【青森・岩手編】
第1回 南部藩では江戸時代初期に搾乳していた

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

青森・岩手両県は本州の北端に位置し、寒冷な気候で冷害や凶作が多い地域です。そのため、お米やその他の農産物の生産性は低く、それをカバーするために、古くから運搬や農耕の用途で馬や牛が飼育される牛馬の産地でした。特に、南部藩では「南部牛」の生産が盛んでしたが、搾乳して乳を利用する酪農はまだ興っていませんでした。
こうした中、2名の偉人がこの地域の酪農に特筆すべき業績を残しました。一人は対馬藩の見習い僧だった規伯玄方きはくげんぽう (1588~1661)、もう一人は会津藩の藩士であった廣澤安任ひろさわやすとう (1830~1891)です。規伯玄方は、徳川吉宗が白牛3頭を嶺岡牧にて飼育する70年以上も前、南部牛から搾乳し盛岡城主に牛乳を飲用することを勧めました。一方、戊辰戦争に敗れた会津藩の小参事であった廣澤安任は移住させられた下北半島の斗南で、新しい日本を築くためには牛の乳を飲み、肉を食べ体位を増進させ国力を高めることが必要だと考え、西洋式の牧場を開設しました。
明治になると直ぐに、岩泉町辺りに、明治政府や岩手県、進取の気質の富んだ地主ら民間人によって、短角牛やホルスタインなどの洋牛が導入され、肉や乳の利用を目的に牛の生産がスタートしました。特に民間ベースによる洋牛の導入は日本の中でも極めて早い地域です。 こうして乳牛の飼育が始まると、徐々に搾乳や小規模な生乳の処理加工が始まり、乳業工場も誘致され、日本でも有数の酪農産地へと発展していきます。

第1回 南部藩では江戸時代初期に搾乳していた

江戸中期までの乳利用の歴史

日本における乳利用は、『新撰姓氏録』によると、645年にあった「大化の改新」のころ、百済からきた帰化人・智聡の子の善那が同年に即位した孝徳天皇に牛乳を献上したと記録されており、これが始まりと考えられています。牛乳は、どちらかというと薬として利用され、 当初は天皇に供せられていたものが、徐々に皇族を中心とした上流階級の人々に牛乳飲用が広がりました。
『政事要略』によると、朝廷は文武天皇時代の700(文武4)年に「貢蘇」の勅令を出し、元正天皇時代の722(養老6)年には蘇をひつ ではなく籠に入れて納めるよう指令しています。そして、日本で最古の医術書『医心方』(984年)には、「牛乳は全身の衰弱を補い、便通を良くし、皮膚を滑らかに美しくする」と古代乳製品の効用が解説されています。このように牛乳は平安時代までは貴族や高僧など上流階級の間で薬として飲用されていましたが、庶民にまで広がることはありませんでした。やがて、武士の台頭により鎌倉時代になると、実質的には忘れ去られてしまいました。その後、江戸時代に入り、1727(亨保12)年に、徳川吉宗が白牛3頭を嶺岡牧みねおかまき (現千葉県南部)にて飼育するまでは牛乳空白時代と考えられていました。

江戸前期に下北半島や岩手県北部で搾乳され、竹筒で盛岡に

しかし、1649~1651(慶安2~4)年に現在の青森県下北半島と岩手県北部で搾乳し、竹筒に入れて盛岡に輸送したとの記録があります(南部藩雑書、別名南部藩家老席日誌 図1)。本書によれば、1649(慶安2)年6月23日に「太田安右衛門、牛乳六筒、江刈・葛巻両所にて夏、飛脚にて参上し今日午後到着する」との記載があります。その後、1650~1651年にかけて10回以上の搾乳が行われ、盛岡城に運ばれました(表1)。しかし、1654(承応3)年と1662(寛文2)年には牛乳を江戸に送る指令が記載されていますが、盛岡へ送付したとの記録は見当たりません。したがって、南部藩にて搾乳され飲用されたのは短期間だけと考えられます。

※現在の西暦では1649年8月1日頃と推察されます

  • 図1 南部藩雑書 盛岡市中央公民館所蔵
  • 表1 慶安2~4年における南部藩の搾乳記録(南部藩雑書)
    五戸:現、青森県三戸郡五戸町
    田名部(たなぶ):青森県むつ市
    奥郡:南部藩の奥地

規伯玄方(方長老)が乳摂取を勧めた?

