【福岡特別編(嚆矢編)】
明治5(1872)年。福岡県で初めて開設された中原嘉左右の搾乳場

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明治5(1872)年。福岡県で初めて開設された中原嘉左右の搾乳場

中原嘉左右の日記から明治初期のミルク利用を確認できる

わが国における乳牛の飼育・搾乳や牛乳の製造・販売は、 安政6(1859)年からの「安政の開港」で開港場となった神奈川(横浜)、箱館(函館)、長崎、兵庫(神戸)、新潟の外国人居留地に住む外国人の間でミルクの需要が起こり、これに対処するため、外国人貿易商などによって乳牛が導入され搾乳場が開設されることによって始まったと言って良いでしょう。これらの地域から、明治時代になって、乳牛の飼育・搾乳や牛乳の製造の技術が伝わり、牛乳搾取業として、地方都市部にも広がっていきます。こうした中で、福岡県では、いつ頃から牛乳搾取業が起こったのでしょうか。
わが国で、乳牛の飼育や牛乳の生産量に関するデータが公表されるようになるのは明治18(1885)年からです。他のコラムでも掲載しましたが、「福岡県統計書 明治19(1886)年」にある「牛乳搾高」の明治18(1885)年のデータを見ると、唯一、那珂郡春吉村(現・福岡市中央区春吉周辺)で17頭の乳牛が飼育され、59石690合(約11キロリットル=11トン)の乳が生産されていたことが分かります。したがって、明治18(1885)年以前に、那珂郡春吉村以外で乳牛飼育が行われていなければ、那珂郡春吉村が福岡県で最初の牛乳生産の地となります。しかし、実際には、この那珂郡春吉村以外の2箇所で、明治18(1885)年以前に搾乳が行われた記録が残っています。
  • 「福岡県統計書 明治19年」にある「牛乳搾高」
一つは、明治5(1872)年に企救郡恒見村(現・北九州市門司区恒見町)に牧牛場を設置して搾乳場を始めた中原嘉左右です。もう一つは、明治12(1879)年に御井郡篠山町(現・久留米市篠山町にある篠山小学校の敷地内。写真は小学校の石碑と校庭で、この校庭に牧牛場があったと思われます。)に、武士の失業対策で作られた共救社によるものです。
これらの記録に頼ると、福岡県で始めて乳牛が飼われ搾乳が行われたのは、明治5(1872)年で、現在の北九州市門司区であることになります。
  • 現・久留米市篠山町にある篠山小学校敷地内の石碑と校庭
このコラムでは、福岡県の牛乳搾取業の嚆矢となった、中原嘉左右かぞうの牛乳牧畜業のことについて紹介したいと思います。
中原嘉左右は、天保2(1831)年に小笠原藩の城下町である豊前国小倉の城下に生まれました。12歳の頃に、本家筋に当たる豪商「中原屋」の養子として迎えられ、安政4(1857)年に中原屋の11代当主となります。中原屋は、飛脚問屋を本業としながら廻船業も営み、米や雑穀などを中心に様々な商品を大阪、兵庫、博多、長崎などの港町と取引をしていました。中原屋の当主となった嘉左右は、意欲的に事業を発展させ、「家業の飛脚問屋のほか小倉藩の御用商人、藩の商法方の世話もした幕末期藩財政の支柱的人物」1となりました。その勢いで、小倉に駐屯していた軍隊との取引、さらには石炭産業に乗り出し大きな財を成しました。2 また、明治維新の影響を強く受け、当時は珍しい西洋の品々を、長崎などから幅広く仕入れて販売しました。
なお、嘉左右は、慶応4(1868)年4月1日から亡くなる前日の明治27(1894)年10月20日まで、中原屋の業務日記を書いています。この日記は、主に小倉に関する政治や経済、風俗や町の様子、庶民の生活ぶりを知るための貴重な手がかりとして、「中原嘉左右日記」(写真)3 の名前で県の有形民俗文化財として指定され、北九州市市立自然史・歴史博物館に保存されています。4 この中原嘉左右日記の記録の中に、牛乳やバターの販売、また自ら牛乳を生産するための牧場の建設や運営などの記録が残っています。
  • 中原嘉左右日記

