第1回 幕末における渋沢栄一と水戸乳文化

近代日本の幕開けとともに歩む酪農産業の足跡

第1回 幕末における渋沢栄一と水戸乳文化

生い立ちと幕末の世相

渋沢栄一(1840〜1931)は、1840(天保11)年に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に、市郎右衛門とゑい(えい)との長男として生まれた。生家は農業、養蚕に加えて染料の藍玉(あいだま)の生産・販売や金融業を併せて行う富農であった。特に藍玉については父市郎右衛門が信州など各地の織物業者に売り歩いた。息子である栄一も13歳頃から近在の農家を回り、藍葉を買い付けるようになる。さらに16歳頃から信州の上田、上州の伊勢崎及び秩父まで藍玉を売りに出かけた。このため藍玉の製造販売は渋沢史料館の調査によると年商1万両あったという。

 この家業の多彩さが、渋沢栄一に様々な業態の基礎組織を会得させ、後年の広範囲な事業活動につながったと思われる。後に農業、商業、工業など多くの分野で事業を起こすが、この基礎は家業によって培われたものである。

 成長した栄一は、御用金を取りたてる岡部藩の代官に歯向かい理不尽に罵倒されたのをきっかけに役人を高く見て一般人を低くみる身分制度に怒りを覚え、現状を変えようと武士になることを決意した。そして倒幕運動に邁進した栄一は、高崎城襲撃や横浜焼き討ちの暴挙を企てるがいずれも取りやめている。さらに栄一は従兄弟の尾高惇忠の影響を受けて尊皇攘夷(王を敬って夷人<いじん>を追い出す)の運動に目覚めていく。しかし徳川慶喜の家臣となるや生涯の全てを決定づけたのであった。

 一方、江戸幕府の側では、1853(嘉永6)年にペリーが開国を求め浦賀に来航し、1856(安政3)年にハリスが下田に入港し1858(安政5)年には、日米修好通商条約を結ぶなど、あわただしい世相を迎え、加えて第13代将軍の世継ぎ問題で幕府内では熾烈(しれつ)な政争が起き、混沌(こんとん)とした時代であった。この中にあって幕府の中枢にいた徳川斉昭の存在は大きく影響を及ぼした。一橋慶喜の側近であった平岡円四郎の知遇をえた渋沢栄一は、幕府の水戸藩の存在と後に将軍となる慶喜の動きにより激動の幕末から明治期に向け駆け抜けた。

水戸藩と乳文化

 9代目水戸藩主の徳川斉昭(烈公)は、時勢の動きに非常に敏感で国防に奮闘する尊王攘夷論者として奇妙な事に外国文化を拒絶する事なく積極的に受け入れる進歩的な「科学する殿様」であった。そもそも水戸は、牛乳に深い関係があり、日本の古代法典「延喜式」の「貢蘇番次」にも出でてくる常陸国である。第2代藩主徳川光圀は「大日本史」の編纂(へんさん)に従事した学者に牛乳を与えて労をねぎらった。

 斉昭はそれ以上に牛乳にまつわる業績が多いことで有名で、牧畜に関心を持ち、牛乳の効用にいち早く着眼している。そして荒廃した牧場を再興し「桜野牧」と名付けて開設した。この牧場から牛乳を取りよせ、朝食には必ず鶏卵と牛乳を食膳に付けさせたという。当時は薬として牛乳を飲むときでさえ、眼を閉じ、鼻をつまんで飲んだ頃である。そして病弱の家臣にも牛乳を与え、さらに家臣宛に牛乳の飲み方を教えた記録も残っている。

 さらに1840(天保11)年に水戸神崎にガラス製造所を造りギヤマン牛乳びんを考案した。直径13㎝、高さ25㎝、容量約1 ℓであるが、現在の徳川ミュージアム(茨城県水戸市)に保存されている(図)。どのように牛乳びんを使用したかは不明であるが、ギヤマンとはオランダ語からきているとされガラスを意味する。牛乳びんを保存してある箱の「牛乳」という題字は斉昭の直筆であると言われている。

 また「烈公行実」によると1843(天保14)年、藩校の弘道館に医学館を設け医学の研究を行い、そして養牛所を造り乳牛を飼育し、「牛酪」という乳製品を医師たちにつくらせた。牛酪は今日でいうチーズ風の乳製品であるが、閉店した水戸市内にあった料亭の「水戸大塚屋」の店主・大塚子之吉氏が古文書を調べ、「白牛酪」と後述する「牛乳酒」を再現したことで当時の味を確認することができた。
  • ギヤマン牛乳びん
    出典:「茨城と酪農」(茨城県酪連)

慶喜に牛乳飲用すすめる

幕末に斉昭の命により牛乳を普及するため、弘道館訓導(特医)であった西宮宜明は、国史より牛乳に関する記録を収録し、さらに考察を加え「牛乳考」としてまとめた。この書物は1883(明治16)年に高畠千畝によって「牛乳略考」の名のもとに刊行されている。

 斉昭自身も数多くの書物を執筆したが、その一つに「食采録」がある。梅の漬け方,パンの作り方など様々の料理の作り方が書かれている。この中に牛乳を使用した「牛乳酒」の作り方も記されている。この配合は「牛乳茶碗2杯、酒2杯、水3杯、砂糖1杯を鍋にいれ良くかき混ぜながら煮たてて飲む」とある。今日的に言うならば、脂肪分0.8%、固形分1.8%、糖分14.6%、アルコール分3.4%を含んだ飲料である。

 この時代に新しい食文化を求め、自ら牛乳を愛飲及び加工し、さらに普及啓発するために書物にまで記述した斉昭にして、乳文化の礎がこの地で生まれ、誇り高い水戸文化に育まれ定着した。そして新しい明治時代を迎えると「桜野牧」を譲り受けた大高織衛門は1872(明治5)年にいち早く搾取業をはじめ、茨城県の近代における酪農乳業の発祥地になっている。

 幕末の13代将軍の世継ぎ問題が政争になっていたころ、斉昭が息子一橋慶喜に送った書簡をまとめた「烈公御真翰(れっこうごしんかん)」がある。斉昭は1854(安政元)年7月に長命を保つ養生法で「…黒豆は日に百粒ずつ上がり、牛乳も上がり申し候よし…」と送り、慶喜は「…日々牛乳御用い、黒豆も朝にも御用のよし安心いたし候…」と返信している。斉昭は牛乳の栄養的知識は前述のように熟知しており、帝王学の一環として教えたが深い親子の絆があった。

執筆者:矢澤好幸・日本酪農乳業史研究会 会長

 
● 参考文献

武田知弘 経済改革としての明治維新  イーストプレス(2018)
大庭邦彦 父より慶喜殿へ 水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集 集英社(1997)
矢澤好幸 乳に道標 酪農事情社(1988)
茨城県酪農史編さん委員会編 茨城の酪農 茨城県酪連(1981)
渋沢栄一述、長幸男校注 雨夜譚-渋沢栄一自伝 岩波書店(1984)

 【Jミルクの関連コンテンツ】

・酪農乳業史デジタルアーカイブ
https://www.j-milk.jp/digitalarchives/
・Jミルク蔵書検索
http://www.lib-eye.net/j-milk/
・酪農乳業の発達史、47都道府県の歴史をひも解く改訂版第4版
https://www.j-milk.jp/digitalarchives/download/file/47history5.pdf