【北海道 函館・道南編】
第6回 酪農のまちを歩く ~八雲~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第6回 酪農のまちを歩く ~八雲~

初期の酪農家

八雲の酪農は、1881(明治14)年5月、東北・南部地方から牝牛10頭、函館から和洋雑種3頭を購入、七重勧業試験場から種牡牛1頭を借り受け、牧牛会社が設立されたことに始まります。スポンサーは尾張徳川家で、その3年前の1878(明治11)年から旧藩主徳川慶勝によって士族移住者の集団入植がすすめられ、1888(明治21)年までに100世帯あまりが移住していました。しかし地域には牛乳の売り先もなく、1895(明治28)年の大雪で飼料が不足し、多くの牛が斃死して頓挫、搾乳牛は尾張藩のあった名古屋へ送られ、そこでの牛乳販売にあてられました。当時は、市街地にしか、牛乳の需要がなかったからです。
明治の後期になると、酪農に取り組む大農場が他にも出てきます。石川錦一郎は、1907(明治40)年において350町歩の農地に70戸の小作人を入れ、自ら90町歩を経営しており、搾乳牛を100頭飼っていたとの記録があります。八雲町史によると、1906(明治39)年にイギリスからエアシャー種の牝牛2頭を輸入、翌1907(明治40)年から「笹印」の商標でバター製造を始め、1912(大正元)年に5500斤(約2.5トン)、1917(大正6)年には6500斤(約2.9トン)を生産したといいます。飼料は、チモシー、オーチャード、赤・白クローバーなど55町、札幌改良種の燕麦えんばく 20町(1町は0.99ヘクタール)、トウモロコシ10町、根菜類5町で自家生産し、小作人が物納した農産物も使用。フスマのみを購入していたともありました。
1914(大正3)年、八雲で初めてホルスタイン種の牝牛を飼い、翌年には種牛を入れてバターを製造したのは、今村文次郎です。1919(大正8)年に建てられたレンガ作り40トン詰めのサイロが、町内の三沢牧場内に現存しています【=写真】。見上げるような塔型サイロが、先人の酪農にかけた意気込みを今に伝えています。
  • 八雲町で最も古いとされる今村牧場のサイロと三沢道男さん

欧州大戦と酪農

1920(大正9)年、欧州大戦と呼ばれた第一次世界大戦による値上がりで村の特産品となっていた片栗粉(馬鈴薯でんぷん)の値段が急落し、農家は苦境に陥ります。起死回生策として徳川農場が取り組んだのがヨーロッパ型の有畜農業で、酪農が導入されました。
とはいえ、木古内や知内において2歳雑種牛を購入するのにかかる100円から150円を工面できる農家はありませんでした。各部落に畜牛組合をつくり、銀行に組合員の連帯保証で融資を申し込みますが、何度足を運んでも認められませんでした。最後の手段として、万一、農家が返済できない場合は、徳川農場で責任を負うという念書に大島鍛(きとう)農場長が捺印して、乳牛の共同購入が実現しました。ただし、1戸分の融資額では能力のよい牛は買えず、2戸で1頭購入した人も多かったとも言われ、当時の切実な状況が伝わります。その後も共同購入は広がり、八雲の牛は1920(大正9)年に201頭だったのが、翌年には313頭、その後は448頭、694頭と年々増えて、4年後の1924(大正13)年には1106頭を数えました。

1.足を縛らないで搾乳する癖をつくること
2.故障ある乳房は痛みを上にに(ママ)付き、普通の乳房と同様に力を入れず静かに搾乳すること
3.全部搾り切ること
4.搾乳の前後によく揉み柔げること
5.牛を叱責せざること


これは、1923(大正12)年当時、乳牛の飼養を始めた小作農家を徳川農場が巡回指導した際に、先輩酪農家の伊藤政雄が伝えた内容だそうです。藤田英昭の論文「大正・昭和初期における徳川農場の理念と実践」によると、記録したのは太田正治。1921(大正10)年に徳川農場の臨時雇いになり、農事係として小作農家の管理を担当しました。後述しますが、後に北海道酪農青年研究連盟を立ち上げ、地域の酪農指導者になる人物です。1922(大正11)年から昭和初期にかけては、郵便はがきによる次のような指導も行いました。