では、誰が城主に牛乳飲用を勧めたのでしょうか。岩手県の資料「みちのく悠々漂雲の記」によれば、規伯玄方(通称、方長老)であったと書いてあります(但し、南部藩雑書には記載されていません)。方長老は1588年に生まれ、対馬藩にて外交担当僧になるため見習僧として修業をしていました。当時、豊臣秀吉による朝鮮出兵で日本が最終的には敗れ、日朝関係は国交断絶の冷えた状態にありました。しかし、対馬藩は日朝貿易で益を得ていたので、日朝貿易を再開することは急務の案件でした。そこで、従来、朝鮮から日本へ国書が送られてきたのですが、対馬藩は日本から朝鮮に国書を偽造して送り、国交正常化がなされるよう目論みました。勿論、この行為を幕府が許すはずはなく、幕府に知られてはならなかったわけです。これにより日朝貿易が再開されたのですが、やがて対馬藩の国書偽造は幕府の知るところとなってしまいました。そこで、方長老が犯人とされ、幕府は方長老を南部藩に島流しとしました。南部藩は方長老を温かく迎え入れ、方長老は南部藩に様々な文化や技術を伝えました。方長老の指導で完成した庭は現存し(榊山(さかきやま)稲荷神社、写真1)、盛岡市の名所となっています。方長老は1658(万治元)年に釈放され南禅寺に移ります。
しかし、いくつかの疑問が残ります。
  • 写真1 方長老によって造られた庭。榊山稲荷神社(盛岡市)が管理している緑風苑。

謎-その1

第一に、搾乳は北上山地の北方であり、盛岡近郊ではありません。県南部(概ね北上山地以南)は優秀な馬の産地で牛はいなかったのでしょうか。そんなことはありません。「南部牛の姿を求めて」(牛の博物館)によれば、二戸に残されている奈良時代の遺跡からは牛の臼歯が発見され、奥州市や平泉の遺跡からも牛の骨や歯、あるいは水田に足跡が見つかっています。すなわち、県南にも牛が飼育され、農耕や運搬に利用されていたと考えられます。また、7~8世紀には和牛から搾乳し、蘇を製造したことから和牛でも十分搾乳することが可能です。しかしながら、なぜ近郊ではなく、盛岡から遠く、かつ交通が不便な県北部(北上山地)や下北半島にて搾乳されたのでしょうか。
恐らく県北の牛は何らかの理由で和牛より搾乳に適していた(乳量、乳質?)からだと推測します。前出の「南部牛の姿を求めて」によれば県北の牛、すなわち「南部牛」のルーツはロシア方面で、15世紀ごろ輸入されたとの説があるそうです。この説が正しければ、乳利用は約9000年~10000年前に西アジアで興り、インド方面とコーカサス方面に伝播したと考えられる(平田昌弘、「人とミルクの1万年」、岩波ジュニア新書、2014)のでヨーロッパにて搾乳実績のあると思われる牛、すなわち南部牛から搾乳させたのかもしれません。この謎についてはさらに調査する必要があります。
なお、純粋な南部牛の写真はありませんが、恐らく純粋であろうと考えられている南部牛が第一回内国勧業博覧会1877(明治10)年に出展された釜津田牛(現、岩手県下閉伊郡岩泉町)であり、その写生図(図2)があります。
  • 図2 第一回内国勧業博覧会に出展された釜津田牛の写生(東京国立博物館所蔵、内国勧業博覧会出品動物類写生)

