第4回 渋沢栄一の人生に大きく影響したパリ万博

近代日本の幕開けとともに歩む酪農産業の足跡

第4回 渋沢栄一の人生に大きく影響したパリ万博

江戸幕府の万博使節団に随行

1867(慶応3)年、パリ万国博覧会が4月から10月まで、フランスの首都パリで開催された。日本が初めて参加した国際博覧会であり、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出展した。幕府からは、徳川慶喜の弟である昭武が派遣された。目的はパリ万博への出席とともに、欧州各国を訪問して国際的に幕府の存在を認知させることで、さらに昭武の将来を見据えた長期留学も兼ねていた。慶喜は、パリ万博に派遣する幕府使節団に、当時、幕臣となっていた渋沢栄一を随行させた。

 栄一は、1863(文久3)年に郷里を出て京都に赴き、一橋家用人・平岡円四郎の推挙で同家に雇われていた。播州木綿の販路拡大、藩札の発行などを通して同家の財政も豊かにし、同家の勘定組頭、使番格に出世した後、幕臣として慶喜に仕えていた。栄一は、かつては攘夷論者であったにもかかわらず、フランス行きを「速やかにお受けをいたします」と即答している。

 栄一は1871(明治4)年に著した『航西日記』で、フランス行きについてまとめている。昭武に同行したのは勘定奉行格外国奉行の向山一履、作事奉行格小姓頭取の山高信離、歩兵頭の保科俊太郎、奥医師の高松凌雲らとともに、この年27歳になる栄一で、勘定格陸軍附調役として随行した。横浜からフランス船アルフェ号で出港し、50日あまりかけてフランスに到着した。栄一は約1年半の渡欧中、庶務経理を担当して万国博覧会の会場やフランスをはじめ、欧州各国の先端技術や社会・経済に関する組織制度に触れ、それらの体験こそが栄一のその後の人生に大きな影響を与える契機となったのである。

  • パリ万博が開かれた会場は、現在エッフェル塔が立つ

船中でのバター初体験

『航西日記』に、乳製品や西洋の料理についての記述が出てくる。当時、日本では水戸や横浜に多少は乳文化の兆しがあったものの、栄一自身はバターや西洋料理といったものは見たことがあったかどうか。船中の食事が印象に残ったのか、次のように詳しく書いている(要約)。

 「おおよそ毎朝7時、旅客が洗面を済ませた頃に、テーブルで茶を飲ませる。茶には必ず砂糖を入れ、パン菓子を出す。また豚の塩漬けなどを出す。ブ—ル(フランス語でバターのこと)という牛の乳を固めたものをパンに塗って食べさせる。味はとてもおいしい。同じく10時ころになると朝食を食べさせる。食器は全て陶器の皿に銀のスプーン、並びに銀のフォーク、ナイフを添える。菓子、ミカン、ブドウ、ナシ、ビワほか数種を卓上に並べ、好きな時に切って食べさせる。また、ブドウ酒へ水を足して飲ませる。魚、鳥、豚、牛、牝羊の肉を煮るか焼くかする。パンは一食に二、三片を好きなように食べる。食後はカッフェー(フランス語でコーヒー)という豆を煎じた湯を出す。砂糖、牛乳を加えてこれを飲むと胸がスッとする。午後1時ころにまた茶を飲ませる。果実類、塩肉、漬物を出す。朝飯とほとんど同じでフイヨン(ブイヨン)という獣肉、鶏肉などの煮汁を飲ませる。パンはない」という。

 また、「熱帯地方に入ると、氷を水に入れて飲ませる。夕方の5時または6時位に夕食が出る。朝食と比べると、とても丁重である。まずスープから始まって、魚や肉を煮るか焼いたもの、各種の料理と山海の果実、およびカステラの一種、あるいはアイスクリームを食べる」とある。この船内での体験の驚きが、後の「耕牧舎」設立につながる原点だったかもしれない。

人生に影響を与えた三つのこと

後年、栄一の回想録によると、フランスをはじめ欧州各国で体験した印象から三つの事項を挙げている。

① 徳川昭武がベルギー国王に謁見した時にベルギーの製鉄所を見学したことを話すと「製鉄事業の盛んな国は栄える。日本も将来、鉄を盛んに用いるようになったらベルギーの鉄を利用するように」と話された。この様子を見て「西洋の君主は妙なことを言う。自国の鉄を商売にする」と驚くと同時に感嘆した。

② フランスで徳川昭武の世話役を務めた陸軍中佐ヴィレット(日本の武士にあたる)と銀行家フリュリ=エラール(日本の商人にあたる)とのやりとりは対等であり、官民の差別がなかった。日本では「官尊民卑」であると感じていた栄一は打破したいと考えた。

③ パリの会社は一般大衆から資金を集めて、大規模な事業を営んでいる。一人一人の投資金が少なくても、数が集まれば大きな資本になる。すなわち「合本(がっぽん)組織」に、栄一は興味を持った。その他に鉄道、新聞、病院の見学など、社会事業の原点を見ている。

しかし、こうした欧州滞在中の1867(慶応3)年に、日本で大政奉還がされたことを新聞で知ることになる。また、水戸藩の徳川慶篤が逝去したため、徳川昭武が水戸藩を相続することが決まったこともあり帰国命令も出たことで1868(明治元)年に帰国。しばらく徳川慶喜のいる静岡に滞在したが、その後、栄一は、1870(明治3)年に新政府の大隈重信(大蔵大輔兼民部大輔)に説得され、民部・大蔵省の租税正となり、東京・湯島で妻子とともに東京での生活が始まった。

執筆者:矢澤好幸・日本酪農乳業史研究会 会長

● 引用文献

『航西日記』渋沢栄一(青淵)、杉浦靄人 耐寒同社(1871
『渋沢栄一、パリ万博へ』渋沢華子 国書刊行会(1995
『渋沢栄一を知る事典』渋沢栄一記念財団(編) 東京堂出版(2012
「ぶぎんレポ-ト」No.250 松本博之 ぶぎん地域経済研究所(2021

【Jミルクの関連コンテンツ】

・酪農乳業史デジタルアーカイブ
https://www.j-milk.jp/digitalarchives/
・Jミルク蔵書検索
http://www.lib-eye.net/j-milk/
・酪農乳業の発達史、47都道府県の歴史をひも解く改訂版第4版
https://www.j-milk.jp/digitalarchives/download/file/47history5.pdf