9日の午後学校の前を通りましたら、道辺につないであるあなたの牛の乳房から盛んに白いお乳が洩れ出てゐるのを見ました、あーして晩まで置いたらどんなに牛が苦しいことだらうと思いました、時をきめてよく搾りとる事が肝要であります、愛畜標語、もの云わぬ家畜の心を察しませう(大正11年11月11日 大関農場 ペンケルぺシユぺ)

「あなたの家畜達より」この頃私達の家をよくして下さいまして心から有難う存じます、ガラス窓からさす日光が私たちの背中や乳房のあたりを気持ちよく暖めて呉れるので、なんだかからだがのびゝゝして乳が自然に多く出そうな気がします、只夜は一寸寒いので閉口ですが、なんとか工夫してくださいませんか」(昭和元年12月26日、大新地区)


まさに乳牛ファースト!徳川林政史研究所に保管されている資料「農村葉書の言葉集」から、100年前の農場員の観察眼ときめ細かな指導の内容を知ることができる—そのことに感銘を受けました。戦前の生産現場でひとびとが何を思い、語ったかの記録はそう多くないからです。
大島が率いた徳川農場は、牛乳を処理するために、1922(大正11)年、でんぷん工場跡に北海道煉乳の工場を誘致します。翌年には、トラクターや牧草生産のためのデスクハローやモーアなどの農業機械をそろえ、一般にも開放して共同利用が始まります。
「個々の農家の幸福は孤立しては生まれない。好ましい農村社会をつくることによってのみ可能である」。
16歳で尾張から八雲に来て、札幌農学校伝習科に学び、キリスト教信者でもあった大島の、一貫した思想信条を、その下で長く働いた太田はこう伝えました。1934(昭和9)年、64歳で亡くなった大島は、蔵書のほかには資産らしきものを残さなかったといいますが、その信念は地域酪農の担い手たちに受け継がれてゆきました。
  • 組合を作って乳牛を導入した大正期の写真
    『八雲町酪農100年記念史』(2023年)より

熊彫と「牛彫」

JR八雲駅から徒歩10分のところに、八雲町木彫り熊資料館があります。大正期、熊狩りで八雲を毎年訪れていた徳川義親公が、スイスで購入した木彫りの熊の民芸品にアイデアを得て、冬季の副業として奨励したことから、農家らによる木彫り熊の制作が始まりました。酪農が普及された時期と重なります。乳搾りや草づくりの合間をぬって酪農家が取り組んだ「ものづくり」に触れたくて、資料館を訪れました。

1924(大正13)年、スイスの木彫り熊をモデルに制作された北海道第一号の木彫り熊「這い熊」は、酪農家の伊藤政雄の作品です。大きさは手のひらに乗る約10センチ程度、スイスの木彫り熊に、よく似ているのがわかります【=写真】。彫刻刀の代わりに三角の傘の骨で彫り、目の部分にはガラス玉ではなく釘で代用されています。
  • 北海道第一号の木彫り熊(左)と参考となったスイス製木彫り熊(右)
    八雲産業株式会社管理資料・八雲町指定文化財
伊藤は第一回移住者の尾張藩士の次男で、徳川農場の巡回に同行して指導にもあたりました。道内外の博覧会に伊藤の出品した作品が一等、二等を受賞すると熊彫りをする人も増え、伊藤自ら熊彫りの講師も務めました。昭和に入ると八雲農村美術研究会が組織され、会員は毎月10日に徳川農場の事務所に作品を持ち込み、「八雲熊彫」ブランドの焼き印を押して販売が始まりました。1931(昭和6)年において、会員23人のうち農業者は15人と多く、3891点もの作品を生産し、生産額は5425円5銭でした。
大小さまざまで個性豊かな熊彫が並ぶ展示室を歩くと、やっぱり、ありました!「乳牛」の彫刻です。木を粗くカットした断面でフォルムを表現した「面彫り」の作品から、作者の牛への思い入れが伝わってきます。
  • 八雲産業株式会社管理資料
  • 八雲町郷土資料館提供
酪農家の岡島太は、昭和50年代に購入した土地の納屋に作りかけの熊彫りが多数残っていたことから、見よう見まねで彫り始め、熊より牛を多く制作しました。作品は販売せず、共進会などで配られたそうです。 自身の彫りたいものや意匠を形にした作品は、暮らしのなかの創造性を感じさせます。ペザントアートは元々、ヨーロッパの名もなき農夫たちが、自分たちのために丹念に作った素朴な木製家具や小物などの日用品のこと。同館には、義親公が国内外の各地で収集した戦前のぺザントアートのコレクションが所蔵され、その数は約200点に及ぶそうです。
館内には、地域で使用されたバターチャーンや乳脂肪測定器、サイレージづくりに使われた木製の押切のほか、バター飴を考案したとされる榊原製飴所の製造機械も展示されています【=写真】。大きな釜をのぞきこむと、ふわりと甘いバターの香りが漂いました。
  • 地域で使われたバターチャーンや脂肪測定器などを展示
    八雲町郷土資料館提供