明治維新前後、輸入バターや牛乳(練乳)を長崎から仕入れて販売

中原嘉左右日記の中で、ミルクに関連した記録として最も早く出てくるのが、バター(ボヲトル・オランダ語)のことです。八幡丸古三郎という人(八幡丸は船の名前でしょう)が長崎に行くので、その人を通して品物を注文しており、その中に「ボヲトル 壱瓶」が入っています。慶応4(1868)年の8月4日の日付です。この記録だけでは、仕入れた「ボヲトル」が、長崎でバターが製造されていたのか、それとも長崎に居住していた外国人が海外から持ち込んだのかはよく分かりません。
ちなみに、当時の長崎におけるミルクの生産については、「長崎県実業案内」(第十四回西南区実業大会事務所,明治42年9月)の畜産の頁に、「搾乳牛の公許を受けたるは文久の頃下長崎村小島郷堤延太郎氏を持って嚆矢とする仝人は明治初年に至り大浦居留米人より乳牛(短角種)牡牝二頭を購ひ斯業の発展を計る傍ら蕃殖を為さしめたり之れ本市に於いて外国種牛の始めなり」とあります。これが事実とすれば、堤延太郎という人は、文久年間の1860年代から搾乳を行っていた訳ですので、堤延太郎からバターを仕入れた可能性を否定できませんが、日本人によるバター生産としては少々時期が早すぎると思います。
さらに、明治2(1869)年3月9日の日記には、行司村の福田芳洲という人が長崎に行くので品物を注文したとあり、その目録の中に「ボヲトル壱瓶(掛目八十目)」が入っています。ここでいう「目」という単位は匁(3.75グラム)を略したものですので、「掛目八十目」はちょうど300グラムとなります。この福田芳洲という人は医者で、中原嘉左右日記に良く出てきます。医者として長崎に薬などの買い付けに行っていたようで、そのついでに中原家の商いの手伝いをしていたのだろうと思います。当時、牛乳やバターは滋養や精気を高める薬として認識されていた訳ですから、その商いに医者が関わっていたのも納得ができます。
なお、長崎からの乳製品の仕入れは、当初はバター(ボヲトル)だけで、牛乳の仕入れ記録が出てくるのは明治3(1870)年6月になってからです。6月18日の日記に、平井大参事という人から注文があり、急遽、牛乳十罐を買い付けに長崎に行ったとあります。
「中原嘉左右日記」をもとにして書かれた「明治の北九州」(米津三郎、小倉郷土会,1964)には、この頃の嘉左右の食べ物に関する取引の状況が次のように記されています。「食物としては長崎から塩豚を取り寄せており(明治二年以降)これは中原のみならず当時の藩庁5の幹部連中にも配っている。パン、西洋からしなども同時に送って来られ、牛乳は相当に用いられていたようで、藩庁 の幹部連中からの注文で、これも時には態々飛脚を立てて十罐、二十罐などと持ってきている。代価は明治三年で11罐が一両程度だった。真夏の六月に長崎に牛乳をとりに行っているが、片道少くも四、五日を要する行程から見て、これは輸入物の煉乳であると考えるのが妥当である。明治五年になると大阪からビールを取り寄せている。ビール二樽、一樽は四十八本入り九両である。これも藩庁平井大参事の注文によるものである。」
この文章の中の文末に「平井大参事」の名前も出ていますので、販売先は藩庁の高級官僚達であったようです。また、牛乳については、輸送にかかる時間から「輸入物の練乳」ではないかを推測していますが、これには筆者も同感で、従ってバター(ボヲトル)も輸入物と考えた方が良さそうです。
明治3〜4(1870〜71)年の日記には、牛乳(練乳)やバター(ボヲトル)を頻繁に販売した記録が残っています。嘉左右は、こうして長崎から仕入れられた牛乳やバターなどを小倉城下で販売し徐々にミルク類の利用が地域内に広まっていったのだと思われます。

明治5年に牧牛場を設置して搾乳業を始める!

