【北海道 函館・道南編】
第1回 港町の酪農ことはじめ ~函館~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第1回 港町の酪農ことはじめ ~函館~

搾乳に驚いた日本人

北海道がまだ蝦夷えぞ 地と呼ばれていた幕末の1857(安政4)年4月、開港前の函館(明治維新前の表記は箱館)に降り立ったひとりのアメリカ人は、期せずして、酪農史に名前を残すことになりました。エージェント(貿易事務官)を名乗ったこの男性、E.E.ライス(Elisha E. Rice)が箱館奉行所から牛をもらい受けて乳を搾ったのが、北海道における搾乳のはじまりとされています。
とりあえずの宿舎として浄玄寺別堂に落ち着いたライスと奉行所(織部正、奉行の堀利熙としひろ のことです)の間のやりとりが「幕末外交関係文書」に残っています。現代語訳すると、こんな具合いです。

ライス「牛は政府が禁止しているから、お願いしても無理でしょうが、牛乳を何とか供給してもらえませんか」
奉行「事情はわかりますが、乳の取り方がわが国では不案内でして。近々何とか…」
ライス「子牛と母牛をともに連れてきてもらえれば、自分で指図して搾ります」
  • 安政五年写亜美利加来使ライス箱館応接録絵図(函館市中央図書館所蔵)
牝牛が渡されたのは4月20日で、翌朝に搾ると話したことが箱館奉行の公務日記にも記されています。粘り強く日本側と交渉を重ねたライスは、同年8月にアメリカ船に牛2頭を提供させ、10月には奉行所から生きた牛の引き渡し許可を引き出しました。将を射んとすればまず馬を、ならぬ、牛を得んとすればまず牛乳を、の戦略はまんまと成功したようです。
初めて搾乳を目にしたひとびとの驚きぶりについては、1859(安政6)年に着任した初代英国領事のC.P.ホジソン(Christopher Pemberton Hodgson)の滞在記にも克明に記されています。記述によれば、「好奇心にかられた群衆を遠ざけるために、二人の日本の役人がつきっきりでいなければならなかった」。牛乳が部屋に運ばれ、子牛を母牛のもとに戻したときの日本人の大きなリアクションを実況さながらに伝え、「これまでこの有用な必需品を彼らが発見していなかったことは明白であった」。当時は子牛にまず飲ませてから搾っていたことも、記述からわかります。滞在先の称名寺しょうみょうじの和尚も「最後には」お茶に牛乳を入れて飲んだ、ともあります。いや、私は結構、と何度も断ったが、しまいに断りきれなくなったのかも?初ミルクティーはお口にあったでしょうか。
ライスが別堂に滞在した浄玄寺は、現在の弥生小学校付近にありました。1876(明治9)年7月、明治天皇による初の行幸の行在所あんざいしょ となり、視察に訪れた七重官園(勧業試験場)で献上された乾酪(チーズ)などの乳製品を、明治天皇が召し上がったのもこの界隈だったかも知れません【=写真】。1879(明治12)年の大火によりこの界隈は焼失し、当時の面影はありませんが、ひとびとが行き交うお寺の境内で、異文化体験が繰り広げられたのですね。
  • 官許/箱館全図 万延元年《部分》1860年。函館市中央図書館所蔵
    現在の函館市立弥生小学校近くにあった浄玄寺の敷地内に「亜人宿所」の文字が見える。
    御役所と呼ばれた箱館奉行所のすぐそば
  • 明治9年の行幸の行在所だったことを記した弥生小学校前の石碑。
    ライスが滞在した浄玄寺別堂は道路を挟んだ煉瓦造りの中華会館のあたりと聞いた

