【北海道 函館・道南編】
第2回 農業技術はここから ~七飯~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第2回 農業技術はここから ~七飯~

ガルトネルのまいた種

「牛乳は専ら仔牛の養育に供し、其の残余を以て乳酪、粉乳を製造せり、これを製乳の濫觴らんしょうとなす」。(北海道庁種畜場沿革史、明治33年、七重分場の部より引用)
濫觴とは、はじまりのこと。北海道で初めてバターや粉乳などの乳製品製造が試みられたのは1873(明治6)年、場所は函館近郊の七重村(現在の七飯町)にあった七重官園(開墾場、のちの勧業試験場。短期間に組織替えで名称が何度も変わったため、官園で統一します)でのこととされています。なぜこの場所が選ばれたのか?それは函館駐在のプロシア副領事C.ガルトネルの兄のR.ガルトネルと榎本武揚(釜次郎)の取り決めにより、この場所において幕末からすでに洋式の農具を導入して農場開発に着手していたからです。戊辰戦争中の1869(明治2)年、榎本と箱館奉行所によって、300万坪を99年間にわたって貸し付ける契約が結ばれます。オランダ留学経験者で国際派の榎本が意図したのは、ヨーロッパの先進農業を日本人が実践的に学べる場をつくること。「蝦夷地七重村開墾條約書」によれば、有志12人、農夫50人を3年交替で入れる計画でした。
明治の新政府は、ドイツ人の入植地となるとの安全保障上の懸念から62,500ドルという巨額の賠償金を支払って、この契約を白紙に戻します。インドや清が欧米列強に植民地化されていた時代、自国民を守るためと派兵が正当化され、侵略されるリスクを考えれば、背に腹は代えられないとの思いだったのでしょう。
1873(明治6)年、E.ダン(Edwin Dun)がアメリカから連れてきたダルハム種、デボン種の牛が七重に移されます。ここ七重官園には牛馬舎、搾乳所が整備され、「現術生」と呼ばれた見習い生が、家畜飼養や家畜を使った農機具の使用法などを学びました。現代の農業試験場や技術普及の役割を担ったのです。開拓使長官の黒田清隆の出身地である薩摩の元士族が多く勤務し、職員の集合写真には男性たちが並んでいますが、1882(明治15)年の組織再編時の引継ぎ文書の人員リストの末尾には、「酪婦 名、月給十八銭」とありました。乳搾りか乳製品づくりか、当時から女性も作業を担ったことがわかります。
  • 開拓使官園 1880年頃。セーラム・ピーボディ博物館所蔵
    「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」1985年より
  • 七重村官員整列ノ図 1877年。北海道大学北方資料データベース

乳加工に挑む

米国の農務局長で開拓使の最高顧問となったH.ケプロン(Horace Capron)は、1873(明治6)年9月1日に七重官園を視察します。その日の日誌には、「ここで、冷えた濃い、素晴らしいデボン種のミルクと、米の煮たのを一杯ごちそうになる。これには全く驚くが、いったいこれ以上気分をさわやかにするものがあるだろうか」とあります。ご飯と冷たい牛乳の食べ合わせはさておき、北海道牛乳のおいしさが記録された記念すべき日と言えるでしょう。
初期の乳加工は牛乳をトロ火で煮詰めて乾燥させた「白牛酪はくぎゅうらく 」だったといいますが、1875(明治8)年、鷲印の名で広く流通していた米国のボーデン社の缶入り煉乳を手本に、煉乳の試作が始まりました。牧牛、乳製品担当は、田中勝次郎、大山重武らでした。農閑期の冬、特製の厚い青銅の鍋を石づくりの七輪にかけ、朴木ホオノキ 製の攪拌箆かくはんべら でかき回して煮詰めたとか。薬品を加えるなど試行錯誤を重ねますが、乳糖が粗く結晶してなかなか上手くいかず、苦心が実ったのは、改良された井上釜を使うようになった1885(明治18)年10月以降と言われています。
1887(明治20)年12月15日の函館新聞は、七重の技師大山重武が製造したバターが、函館に入港した各国軍艦や「神奈川県御雇工兵大佐パーマー氏」に賞賛され、長崎に転任したロシア領事もわざわざ取り寄せたと報じました。記事は国内需要に応じられれば輸入を置き換えられるが、多量に製造できず、多数の注文に応じられないのが残念—と続きます。ちなみに、パーマー氏とは、横浜で日本初の上水道建設を陣頭指揮した英国の工兵少将H.S. パーマー(Henry Spencer Palmer)と見られます。

