【北海道 函館・道南編】
第4回 乳牛のいた修道院 ~北斗~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第4回 乳牛のいた修道院 ~北斗~

ホルスタインはシベリア鉄道にのって

函館から東方向へ約25キロ、現在の北斗市にあるトラピスト修道院に、かつて「渡島酪農の恩人」と呼ばれたオランダ人修道士がいました。農家に生まれ育ち、ドイツの牧場管理人として働いたジョアン・バプチスタ修道士は、1896(明治29)年トラピスト創立のため、北海道にやって来ました。「ジョアン氏の畜牛奨励は懇切を極め、個人個人に就いて親切丁寧に誘導して、畜牛及び牛乳智識の普及を図り(中略)一意専心地方民の福利を期し、身を以て種畜農業の模範を示し」たことが『北海道煉乳製造史』(1941年)に記されています。1924(大正13)年に帰国するまで、本場ヨーロッパの酪農を直接地域に伝えた立役者でした。
トラピスト修道院は創立の翌年である1897(明治30)年、園田牧場から雑種の種牡、牝牛10頭を入れますが、その乳量はヨーロッパから来た修道士にとって、到底満足いくものではありませんでした。
1903(明治36)年、弟のタルシス修道士をオランダに派遣、建設後まもないシベリア鉄道で、ベルムステル村からホルスタイン5頭がやってきたといいます。牛を連れてのユーラシア横断がどんな旅だったかを語る資料はありませんが、完成まもないオランダ風牛舎に落ち着いた牛たちは、地域の乳牛改良に大きく貢献することになります。輸入された牝牛「オランダ号」は泌乳最盛期には、毎日一斗九升(約34ℓ)ほどを約3か月継続し、1年の泌乳量が37石(約6660ℓ)だったと記録されています。
1909(明治42)年7月にはジョアン修道士自らオランダに渡り、翌1910(明治43)年には、ウィングバルト、モルタイ地方から種牡1、牝4頭を輸入します。この年までにホルスタイン牝牛20数頭を生産し、1909(明治42)年末には50頭を飼養、うち15頭が純ホルスタイン、雑種35頭でした。和牛は淘汰され、ホルスタインの母牛2頭を売却、地域の農家に譲られた子牛の数は50頭を数えたということです。
  • ジョアン・バプチスタ助修士(左)と弟のタルシス助修士
    「当別トラピスト修道院百周年記念」(1996年)より
  • 1903(明治36)年に建てられた牛舎も現存。修道院の展示から

乳牛を普及

修道院の記録によると、「トラピストさ外国の牛見に行くべ」と付近の村人が牛舎を訪ねてきたといいます。近隣のみならず、遠方からもホルスタインを見に訪れたひとびとに、ジョアン修道士は惜しみなく知識を伝えました。近隣の農家に親牛を貸して飼育させ、生まれた子牛を与えるという方法で、地域に酪農が広がっていきます。
修道院近くで生まれ育った阿部克己さんの実家も酪農家でした。トラピストの食堂で働いていた祖父・寿吉さんが乳牛1頭を譲り受けたのがはじまりだそうです。寿吉さんの弟・寿次郎さんも高等小学校を卒業後、22歳まで修道院のバター工場で働いたといいます。生まれ年から考えて、大正の後半から昭和初期のことと考えられます。修道院の周辺には旧庄内藩からの移住者家族が多く生活していたことも記されていました。
男爵いもの名の由来として知られる川田龍吉男爵も、修道院の近くに農場を開き、1921(大正10)年に修道院から乳牛を購入して酪農を始めました。バター製造も手がけたとされる農場跡には、木造のサイロや牛舎が現存しています。1930(昭和5)年には時任農場に牛乳一日あたり三斗(54ℓ)を一升25銭で出荷する契約を結んだといいます。評伝に掲載されたお手伝いさんの話によれば、「殿様」と呼ばれた男爵の朝食は「バターつきのパンにスープ」が定番だったそうです。
修道院という牛乳の売り先が確保され、乳牛を飼う農家が増えてゆきます。1906(明治39)年には木古内村の鈴木牧場と大野村に出張所を開設、翌年からはクリーム分離器が備えられ、クリームのみが馬車で修道院に運搬されるようになりました。木古内の郷土史の文献に「(牛乳の買い取り価格は)一升10銭から12銭。1日の賃金が15~20銭だから牛乳2升で1日分の働きになる」とあります。通年で安定して現金収入が得られる乳牛飼養がいかに魅力的であったかがわかります。
実際の買い取り価格について、十勝で同時期に酪農に取り組んだ依田勉三が、1907(明治40)年12月の日記に北海道庁畜産課員から聞いた話として書き留めていました。トラピスト修道院の本郷集乳所での買い取り価格は、乳脂肪率2.8-4.5であれば1升12銭、それ以上は15銭、それ以下は9銭で、冬季のため高値であることも記されました。