牛乳の需要生まれる

1859(安政6)年の開国以降、ロシアと英国の領事やドイツなどの商人、下働きの清国人も続々と入国、港町函館には外国人コミュニティが形成されました。明治を待たずして、蝦夷地には牛乳の需要が生まれています。 外国船からの度重なる求めに、1858(安政5)年には、箱館奉行所が南部藩から牛50頭を買い入れて、近郊の軍川いくさがわ で牧牛場を開きました。残念ながら、大雪による餌不足、熊の被害など管理が行き届かず、まもなく廃止になりました。牧牛場の牛は七重村の峠下に移されて農家が飼養しました。1859(安政6)年には5頭26両で函館台場に売却、1862(文久2年)には236頭に増えたなどの記録があり、これを契機に地域に畜産が根付いていきます。
牧牛場の担当だった薩摩藩士の肝付七ノ丞(兼武、海門)が慶応年間に、雇い人武田忠蔵に牛乳4合瓶1本を搾らせ薬用として売ったことが、郷土史の古い本に出ています。この時の牛乳の値段は1分でした。武田の月給が3分だったということですから、月給の3分の1とは大変な高値です。外国人がふっかけられたということでしょうか。
維新後の1870(明治3)年、ロシア人ピョートルが、自家用と在住外国人のために「乳牛を本国より輸入し」牛乳販売を行い、1872(明治5)年には大沼庄助が牝牛3頭を搾乳し、販売を始めたとか。1878(明治11)年には開拓使函館支庁の厩舎に2頭の乳牛が送られ、1881(明治14)年には住民の要望を受けて函館近郊にあった農業試験場・七重官園(農工事務所)の出張所も開設され、生乳販売が広がりました。同じ時期のものと見られる牛乳販売を示す古文書が、函館市の博物館に所蔵されていました【=資料】。
  • 【資料】牛乳販売の受取証の控え(市立函館博物館所蔵)
    場所請負人栖原家支配人田中小右衛門の古文書に含まれていたもの。田中の在任時期から明治2~14年のものと考えられる。5月から7月の月末に、牛乳代を領収した旨記され、金額は62銭、60銭、62銭。
    毎日一定量を1日2銭で買ったと考えられる。署名は松本卯三郎、外国船の水夫として勤務していた

バターを味わう

1878(明治11)年7月、初めての「蝦夷えぞ 」出張で函館に着いたE.モース(Edward Sylvester Morse)は、ご機嫌でした。東京と違う涼しい風、そして海峡の景色。何より、函館の滞在先となったデンマーク領事の住まいが、たいそう快適だったようです。「毎日正餐にはいい麦酒ビール一本とビーフステーキ—これ以上人間は何を望むか」。日本の風俗を豊富な挿絵とともに記録した日記「日本その日その日」に書いています。後日、本業の貝類の調査に訪れた小樽で、あわびやホタテ、雲丹など海の幸でもてなされますが、テンションは上がりません。「土地の人達は海から出る物はなんでもかでも、片っ端から食うらしい。私は今や、函館と、パンとバタから100マイル以上も離れている」。函館では食卓にバターがあったということがわかります。当時、流通していたバターは輸入ものだったと思われます。1875(明治8)年6月30日締めの、函館における貿易状況の記録のなかに、アメリカから輸入されたバター493ポンド(約222キロ)があります。価格120円90銭、関税は6円15銭でした。
幕末、軍川の牧牛場設置にたずさわり、維新前夜の1867(慶応3)年に幕府の外交官としてパリに滞在した元医師の栗本鋤雲が、輸入のバターについて次のように記しています。
ボートル(バターのオランダ語)の類は、西洋で食べると極めて美味で、1日もなしで過ごせないほどだが、紅海より東に輸出する時は腐敗しないように加塩され、臭悪で一さじ もなめたくない。「この他飲食、かの国にありてははなは だ美にして、我が国に輸来すればこと に美ならざる類、すこぶ る多かるべし」、つまり現地で食べるフレッシュなバターは非常に美味でも、輸入されたものは不味い、ということ。輸送や冷蔵技術あってこそ、おいしい乳製品が食べられるのだと今さらながらに気づかされます。バター本来の美味しさは、サムライをも魅了したのですね。