乳製品を献上

1876(明治9)年7月17日、若き明治天皇が初めて北海道を訪れ、七重勧業試験場を視察します。北海道庁の『明治天皇御巡幸記』によると、午前10時から牛馬や農業機械の実演を視察した後の昼食時に、「当場産の粉ミルク・乾酪かんらく ・ボートルアイスクリーム各一瓶・鮭燻製半本、豚火腿一本・苺・カーレンツを献ぜしに、行在所へ差出すべき命あり、直に送致せり」とあります。乾酪はチーズのこと、ボートル(ホートル)はバターのオランダ語です。スモークサーモンにハム、イチゴ…なかなか気の利いた品々ですね!
明治天皇がその場で召し上がったのかどうかは記録にありませんが、北海道立文書館に保管されている宮内省内膳課の同日付の受領文書に「粉ミルクと乾酪、ホートル、鮭臘乾らかん 、豚同断」とあり、乳製品が贈られたのは確かのようです。アイスクリームの記載がないのは、もしかして、溶けてしまう前に、その場で召し上がったからでしょうか?
北海道立文書館に所蔵されている膨大な開拓使の古文書の中に、1874(明治7)年に七重からチーズ製造器械の予算請求の形跡がありました。七重官園に勤務していた迫田喜二のぶじ が、お雇いアメリカ人の講義、欧米の書籍の翻訳などを書き留めた筆記録「迫田家文書」には、1877(明治10)年にチーズの製造法を記した「乾酪製法記」が含まれています。食文化を研究した和仁皓明が読み解いた内容を拾い読みしてみると、例えばマサチューセッツ州のチーズ生産者の製造や熟成の方法、また凝固に用いるレンネットの製法も詳しく記され、新たな食文化を熱心に学んだことが伝わってきます。
迫田家文書は七飯町指定文化財となっており、七飯町歴史館で見ることができます。同文書の「爨司官さんしかん 心得こころえ 」には、アイスクリームの製法も図解とともに記されています。図とそっくりのアイスクリーム製造器が同館に所蔵されており、見せてもらいました【=写真】。当時のものかは不明とのことですが、ザンギリ頭の元薩摩藩士らが取っ手を回して、試食してにっこりしたのかも…なんて想像すると楽しくなりますね。
  • アイスクリーム製造器 年代不明。七飯町歴史館所蔵
  • 七重勧業試験場チーズ製造器械の図 出典不詳。
    七飯町史(1976年)より

技術が地域へ

1878(明治11)年4月、七重官園の牛馬を人々に貸与する動物貸与仮規則が設けられます。七飯町史によると、この年には6頭、翌1879年には4頭が民間に貸与されました。尾張徳川家が士族を集団移住させて設立された八雲の徳川農場(後述します)も、1880(明治13)年に南部地方から牝牛10頭を入れて牧牛会社を設立し、種牡牛を七重勧業試験場から借り受けています。 函館の支庁長だった時任為基は、1878(明治11)年に七重官園から払下げた家畜で時任農場を開きます。
同じ頃、七重官園に務めていた山田致人むねと は、大野村(現在の北斗市)に牧場を開き、1881(明治14)年に東京で開催された第2回内国勧業博覧会に子牛を出品しました。出品の際の説明書きには、生まれて5か月は母牛の搾乳を固く禁じ、飽くまで母乳を飲ませたとあります。この記述により、山田が出品牛以外は搾乳していたと考えられます。E.ダンの指導を得て1879(明治12)年に建てたという牛舎の図が残っており、七重官園の牛舎同様、上階に乾草を保存し、冬の5か月の舎飼いが可能で、床下で豚を飼育する三層構造でした【=資料】。
  • 【資料】山田致人 家畜房 第二回内国勧業博覧会出品解説書(北海道立文書館所蔵)
1886(明治19)年に北海道制が始まり、道庁が札幌に設置される頃には、官による酪農技術普及の中心は、札幌の真駒内に移っていました。七重官園は徐々に縮小され、1894(明治27)年についに廃止となり、家畜は近郊の園田牧場などに払い受けられました。1890(明治23)年には、木古内に集団で入植していた旧庄内藩の移住者も、ハイブリッド(高等雑種)の乳牛29頭を譲り受けて共同飼育を始めたと言われ、近郊に牛飼いが広がってゆきました。
七飯町史によると、「峠下、一渡、本郷」では早い時期から牛が飼われ、夏は軍川で放牧されました。1906(明治39)年の北海道庁による調査報告に「一渡は毎戸数頭の牛を飼う。故に富むなり。三頭の雌あれば二百円の収入あり」とあり、子牛は肉牛や役牛として売買されたと見られます。一渡は現在の七飯町市渡にあたります。トラピスト修道院が牛乳を買い入れるようになると、乳牛に置き換えられていきました。
  • 七飯町立七重小学校前には七重官園の石垣が残る
  • 城岱牧場(七飯町)の放牧風景
 【参考文献】
「北海道立新得畜産試験場100年史」1976年
ホーレス・ケプロン、西島照男訳「蝦夷と江戸—ケプロン日誌」1985年
七飯村教育会「七飯村史」1916年
「七飯町史」1976年
七飯町ウェブサイト
山内義人「北海道煉乳製造史」1941年
松野弘「北海道酪農史」1964年
和仁晧明「乾酪製㳒記(翻刻其ノ一)」「東亜大学紀要」第5巻 2005年、第6巻 2006年
第二回内国勧業博覧会出品解説書 簿書7688 明治14年(北海道立文書館 所蔵)
「元開拓使七重勸業試験場写真説明大正15年」宮内庁・宮内公文書館デジタルアーカイブ七重試験場引継書 庶務課 勧業牧畜 簿書7161(北海道立文書館 所蔵)
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]