集乳体制の確立

業界誌「肉と乳」は、1912(明治45)年3月、修道院を中心に、長万部、八雲、鹿部、七飯、大野、木古内の6か村の16人の生産者による「トラピスト附属渡振牛酪協会」が設立されたことを伝えました。背景には、前年9月に東京大島製乳協会が木古内、鹿部に出張所を置き、バター製造に着手したことがあったとも伝えています。
修道院への出荷組合ともいうべき、この牛酪協会の創立趣意書には、良い牛乳がバターの品質に直結するため、出荷するクリームの品質管理を厳格に行うこと、会員が皆この規則を守り実践すれば、遠からずデンマークやオランダのレベルに到達できる、そうすれば幸せになれるし、お国のためにもなる——と書かれています。当時の修道院の具体的な指導内容を今に伝える貴重な資料と言えるでしょう。
創立趣意書の総則では、修道院が各村にクリーム分離器を備えた集乳所を設け、検査員を派遣すること、会員は少なくとも6か月以上継続して牛乳を供給すること、修道院側が定められた価格ですべて買い入れることを定めています。生産者側の意向も踏まえた内容といえます。
細則は検査、牛乳の品質や取り扱いから運搬のルールまで7章、全44項目と多岐にわたります。酪農を始めて日の浅い生産者にとっては、技術マニュアルとして機能したのではないでしょうか。
買い取りにあたっては品質により等級を付け、牛乳の需要が多く供給量が少ない冬季間の乳量を増加させるため、11月から2月は、6月~10月より1銭高く、3月~5月より50銭高い基準額を定めています。
牛乳を毎日午前中に持ち来ること(冬は支部長の承諾を得て一日おきも可)、生産者は通帳かよいちょう を持参し、支部長は帳簿に日々の牛乳の重量、分析結果による脂肪分を記入し、皆が見られる状態で置くこと、など公正さも担保されています。クリームを出す場合も、酸味を帯び過ぎないように夏季はできるだけ週3度、冬季も週2度出荷することを求めています。
前述の記事は「函館管内の農民大にうるお うに至ったのは、同管内畜牛数の増加が他区に比して超然たるを見ても明かである」と伝えました。1913(大正2)年7月の北海道農会報の記事では、クリーム供給契約牧場と購入出張所数は、鈴木牧場のほか21か所に及んでいるとし、執筆者の技手は「トラピスト修院酪農事業発達の爲め農家の畜牛飼養頭数増加し(中略)本道畜産上注目を怠る可からざるものなり」と報告しました。

バター在庫と経営難

「赤とんぼ」の作詩で知られる詩人で随筆家の三木露風(1889-1964)は、トラピスト修道院初代院長の招きにより、1920(大正9)年から4年間、文学教師として滞在しました。修道院での日々を綴った随筆で、トラピストバターについて「此バタはトラピストバタと称して、世に純良美味なるを以て知られ、今日日本のバタ製造業者の市場価格を統一するものである」と述べています。
ちなみに有名な「赤とんぼ」は1921(大正10)年の作とされ、トラピストに滞在していた時期にあたります。「修道院雑筆」(1917年)などの随筆には、牛と接するタルシス修道士らの様子や修道院の沿革も綴られています。設立当初、修道士たちとともに開墾に従事したのがアイヌの人々だったことも記されていて興味深いです。
修道院の記録に、当時は牛乳6升からバター1斤と言われ、1ポンド450グラムを1斤として計算していたとありました。1時間に4石(720リットル)の生乳を分離できるドイツ製「ラタニ」印乳脂分離機を備え、1913(大正2)年からは、それまでの手廻しのバターチャーンから、動力使用に切り替えられました。1914(大正3)年6月には、無糖煉乳製造も視野に入れ、フランスに発注したホモジナイザーを導入しました。当時の日本で屈指の乳製品工場が、海辺のまちの丘の上の修道院にあったのでした。

