【福岡編】
第3回 明治時代創業の小さな乳業会社“柳川牛乳”の物語 ~藤島豊太郎一代記~ その3

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明治時代創業の小さな乳業会社“柳川牛乳”の物語 ~藤島豊太郎一代記~ その3

福岡県南の水郷のまち、柳川市にある株式会社柳川牛乳(以下、柳川牛乳)。明治時代中頃、牛をつれて佐賀・小城からやってきた藤島豊太郎が創業した歴史ある乳業会社です。柳川で牛乳の製造販売を行い、柳川の発展にも尽くした藤島豊太郎の半生を、当時の世相とともにご紹介します。
  • 藤丸善太郎の引き札(時期不詳 柳川古文書館所蔵)
豊太郎の牛乳を瀬高町(現・福岡県みやま市瀬高町)で藤丸善太郎が出張販売していた柳河藤島牛乳店の引き札。引き札は、今でいう広告チラシです。
お正月に配布されたのでしょうか、朝日をバックに烏帽子をかぶり、梅や鼓をくわえた鶴が舞い、また、「君が代は」「千代に八千代に」と書かれた短冊が鶴の足に結わえられている、とってもめでたい絵柄です。この写真ではわかりませんが、鶴の羽は立体的に印刷されており、豪華さを演出しています。

筑州畜産株式会社を設立

柳河町に移転してから20年後の1920(大正9)年3月4日、豊太郎は筑州畜産株式会社を設立します。登記簿によると会社の目的は「牛乳搾取販売及ビ之ニ附帯セル一切ノ事業」、資本総額は弐拾万円でした。
  • 筑州畜産株式会社の登記簿(履歴事項全部証明書)
設立当時の役員は次のとおり。代表取締役は豊太郎、取締役には、豊太郎と仲が良かった薬卸業者の江口又一郎、弁護士の龍野善太郎が名前を連ねています。
  取締役
   山門郡柳河町  藤島豊太郎
   山門郡沖端村  上野酉之助
   山門郡柳河町  江口又一郎
   山門郡三橋町  吉塚治吉
   山門郡城内村  龍野善太郎
  監査役
   山門郡沖端村  山本安次郎
   山門郡柳河町  野田渡
   三瀦郡大川町  中田清一