乳牛への感謝

JR八雲駅の裏手、町図書館と合同庁舎の間に、乳牛感謝の碑があります【=写真】。地域ぐるみで乳牛を導入して20年たった1939(昭和14)年、町内の乳牛頭数が4千頭に達したのを記念して建てられました。除幕式には800人を超える農業者や関係者が集まり、盛大に祝ったそうです。当時、町内で乳牛のいる農家は835戸、1戸あたり平均4.2頭でした。
すぐ隣には、戦後の1955(昭和30)年に建てられた旧家畜授精所のレンガの壁の一部が保存されています。この辺りは、かつて酪農組合や乳業会社の施設が複数あり、酪農家が折に触れて足を運び情報交換し、夢を語り合った「酪農の中枢」だったそうです。
  • 1939(昭和14)年に建てられた乳牛感謝の碑
  • 「乳牛感謝の碑の前にて理想の高い青年たち」。太田正治(前列左から4番目)の姿も見える
    『八雲町酪農100年記念史』2023年より
例年より早く雪が消えた1950(昭和25)年、八雲の酪農家で、北海道議会議員だった三沢正男は、ひと夏に牧草を4回収穫します。「北海道ホルスタイン協会」会報の連載記事にこう記しています。
「上手にやれば一年に五回刈ることも、或は夢ではないような気がする。北海道で牧草を五回刈る!誰も信じようともしないこのことを、私は来年やってみようと思っている。架空の夢が常に人類の文化を進めた原動力であったと自問自答しつつ…。」
そのわずか4年後の1954(昭和29)年9月、三沢は青函連絡船・洞爺丸の事故に遭い、50歳の若さで帰らぬ人となりました。北海道酪農の父と称される宇都宮仙太郎、大正期に北海道庁に招かれ札幌で営農したデンマーク人農家モーテン・ラーセンを師と仰いだ三沢が、八雲や視察先の欧米各地で何を見て何を考えたかは、遺稿集「酪農余滴」で知ることができます。

「学ぶというのは《まねぶ》。いいものをまねること」。三沢正男の長男・道男さんが、多忙な父と過ごした時間はそう多くなかったといいます。「それだけに、かけられた言葉が強く印象に残っているんだ」。父に呼ばれ、下駄ばきで行ったところ、「常に用意をしておけ」と叱られたこと。「この牛、搾ってみれ」と、小学生の道男さんに、わざと力とコツがいる老牛を搾乳させたこと…。高校3年生で突然後継者となり、大人に交じってがむしゃらに働く日々が始まりました。

「乳牛は八雲農民の母 酪農こそはこの町の誇りである」——。遊楽部公園に移設された酪農感謝の碑は、尾張徳川家による移住から100年の1978(昭和53)年に建てられました。八雲農協組合長だった道男さんは、太田正治に撰文を依頼しました。
1970年代、農林省に提案して莫大な補助金と融資を受けて機械化に取り組んだ酪農近代化事業。その後の生産過剰により、横流しできないように、と食紅を入れさせられての牛乳廃棄。さまざまな苦難も味わうなかで、「人格者に話を聞かせてもらったことが、糧になった」と振り返ります。
「酪農家なら、酪農に喜びを感じるはずが、今は規模が大きいことに喜びを持っているように見える。根底が違うのではないか。地域にとっては、小さい農家が多いほどいい」。
酪農という生き方を、今も問い続ける道男さんの言葉です。
  • 酪農に生きた先人のことばが刻まれた酪農感謝の碑と道男さん
 【参考文献】
太田正治「大島鍛先生歌碑建立のしおり」1984年
松野弘「八雲酪農の生成と展開」 北海道農業研究11号、1956年
藤田英昭「大正・昭和初期における徳川農場の理念と実践」徳川林政史研究紀要48、2013年
「酪農余滴 三沢正男遺稿集」1981年
「改訂八雲町史」上巻 1984年
八雲町酪農100年記念史 2023年
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]