港に佇む牛たち

臥牛山と呼ばれる函館山を背景に、街並みを写した5枚一組のパノラマ写真【=写真】。そのガラス原版が、函館市中央図書館で発見されたのは2011年のことでした。原版をデジタルスキャンした高精細の画像を拡大することで、当時の街並みを細部までチェックすることが可能になりました。1878(明治11)年と翌年の大火後に建った倉庫街、手前にいるのは…牛です!黒い牛は外国船に販売されるのを待っていたのかも知れません。
  • 明治15年函館全景(函館市中央図書館所蔵)
  • 同《部分》
1884(明治17)年、函館で牛乳生産者が増加したことが農商務卿の報告に出ています。1887(明治20)年9月15日の函館新聞によれば、市中の牛乳販売業者は七重出張所、笹村、小林、石井、健全社、長谷川、鈴木と7軒あり、それぞれ数頭、合わせておよそ40頭の乳牛が飼育され、日に7斗(126リットル)を搾乳していました。計27人の配達人が日に3度、街中を駆けめぐり、売れ行きは前年比3倍でさらに増える見込みである——と伝えています。さて、この頃、何が起きていたのでしょうか?
函館市史によれば、1879(明治12)年から1890(明治23)年において、毎年6月から9月に函館に寄港した軍艦は少ない年で10隻、多い年は20隻以上に及びました。最も多かったのはイギリス、次にフランス、ロシア、ドイツでした。清をはじめアジア諸国が次々に列強の植民地にされた当時、水兵たちの夏の休養地となった函館港は特需に沸いていたのです。
地元の新聞は、このビジネスチャンスを詳しく伝えました。1887(明治20)年8月に停泊したイギリス軍艦に販売した需用品の最高額は、イギリス人トムソンの7000円余りで、その内訳はパン6万斤余、牛肉5万斤、活牛77頭、青物(青果)2万5千斤余だったとか。翌1888(明治21)年の夏には、イギリス東洋艦隊の軍艦12隻が入港、2530人が2か月逗留し、パン屋や肉屋はまさに書き入れ時で、その間は店頭販売を休み、売り上げは半年分にも達したそうです。
パン6万斤!これに合わせて、牛乳のみならず、バターの需要も増加したでしょう。この商機を見逃す手はありませんね。同年11月15日の函館新聞の記事「七重製のバタとミルク」は、その機が熟しつつあったことを伝えました。函館郊外の七重官園のバターは素材と製法が良いため「風味非常に美なり。バタの如きハ塩味極めてうすく臭味すこしもなく」、これに慣れると「塩辛き舶来バターは風味なく」、洋食店でテーブルに置かれたものには手が出ない。記者はきっと、バターを試食させてもらったんですね。記事には、金森洋物店で近く販売の見込みで、値段はバター大缶45銭、ミルクと呼ばれていた煉乳は1缶23銭とありますが、ここまで来るには関係者の並々ならぬ苦労がありました。次回は、明治初期から国産の乳製品づくりに挑んだ七飯町に向かいます。
  • 初期の道内産バターが販売された旧金森洋物店。現在は郷土資料館になっている
 【参考文献】
東京大学史料編纂所編「大日本古文書 幕末外交関係文書之十五」1922年/1985年復刻
葉済 保裕・飯倉 章「イリシャ.E.ライスに関する幕末英文史料—日米相互の理解と誤解をめぐって—」城西国際大学大学院紀要第21号、2018年
「ホジソン長崎函館滞在記」新異国叢書 1984年
「村垣淡路守範正公務日記」(函館市中央図書館デジタル資料館)
E.S.モース、石川欣一訳「日本その日その日2」1970年
小野寺龍太「栗本鋤雲 大節を堅持した亡国の遺臣」ミネルヴァ書房 2010年
「幕末維新パリ見聞記 成島柳北/航西日乗・栗本鋤雲/暁窓追録」岩波文庫 2009年
函館日米協会編「箱館開化と米国領事」北海道新聞社 1994年
「函館市史」(デジタル版、書籍は1974年発行)
「函館市史 年表編」 2007年
小沼健太郎「新聞に見る明治の函館」1990年
秋田俊一「栖原角兵衛の業績に関する覚書」 札幌大学女子短期大学部紀要14 1989年
吉田理「萩を動かす人々 上巻」1936年
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]