明治5(1872)年以降になると、嘉左右の長崎からの舶来物の買い付けや販売は、ほとんど日記に記録されていません。従って、輸入物の牛乳(練乳)やバター(ボヲトル)の販売も少なくなっていったものを思われます。この時期、長崎貿易の比重が減少し、神戸や横浜との取引が増えています。明治維新後、神戸や横浜の国際貿易拠点としての機能が強化されたことや小倉までの輸送が発展していったことが背景にあるのでしょう。
こうした中、嘉左右は、明治5(1872)年に、豊前海を望む「豊前国第一大区三小区恒見村字遠郷山」(企救郡恒見村遠郷山・現在の北九州市門司区恒見)に牧牛場を開設して搾乳業を始めました。ミルク類の需要が多くなったので、長崎から仕入れた舶来品ではなく自分で牛を飼って搾乳し、それで牛乳を製造して販売することにしたのでしょう。この明治5年の中原嘉左右による牛の飼養と搾乳、牛乳の処理と販売が、福岡県における初めての牛乳搾乳場の開設と考えられます。それは明治9(1876)年10月15日の日記の記録で確認できます。なお、農商務統計表第2次(明治18年)に、明治16年時点の全国の牧場名(第12表)が記載されており、その中にも恒見村牧場(牧主・中原嘉左右)があります。「着手」年月は明治5年6月で、これは全国でも一二を争うくらいに早い牧場開設です。牛の頭数は、内国種の牝53頭・牡3頭、外国種の牝2頭・牡1頭となっています。
明治9(1876)年10月15日の日記には、福岡県令・渡辺清に対する要望書二通(牧場も上手くいっているので一度視察に来て欲しい旨の要望書、福岡県が所有する洋牛の種牛を牧場の牛に種付けしたいので貸して欲しいという要望書)、並びにそれに対する福岡県からの返答書(視察に来て欲しいという件は聞き届けた旨の返答書、洋牛種牛については貸すのは難しいが種付けは聞き届けた旨の返答書)の内容が記録されています。このやり取りからも、開設して4年後になる嘉左右の牧牛場の経営が順調であることが推察されます。
福岡県による牛牧場の視察は、明治9(1876)年10月22日に実施された模様で、支所の課長・小山大属氏と担当の丹村氏が、「大里迄人力車、夫より鹿峠越恒見着、夫より船二而牧場之下二着船、牧場遠郷山不残検査」したとあるので、この牛牧場が岬の先にあり、船を使って移動したことが分かります。
なお、嘉左右の日記には、明治7から20年(1874〜1887年)ごろまで、牧牛場や牛乳所のことが頻繁に出てきます。それによると、牧牛場の規模は、明治7(1874)年12月には56頭にまで乳牛が増え、その年の繁殖頭数は25頭とあります。
北九州市門司区恒見町の遠郷山はもともと石灰が取れる山で、中原嘉左右の牧牛場廃業後は石灰石の採掘が行われたようです。その名残が残っています。バス停もありましたが、バス停の名前は消えていて読めませんでした。150年前は日本の近代化を象徴するような場所でしたが、その跡は何も残っていません。
  • 中原嘉左右の牧牛場があった現在の遠郷山付近
遠郷山の牧牛場で育てられた乳牛は、小倉城下の小姓町(現在の小倉北区堺町1・2丁目・紺屋町)の牛乳所で搾乳された模様です。その牛乳所の牛乳の頭数は明治10(1877)年12月では、牝牛4頭、仔牛4頭で洋種はいないと記録されています。牧牛場による乳牛の購買や売却、貸付や預けなどの記録も頻繁に出てきますので、上述の牛乳所以外にも牛乳所が複数あったのかも知れませんが、日記の記録では具体的にこれらを特定できません。
牛乳所で働く労働者の給料なども記録されており、明治11(1878)年12月7日の日記には、牛乳所掛の社員・卯三郎に10月・11月の2ヶ月分の給料10円を支払った記録があります。その一方で、明治17(1884)年の8月1日に日記には、牛乳所の牛飼い・搾乳をさせるために雇用した人に対しては給料1ヶ月50銭となっています。なお、「但、汐入草刈、一切引受サセ候事」となっていますので、餌にする草を近くの汐入(海岸に近い川や沼など)の周辺で刈っていたことが記録されており、当時の乳牛の飼育状況の一端がわかり、貴重な記録です。
また、牛乳の販売先ですが、明治17(1884)年8月18日の日記に、「鎮台営所病室江牛乳十七日より納方二付、営門出入鑑札壱枚、本日被下候事」とあります。軍隊の病院に牛乳を届けるために、軍隊への出入りの許可証をもらったことがわかります。小倉には、不平士族による佐賀の乱(明治7年・1874年2月)の直後の明治8(1975)年、福岡県内で初めての歩兵連隊として、歩兵第14連隊が小倉城内に設置されました。この歩兵第14連隊は明治10(1877)年の西南戦争に従軍します。連隊の場合、通常3000名くらいの規模ですので、きっと病院規模も大きく牛乳需要も多かったと思われます。

なお、中原嘉左右の牛乳所が販売する牛乳には、刻印が押されていたことが、明治10(1877)年6月27日の日記に記録されています。
こうして、福岡県で初めての中原嘉左右の牛乳搾取業は順当な発展を遂げていきました。
しかし、中原嘉左右日記では、徐々に牧牛場や牛乳所の記録が少なくなり、明治21(1888)年には記録が1件、明治22(1889)年には記録がなくなります。昭和49(1974)年に発行された米津三郎の校註付きの12巻の「中原嘉左右日記」復刻版の解題(第8巻)に、明治21(1888)年から22年の間に、中原嘉左右の牛乳牧畜事業は廃業になったと書かれていますので、明治5年の牧牛場開設から17年程度で中原嘉左右による牛乳搾取業は歴史を閉じることになりました。その理由や背景は良くわかりませんが、その頃になると、小倉周辺でも牛乳搾取業を営む人々が増えていきますので、厳しい競争によるものかも知れませんし、後進に仕事を譲るという考えだったかも知れません。また、中原家の石炭業は、軍隊が炭鉱を管理したり、東京や大阪の大手資本が本格的な石炭産業に参入したりする中で、徐々に、経営が衰退していったようですので、そうした経営上の影響も避けられなかったのでしょう。
 【参考】
 1   北九州市WEBサイト【県指定】中原嘉左右日記
    https://www.city.kitakyushu.lg.jp/contents/02100219.html (閲覧:2024年7月23日)
 2「商機をつかんだ男たち〜明治実業家列伝」、東海総研マネジメント- management 8月(90)、
    東海総合研究所、1995-08、p32-34
 3   https://www.city.kitakyushu.lg.jp/contents/02100219.html(2025年10月6日閲覧)
 4「福岡百年 上」,読売新聞社西部本社編, 1967、p241-245
 5   1868(明治元)年に、明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領として府・県に編成した際に、「藩」は新たに
  大名領の公称として採用され正式の行政区分名となった。1871(明治4)の廃藩置県により藩は廃止され
  府県制となった。
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執筆者:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]