同時代の業界誌は、トラピストバターの販路が函館のほか横浜、東京、神戸、大阪、京都、長崎、朝鮮、上海、日光及び箱根等の外国人のほか、東京等の西洋料理店にも及んだと伝えています。売れ行きが良いように思えますが、修道院の記録によれば、実際には伝手で外国人に通信販売されていたに過ぎず、生産過剰で在庫がかさんでいました。折しも第一次世界大戦でフランスからの援助が途絶え、修道院は財政難に陥っていました。
冷蔵庫のない時代、バターはどのように貯蔵されたのでしょうか。4斗(72リットル)のかめにバターを詰め、上部に厚く塩で覆って密閉し、沢の流れのほとりに埋めて冷却貯蔵したとの記録があります。多いときにはその数は340~350個に上ったといい、事態は深刻でした。
修道院内部には、バターの在庫が積み上がるなか、牛乳を広範囲から集めて多種の乳製品を製造することに懐疑的な見方もありましたが、ジョアン修道士は耳を貸さなかったようです。収入の足しにと遠方から牛乳を運んでくる農家と接するなかで、買い入れを断ることを忍びないと感じていたのはないでしょうか。
在庫をめぐる興味深いエピソードが残っています。1914(大正3)年、日本は第一次大戦に参戦し、中国・山東省に兵を送り、ドイツの拠点・青島を攻撃します。大勢のドイツ人捕虜が、九州や四国に収容され、捕虜たちの要望を受けて、バターの大口注文が舞い込んだのです。山のような在庫が一気にさばけたといいますが、塩が強すぎたのか、翌年には再び、在庫が山積みになってしまったそうです。
財政は悪化をたどり、1918(大正7)年5月、修道院は製酪工場を函館貿易会社に貸与します。函館貿易会社は北海道煉乳と合併、1928(昭和3)年には大日本乳製品株式会社が設立されます。
1928(昭和3)年、函館毎日新聞に「御上京のお土産は是非トラピストバターを、何時も新しいのを詰めるトラピストの店 十字屋」との広告が掲載されました。修道院の経営に戻る1932(昭和7)年まで民間企業に経営を委ねた期間に盛んに宣伝され、かえってその名が広まったかもしれません【=資料】。
  • 【資料】トラピスト修道院案内チラシ 昭和初期 トラピスト修道院所蔵
    販売元は大日本乳製品株式会社となっている
信仰とともに酪農の伝道者であった修道院には、1903(明治36)年建設の牛舎や、その後建てられたサイロが現存しています。緑あふれる景観のなかに牛の姿が見えないのが、なんとも残念に思われました。
  • かつてのトラピスト修道院。「デーリィマン」誌1952年12月号の写真グラフより
  • 牛舎の隣に現存するサイロ
 【参考文献】
「肉と乳」第三巻第十号 漫録 1910年
同 第三巻第十一号 1910年、同第4巻第二号1911年
北海道農会報 「トラピスト牧場現況 行田農業技手報告」1913年7月
伊藤俊夫「農業経済の現象形態」1942年
萩原実「十勝拓殖史 北海道晩成社」1991年
中村正勝「岡田普理衛師物語」1995年
三木露風全集第3巻 「修道院雑筆」「修道院生活」所収 1983年
北海道新聞社編「北海道食べもの文化誌」1975年
「デーリィマン」第15号 1952年12月号「乳牛のいる修道院」
北斗市ウェブサイト 歴史年表/当別トラピスト修道院 
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]