定時に納入されました。京都では、天皇が居住する東京の御料地と同等品質の「衛生牛乳(サニタリミルク)」を近郊から調達できる体制が必要でした。昭和15年の行幸では森田の急な辞退を受けて納入業者が交代しますが、それを可能にした京都の乳業が高い水準であったことがわかります。
 


[3 京都における菓子屋の乳への対応]

乳を用いる7種のビスケット

ここでは菓子屋の乳への対応について、まず江戸時代の創業で上菓子屋仲間に属していた和菓子屋2店からみていきます。

亀屋良長の4代の??村良長は、前出の内国博では第4回に「山吹羊羹」、第5回に「水餅、袖の梅、カステーラ」を出品し受賞しています。また、同店の職人複数による明治30年頃の配合帳には、従来の上生菓子や「巻カステーラ」「ボウル」等の焼菓子に加え「西洋菓子」が記されています。材料の乳に注目すると、「ビスケート、曹達(ソーダ)ビスケ、アマント(アーモンド)ヒスケ、レモンビスケ、バタケイキ」の5点にバター、「チンチヤ(ジンジャー)ビスケ」、「コンデビスケ」の2点にミルク(図3)、「河村ビスケ」に牛乳が記されています。かすてらとビスケットは、前述した全国的な動向と共通しています。これらの商品化については不詳ですが、乳が材料の一つとして注目されていたことがわかります。
 
 

西洋の材料や意匠の採用

鶴屋𠮷信に所蔵される4代の稲田儀三郎の明治30年以降の記録には、西洋の材料や意匠の採用が散見されます。例えば「洋菓子クルワサン」や「サフレー落とし焼」、ハート形の「極上々味噌ホーロ製細工種々」が図示されています。落とし焼は、かすてらと同様の生地を鉄板上に落として天火で焼く南蛮菓子の類で、ぼうろやビスケットにも近似し、材料と天火で焼くことが共通しています。ビスケットは、生地の成形工程でぼうろのように型で抜くものと落とし焼のように落とすものとがあり、両菓子の総称ともいえます。儀三郎は新しい洋菓子を既知の南蛮菓子名で解釈しており、洋菓子やその材料に対する強い関心と積極的な受容の姿勢がうかがえます。

同店で乳を使用した菓子の商品としての記録は、「生洋菓子」のプリンを夏の「新菓」として発売しようする大正期の史料をはじめとして、昭和以降には「大なつ(くるみのパイ)、シュークルム、マドレンゲ」等と多様化します。前出の亀屋の事例と同様、こうしたカタカナ表記は西洋という認識の現れと思われます。明治・大正期、元上菓子屋では、洋菓子が「新菓」として研究され、従来の和菓子にも西洋由来の材料や意匠の採用が、特に天火を用いる南蛮菓子のかすてら、落とし焼、ぼうろにおいて検討されていました。材料の調達が可能であれば、商品化に向けて試作されていた可能性も高いと思われます。
 

「カステーラ」と「デセール」

次いで明治・大正期創業の洋菓子屋3店をみていきます。京都の洋菓子屋の最初は、明治9年に石野和三郎が神戸でドイツ人から菓子やパンを習得し、明治13年に開業した桂月堂です。和三郎は内国博では第3・4回に「滋養カステーラ、魚ビスケット、菓子麺包、松露糖」、第5回に「ビスケット、カステーラ、ハタデセール」を出品し、第3・4回は「ビスケット」、第5回には「カステーラ」で受賞しています。このうちデセール(クッキー)とビスケットには、牛乳とバターが使われていました。

続く村上開新堂は、明治40年に村上清太郎が開業しました。同店は、日本初の洋菓子屋とされる東京の村上開新堂の2代の村上一政が、支店として京都に開きました。以下ここでは東京、京都の両店を東京開新堂、京都開新堂と称します。開業当時の主な商品はシュークリーム、カステラ、前出したデセールなどで、シュークリームやデセールに牛乳やバターを用いました。大正6~8年頃には、京都大学や市街地のミルクホールへ1日に200~300個を卸売りしました。また清太郎は、明治42年に京都に設立された私立の家庭割烹学校で、西洋菓子科の講師を務めました。例えば明治44年1月14日の講習記録には「勅題寒月照梅花カステーラ丸形月に梅か枝」とあります。丸形のスポンジ生地に、勅題に因む飾りがほどこされたと思われますが、こうした飾りには、当時は乳(クリーム)ではなく、砂糖製のフォンダン(すり蜜)とグラスロワイヤルを用いました。

京都開新堂に続く洋菓子屋は、同店の初代職長だった松田六郎の東屋です。六郎は東京に生まれて東京開新堂の職人となり、前出した村上清太郎とともに京都開新堂に入った後、大正7年に独立開業しました。東屋では当初、店頭販売は行わず、市内の和菓子屋へ主に京都開新堂で作っていた洋菓子を卸売りしました。
 

まとめ

以上より京都では、京都牧畜場を中心に愛宕郡南部を主要な供給地として、乳の需給関係とそれを受容する文化的な背景が明治33年には成立していたことがわかりました。また和洋両菓子屋では、乳を積極的に採用する動向が、特にビスケットとかすてらを中心に認められました。そこではビスケットは南蛮菓子のぼうろや落し焼、かすてらは洋菓子のスポンジと同一視され、それらに洋の材料・意匠・名称を付加するという共通点がみられました。既存の南蛮菓子が、共通する材料と天火を用いる洋菓子を受容する媒体となって新たな異文化の抵抗を緩衝し、その材料である乳も同時に受容されていったと考えられます。

日本における乳食文化は、「牛乳(薬餌的飲用)→煉乳(母乳代用)→バター(菓子材料)」という変遷をたどりながら受容されてきました。これは乳が食生活上必要不可欠な牧畜文化圏とは異なるパターンであり、歴史的な個性といえます。こうした個性を活かした日本固有の乳食文化が、豊かに展開することを期待したいと思います。


-「あたらしいミルクの研究」2017 年度 -

一般社団法人Jミルクと「乳の学術連合」(牛乳乳製品健康科学会議/乳の社会文化ネットワーク/牛乳食育研究会の三つの研究会で構成される学術組織)は、「乳の学術連合」で毎年度実施している乳に関する学術研究の中から、特に優れていると評価されたものを、「あたらしいミルクの研究リポート」として作成しています。

本研究リポートは、対象となる学術研究を領域の異なる研究者や専門家含め、牛乳乳製品や酪農乳業に関心のある全ての皆様に、わかりやすく要約したものになります。
なお、研究リポートに掲載されている研究内容詳細を確認する場合は、乳の学術連合公式webサイト内「学術連合の研究データベース」より研究報告書のPDFをダウンロードして閲覧可能です。あわせてご利用ください。
 

2018年6月5日

日本の乳受容における菓子の役割

京都府立大学京都和食文化研究センター:橋爪伸子

- 「あたらしいミルクの研究」2017 年度 -

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