謎-その2

第二は竹筒(推定 500mL~1L)に入れた牛乳を夏季(新暦で8~9月、表1)に盛岡まで運んで腐敗しなかったのでしょうか?
1651年7月25日(新暦で9月9日)に種市を出発し、牛乳を入れた竹筒5本を盛岡に献上した石橋八郎右衛門が8月3日(新暦で9月17日)頃帰着したという記録(南部藩雑書 第5巻)があるので、片道約3~4日程度と推測できます。平田(デーリーマン 2014年3月号64-65)によれば、インドネシアでは生乳を竹筒に入れて、しっかり封をして室温に置くと一晩でヨーグルトになるそうです。保存温度の違いはありますが、3~4日経てばヨーグルト状になった可能性が高かったと推測されます。
一方、竹は大腸菌に対しては抗菌作用を示さなかったが、黄色ぶどう球菌に対して抗菌作用を示したというデータもあります(https://www.activate-jp.com/tokucho/koukin/)。佐藤健太郎「関西大学東西研究所紀要 第45輯, 47-65、2012」によれば、長屋王家にて発見された奈良時代の木簡には牛乳を煮て納入した旨が記載されていたことから、これは推察ですが、江戸期も牛乳は加熱殺菌されて納入されていたのかもしれません。そのため、遠方にて搾乳された牛乳を加熱殺菌して輸送した可能性が考えられます。また、わざわざ腐りやすい夏場に輸送した理由として、牛の飼料となる草が豊富にあり、仔牛の繁殖期にあたる夏場は乳量が多く、乳質も優れていたためでしょう。

方長老が南部藩を離れた後の牛飼育はどう変化したのか

ところで、その後南部藩北部における牛の飼育はどのように変化していったのでしょうか。牛乳の飲用はなくなりましたが、牛の飼育は年々増加しました。正徳年間しょうとくねんかん (1711~1716年)になると、牛飼育に伴う苦情処理の申し合わせが成立したほどです(九戸地方史上巻、森嘉兵衛、1969)。八戸藩では享保6~8(1721~1723)年までに他領に輸出した牛は350頭に達しています。すなわち、藩の重要産物となったのです。さらに、寛政年間(1789~1801)になると沿岸部の野田村(岩手県九戸郡)で盛んに作られた鉄鋼を運搬したり、食料品、塩などを運搬したりするために「牛方」(牛を使って運搬する人)が活躍するようになりました。県北部は急峻な地形で、重たい荷物(牛1頭で約400kg)を運ぶには馬より牛が適していました。このため、物資運搬用としても重宝されるようになったのです。牛方は通常5~7頭の牛を隊列とし、リーダー牛を先頭に、最後尾に牛方が歩きます。リーダーには力のある牛が選ばれますが、それを選ぶための「角突き」が行われ、現在でも「平庭高原闘牛会」が行われています。野田岬から塩を運搬する牛を「野田べこ」と呼び、運搬道は「塩の道」と言われていました。現在では勿論使われてはいませんが、当時を偲ぶための「塩の道」トレッキングやウォーキングが行われており、当時の厳しい輸送の一端を想起できます(https://www.vill.noda.iwate.jp/soshiki/miraizukurisuishinka/ijuteijuhan/kanko/3/1460.html)。
執筆者:堂迫俊一
大手乳業メーカーの研究所長を務め、定年退職後チーズプロフェッショナル協会の理事や副会長を担当し、現在は顧問です。その他、酪農乳業史研究会の常務理事および「ミルク一万年の会」の世話人として活動しています。さらに様々な酪農・乳業関係の活動をサポートしています。専門は乳たんぱく質の利用技術で、最先端の現代科学をもってしてもなお解明できない乳たんぱく質の構造や機能、さらには生命の神秘であるミルクの謎に挑戦すべくこの世界に飛び込みました。酪農乳業史に関する研究の経歴はまだわずかですが、近代酪農乳業の発展史を技術屋の視点で眺めてみたいと思っています。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]