柳河新報にみる筑州畜産株式会社の軌跡

1903(明治36)年創刊の地元新聞『柳河新報』には、株式会社柳川牛乳の創業者、藤島豊太郎が1920(大正9)年に設立した筑州畜産株式会社の広告や牛乳に関する記事が掲載されています。柳川古文書館が所蔵している柳河新報を見ながら、筑州畜産株式会社の動きを見てみましょう。
  • 柳川市隅町、川下りのどんこ船が行きかう掘割の横にある柳川古文書館。筑後地域の貴重な古文書等の史料を収集、保存、展示する施設です。柳河新報社の最後の経営者、光行照太より寄贈された1903(明治36)年から1978(昭和53)年の新聞『柳河新報』を保管しています。
  • 謹賀新年広告(柳河新報 大正10年1月1日 8面)
豊太郎が筑州畜産株式会社設立後に迎えた最初のお正月、1921(大正10)年1月1日に掲出した新年のご挨拶の広告には、設立当時の役員の他に、獣医の松尾幹治、書記の木塚常一の名前が並んでいます。牛を飼い、牛乳を販売するにあたり、獣医師による診療を行うことができる体制であることを誇示し、信用を得る狙いがあったのではないでしょうか。
  • 第一回営業報告(柳河新報 大正10年1月19日 1面)
1920(大正9年)3月に設立した筑州畜産株式会社の第1回営業報告には、1920(大正9)年3月から12月までの純利益が7千円あまりと記載されています。損益計算書がなく、売り上げにかかわる費用はわかりませんが、資本金20万円と比較すると、純利益のうち4千円は配当金にまわされ、その利率は年1割2分ですので、けっこう儲かっている気がします。豊太郎は優秀な事業家だったということでしょう。
  • 牛乳壜の改良(柳河新報 大正10年3月5日 1面)
牛乳を詰めるビンを、従来の1合(180ml)入りから1合1勺(198ml)入りの「新式大壜(ビン)」に改良したことの告知が、1921(大正10)年3月5日の柳河新報に掲載されています。1合ビンだと蒸気殺菌する際に熱で膨張しあふれるというのが改良の理由ですが、このことから、この時代は牛から搾ったままの生乳をビンに詰めてから熱殺菌していたことがわかります。ちなみに、現在販売されている牛乳は、予め殺菌してからビンやパックに詰める方式ですので、あふれることはありません。
  • 藤島牛乳店のお盆(柳川古文書館所蔵)
柳川古文書館が所蔵している藤島牛乳店の名前、屋号・ロゴマークが入ったお盆の大きさは約30センチ×約20センチ。恐らく木製の漆塗りで、牡丹と2匹の蝶は金色の蒔絵です。左下には屋号「藤島牛乳店」が書かれており、屋号の上には、山のなかに「藤」を置くロゴマークも添えられています。
このお盆を保有していたのは、旧柳河藩の重臣だった由布家。その由布家と豊太郎の関わりを伺わせる記事が、1925(大正14)年1月31日の柳河新報3面に掲載されていました。「高山 鴨井 両博士 藤島氏邸へ来る」という見出しの記事は、九州大学の高山医科学長と鴨井教授が柳河地方の銘刀を調査したというもの。両博士はまず豊太郎宅を訪ね、所蔵の名刀を見た後に、立花伯爵家を訪ね、秘蔵の名刀を見るとともに、由布惟義と刀剣について話しています。
  • 柳河新報(大正14年1月31日 3面 両博士藤島氏邸へ来る)
記事には、数千振りの刀や貴重な古美術品を豊太郎が蒐集していたとあり、また、両博士が豊太郎宅から立花伯爵家に向かっていることからも、豊太郎と由布惟義は刀を通じた交流があったのではないかと考えられます。由布家が保有していたこのお盆は、そんな折に豊太郎から贈られたのではないでしょうか。
  • 藤島氏発見の新塗料特許となる(柳河新報 大正15年6月19日 3面)
また、1926(大正15)年6月19日の柳河新報3面に掲載された記事「藤島氏発見の新塗料特許となる」は、豊太郎が作った黒鉛鉱を原料とした塗料に特許が認められたという記事です。記事の冒頭、粗大のようだが凝り性であるという豊太郎の性格と、豊太郎が発明した牛乳飴、牛乳羊羹が好評であることが紹介されています。筑州畜産株式会社では飲用の牛乳だけでなく、売れ残った牛乳を有効活用した牛乳飴、牛乳羊羹も販売していたものと思われます。
  • 舌代(柳河新報 大正15年10月13日 3面)
柳河文化食料品組合が設立されたことをお知らせする1926(大正15)年10月13日の柳河新報3面に掲載された広告の最後に、名誉会員の「柳河牛乳本店 藤島牛乳配給所」が並んでいます。この広告から、会社名は筑州畜産株式会社ですが、屋号は藤島牛乳配給所を名乗っていたことがわかります。屋号の上に「柳河牛乳本店」とあるので、商品名が「柳河牛乳」で、他にも販売店があったようです。
また、右から4番目の「川野薬館食料品部」では、「森永ミルク」「森永ドライミルク」を取り扱っています。「森永ミルク」は森永製菓株式会社のブランド名であるとともに、森永製菓製造の国産練乳の商品名にも使われていました。「森永ドライミルク」は森永製菓株式会社が1921(大正10)年に発売した粉ミルクです。
なお、右から3番目の「梅花堂越山(ばいかどうこっさん)」は、江戸時代から伝わる「越山もち」が名物の老舗和菓子店。いまでも柳川市街の中心にお店を構えています。
  • 衛生牛乳(柳河新報 昭和4年1月9日 3面)
瀬高町下庄(現・みやま市瀬高町下庄)の「はやし薬局」が発売元となっている1929(昭和4)年1月9日の柳河新報3面には、「衛生牛乳」の広告が掲載されています。この「衛生牛乳」は近隣の牛乳搾取所が製造した牛乳に、はやし薬局が名前をつけて販売していた、いわば「はやし薬局のプライベートブランド牛乳」だった可能性があります。
