第6回 東京の酪農産業を牽引した耕牧舎

近代日本の幕開けとともに歩む酪農産業の足跡

第6回 東京の酪農産業を牽引した耕牧舎

東京耕牧舎と牛乳事業

芥川龍之介の実父である新原敏三は、当初、築地(入船町)を拠点に外国人家庭、ホテル、料理店、病院及び海軍関係の施設などに牛乳を販売し、東京耕牧舎を急速に事業成長させた。

 1887(明治20)年発行の「東京牛乳搾取業一覧」によると、東京の販売量で筆頭の「行司」格に阪川牛乳店や北辰社がランクされ、「大関」格に耕牧舎であった。新原の商才は相当のもので、渋沢栄一から東京支店を任された信頼も当然と思われる。

  • 耕牧舎(新銭座)での牛乳瓶詰め作業の様子(藤沢市文書館所蔵)

耕牧舎の牛乳の品質

 このように隆盛を極めた耕牧舎の牛乳品質は、「竜門雑誌」第167号(1902=明治35年)によると、東京衛生試験所(国立医薬品食品衛生研究所の前身)の報告書第248号に根岸支店の牛乳の定量分析の結果がある。

 固形物総量14.037%、脂肪分4.085%、乾酪質3.737%、蛋白(たんぱく)質0.450%、乳糖4.576%とあり、本乳は品質良好であると認めている(試験所長・薬学博士田原良純、主任技師瀬川林次郎の連名)。さらに同報告書の第204号によると、本店の消毒牛乳についての腐敗検査で、摂氏30℃の温度で数日放置しても腐敗しなかったと東京衛生試験所が認めている。

 耕牧舎の牛乳は良好であったのである。いつの時代も品質は最優先である。

耕牧舎と新原敏三

耕牧舎は、箱根・仙石原の支配人だった須永伝蔵が亡くなったことなどから1905(明治38)年に営業廃止・清算となる。これに伴い、新原は、東京市の芝区新銭座町に移転していた本店と新宿支店及び屋号を売り渡され、仙石原の同僚を雇用して再出発をした。
 
 新宿牧場は7,000坪(2.3ha)の敷地に、牛舎2棟、飼料倉庫2棟、牛乳試験場1棟、牧夫室1棟、事務室1棟の近代的諸施設を設置し、主に獣医師であった葛巻義定が管理した。そして乳牛飼養頭数は新宿牧場60頭をはじめ、日暮里30頭、西ヶ原20頭、鎌倉(育成牛・60頭)、小田原30頭であった。

 米国よりホルスタイン種牛を直輸入し、1906(明治39)年に新しい経営手法を導入した。また、エアシャー種牛も飼育した。牛乳はホルスタイン種牛乳6割とエアシャー種4割の合乳であったので高脂肪牛乳といわれ、当時はとても評判が良かった。特に早稲田大学の近くにある東京・戸塚にミルクホール「高田牧舎」に提供されていたので、大学生には大変好評であったという。

 本店(新銭座)では、従業員は白衣、高下駄の清潔な身なりで、消毒(殺菌)及び壜詰め作業が行われた。新原は搾乳した牛乳を衛生的に取り扱う濾過(ろか)式の牛乳缶を考案した。これは石沢式衛生搾乳缶といい、特許出願中であったようだ。

 耕牧舎の内容及び製造技術を記述した「牛乳の用法」という資料がある。新銭座や新宿牧場の全景が掲載されている。同時に、牛乳の用法・性質・育児・取り扱い法・料理などが連載されている。特に牛乳殺菌法の項目では、撹拌殺菌法(熱湯)や静置殺菌法(蒸気)などが紹介されている。

耕牧舎の終焉の背景

 1900年代以降、牛乳への需要の高まりや、「牛乳営業取締規則」の制定(1900=明治33年)を受けて衛生基準を満たすため、牧場は郊外移転を余儀なくされたことなどから、牧場と小売販売業が分離していった。

 明治40年代になると、新宿の発展に伴い耕牧舎の牧場の臭気が強く周囲の環境にそぐわぬという理由で警視庁から再び移転命令が出されたこと、また新原敏三の複雑な家庭環境と使用人の問題などに加えて家督を継ぐ者がいなかったことなどから、1913(大正2)年についに耕牧舎は廃業した。 

執筆者:矢澤好幸・日本酪農乳業史研究会 会長

● 引用文献

「渋沢栄一伝記資料」(第15巻)渋沢栄一伝記資料刊行会(1957)
『芥川龍之介の父』森啓祐、櫻楓社(1974)
「山間村落の黎明」鈴木康弘、箱根町立郷土資料館報第10号(1994)
「殖産事業として渋沢栄一が導入した大型牧場の研究」矢澤好幸、酪農乳業史研究(2012)
『ミルクと日本人』武田尚子、中央公論新社(2017)

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