時代がちょっと下りますが、福岡縣經濟部(現・福岡県庁)が1935(昭和10)年10月に発行した『福岡縣の畜産』の牛乳統計表(昭和9年)には、瀬高町に搾取営業者、牛乳搾取場とも存在しません。そのため、はやし薬局は牛乳搾取所ではなく、瀬高町外から牛乳を調達、販売した可能性が高いです。
次に、広告にある「鉄道指定」です。この時代、はやし薬局がある瀬高町と、衛生牛乳申込窓口の江口饅頭屋などがある柳河町は、軽便鉄道である柳河軌道で結ばれていました。広告にある「鉄道指定」とはその柳河軌道を指していると思われます。この柳河軌道株式会社は豊太郎と関係が深い会社ですので、他社の牛乳を指定するとは思えません。
つまり、はやし薬局の「衛生牛乳」は、柳河軌道の指定を受けて信用を得るため、筑州畜産株式会社の牛乳を採用、薬局らしい商品名をつけて販売したのではないでしょうか。
  • 立花伯の御容態(柳河新報 昭和4年1月9日 3面)
柳河藩の最後の藩主、立花鑑寛あきとも の子で第14代当主、立花寛治ともはる 伯爵の容態を、旧柳河藩民は心配し、回復を願っているという1929(昭和4)年1月19日の柳河新報3面に掲載された記事があります。記事で紹介されている立花伯爵のある日の食事内容は、「1日牛乳3合内外、オートミール、重湯」とのこと。立花伯爵が山門郡城内村(現・柳川市)で療養されていたこと、旧立花家重臣の由布家と豊太郎の交流があったと思われることから、立花伯爵に提供された牛乳は、筑州畜産株式会社の牛乳である可能性が高いと考えられます。オートミールを牛乳で煮るレシピがありますが、立花伯爵もそうやって召し上がったのでしょうか。この記事からも、当時の牛乳が病人食として重宝されていたことがわかります。なお、この記事の17日後、1929(昭和4)年2月5日に、残念ながら立花伯爵はお亡くなりになっています。
  • 牛乳請売販売(柳河新報 昭和7年4月23日 2面)
柳河町旭町の山崎操が、筑州畜産株式会社の牛乳を請け売りして配達することになったので、ご用命くださいという1932(昭和7)年の柳河新報2面に掲載された広告があります。当時は、乳業会社が自ら家庭に牛乳を配達して販売するほかに、牛乳専売業者(牛乳請け売り人)に卸して販売を任せるようになっていました。柳河にもこうした牛乳宅配業者が多くあったと思われます。
広告によると価格は1合6銭。1933(昭和8)年3月の師範学校卒業者の初任給46円30銭ですので6銭はその0.13%。福岡県公立学校の2025(令和7)年採用教職員の初任給が約25万円なので、0.13%は325円相当になります。敏速に配達してもらえるとはいえ、1合ビン325円はけっこう高い価格設定ですね。それだけ牛乳は貴重なものだったということでしょう。
【協 力
 株式会社柳川牛乳(福岡県柳川市隅町47)
 藤島家及び江村家の子孫の皆さま
 柳川古文書館(福岡県柳川市隅町71-2)
  https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/rekishibunka/shisetsu/komonjyo/
 日本経済大学経済学部経済学科 竹川克幸教授
  https://www.jue.ac.jp/professor_fukuoka/katsuyuki_takegawa/
 【参考文献】
  柳河新報(柳川古文書館所蔵)
   大正10年 1月 1日 8面
           19日 1面
         3月 5日 1面
     14年 1月31日 3面
     15年 6月19日 3面
        10月13日 3面
   昭和 4年 1月 9日 3面
           19日 3面
      7年 4月23日 2面
  森永製菓株式会社 公式サイト
   https://www.morinaga.co.jp/
  梅花堂越山 公式サイト
   https://baikadoukossan.com/
  福岡縣經濟部「福岡縣の畜産」昭和10年10月発行
  立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
   http://www.muneshige.com/
  岡山県立図書館電子図書館システム「デジタル岡山大百科」昭和8年の教員の給与
   https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/detail-jp/id/ref/M2016071813464180240
  令和7年度福岡県公立学校教員採用候補者選考試験実施要項
 
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:近藤裕隆
福岡県職員、牛乳パックコレクター、九州鶏すき学会主任研究員、和菓子研究者、普及指導員として酪農家支援を行っていたころ、消費者が求める牛乳の姿を理解するために牛乳パックの収集を開始。平成17年の消費減退と乳価下げを受けて同僚と行う牛乳消費拡大活動のひとつとして、牛乳パックを紹介するブログ「愛しの牛乳パック」を開設しました。以来、「酪農・牛乳にかすればOK」という柔軟な編集方針のもと、酪農・牛乳関連情報の発信を続けています。とはいえ、毎日更新はタイヘンw

ブログ 愛しの牛乳パック   http://blog.livedoor.jp/ftmember/
    普及畜産チャンネル  http://blog.livedoor.jp/fukyuu/
    朝倉2号の楽しき日々 https://chspmomo2.yoka-yoka.jp/
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事 関連著書:「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]