【北海道 函館・道南編】
第7回 サイロが語る歴史 ~北斗(旧大野)・木古内~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第7回 サイロが語る歴史 ~北斗(旧大野)・木古内~

サイロのある牛乳屋さん

旧大野町、現在の北斗市向野の鈴木牧場には、1920(大正9)年に建てられた、通称「大正サイロ」があります。当時の牧場主・鈴木欽太郎が27歳のときに、函館の園田牧場でサイロ造りを学び、その年の9月に自家用サイロの建設にとりかかり、10月末に完成したものだそうです。サイロ内に手動式のカッターで刻んだデントコーンを保存できるようになったことで、当時飼っていた6頭の牛は冬を越すことができ、牛乳が増産されたと伝わっています。
高さ4メートルの櫓をくみ、直径2メートル、深さ5メートル、地下はセメントで整えられ、地上部分はセメントに削った川石を配した造りです。かつてはドーム型のとんがり帽子の屋根があったそうです。
牧場の搾りたて牛乳でつくるソフトクリームを販売する店舗を挟んで、昭和期に建てられたサイロも見えます【=写真】。現在も、地域の「牛乳屋さん」として、旧大野町エリアを中心に牛乳を配達しているそうです。
  • 100年以上前に建てられた石造りのサイロ

牛の水飲み場だった八郎沼公園

鈴木牧場から、七重勧業試験場や徳川農場が管理した桑畑の跡を通り、田園風景の中をしばらく車で走ると、八郎沼公園に着きました。
1880(明治13)年、七重官園に勤務していた山田致人むねと がこの地で酪農にとりくみ、牛に水を飲ませるために池を掘って、水をたくわえたのがはじまりだそうです。山田が内国博覧会に出品した子牛の説明にも確かに、「水は自由に飲ませる」とありました。その後は水田の用水として用いられ、中村長八郎が養鯉場として整備したことで八郎沼と呼ばれるようになったそうです。現在は緑あふれる、人びとの憩いの場になっています【=写真】。
  • 牛の水飲み場から始まった八郎沼公園
七飯町史によると、山田は「熱烈なキリスト教徒」で、函館聖公会のウォルター・デニング師により洗礼を受け、1882(明治15)年にはデニングに同行してイギリスに渡航しました。帰国後、舘村(現在の厚沢部町)で医院や小学校を開き、後に伊達市となる伊達村の村長も務めました。その人柄は「武士道に徹した稀に見る人格者」だったと語り継がれています。
北海道の水田発祥の地とされる大野ですが、江戸時代の文化・文政期から牛が飼われ、旧大野町の市渡地区にあった、函館奉行直営の鉛の採掘事業では、牛が搬出に使われたそうです。19世紀の初頭にエトロフ漁場から捕らえられて滞在したロシアで種痘の施術を修得した中川五郎治が、帰国後松前藩に仕え、天然痘患者の痘しょうを植え付けるのに使ったのも、大野の牛だったと言われています。
大野町史によると、大正期にトラピスト修道院が水源のある通称「焼野」でバターとクリームを製造。製品は市渡まで背負って運ばれました。1人の背負う1缶の重さは30キロと定められていたとの語りとともに、地域でトラピストの酪農を継承した先人として、キリスト教徒だった沢村重吉の名が伝えられています。
  • トラピスト修道院で使われた木靴(北斗市郷土資料館所蔵)

海辺のまちの酪農史

海辺のまちの木古内町にある郷土資料館「いかりん館」で、地域酪農の歩みを年表にした資料をもらいました。作成者は「乳牛感謝祭実行委員会」、日付は1958(昭和33)年。60年以上前に地元の関係者によってまとめられた資料で、わがまちの酪農史として「木古内村の畜産業の発達は、トラピストクリーム・バター原料の生産地として、トラピスト修道院の良き指導によるものであった」と総括されていました。
木古内が町になったのは1942(昭和17)年で、それ以前の資料からの引用かも知れません。「良き指導」という言葉からは、ヨーロッパ人修道士と村人の間に、経済のみでない、心の通い合う交流があったことを感じさせます。ゴム長靴のない時代、農家の女性たちは修道院で買った木靴で牛舎作業をしたとの逸話も残っています。
町内の大平地区の沿革史によれば、1910(明治43)年、区長の森永仁太郎を中心に大平製酪組合が結成され、乳牛15頭で牛乳の生産を始めたことが記載されています。トラピスト修道院に頼んでホルスタインを交配し、一代雑種をつくると乳量も増え、この方式が地域に普及したといいます。当時、木古内まで牛乳を運ぶのに一斗缶を背負い、丸太を2、3本並べただけの粗末な橋を6か所越さねばならなかったとの牛乳運搬の苦労も記されています。
1923(大正12)年には北海道庁から補助金1,400円を受け、地域に製酪工場が建設されます。地域の人の語りによると、大人が一冬働いて120円くらいだった昭和5年ごろに乳牛40頭でバター10,000斤、6,000円を稼ぎ出していたといいます。1933(昭和8)年7月、工場は酪連に売却され、後に雪印の工場となりました。

明治期からトラピスト修道院の集乳拠点となった木古内町の鈴木牧場では、1917(大正6)年と翌18(大正7)年に、チーズを製造したことが農商務省の報告に残っています。トラピスト修道院が民間に貸与された1918(大正7)年、鈴木牧場ではバター11,000斤(約4.9トン)、チーズ3,500斤(約1.6トン)、脱脂乳30石(約5.4トン)からカゼイン1,000斤(約450キロ)が製造されました。

鈴木さとる は、東京帝国大学獣医学科卒の獣医で、岩見沢農業高校の前身・空知農業学校の教員を務めた後、木古内で父・鈴木陽之助が開いた牧場を経営します。鈴木陽之助は、1875(明治8)年の「樺太千島交換条約」でロシア領となった樺太・コルサコフに置かれた日本領事館で書記官を務めていた人物です。
「トラピスト修道院から使いが来て、馬車や馬そり で送迎を受けて出入りする、お抱えの獣医だったんです」と了の孫にあたる鈴木泰男さんから聞きました。近所の人の話では、夜中に牛の調子が悪いとき、酪農家は唐草模様の風呂敷に包んだ一升瓶を背負って、了に頼みに来たといいます。地域で重宝された獣医は、戦中、戦後にかけて木古内町の農協組合長をつとめました。
1944(昭和19)年、上海から家族で木古内に引き揚げたとき、泰男さんは小学校1年生でした。当時の経営規模は、粗飼料が自分でまかなえる20頭程でした。その頃は地区の若い人が牧場に実習に来て、その後農家として独立することが多かったそうです。少しでも多く搾るため1日3回搾乳しており、函館の高校に汽車通学していた泰男さんも帰宅後に、晩の乳搾りをするのが日課でした。夏はリヤカーに輸送缶数本を載せて、冬は馬橇で木古内の市街にあった雪印乳業の集乳所に運びました。
牛舎から少し離れたところに、コンクリートのトレンチサイロがありました【=写真】。泰男さんが、塔型サイロを撤去して昭和40年代に整備したものです。「ひとりで仕事をするのに、いかに労力を少なく、効率よく作業をするかを考えて作った」。かつては、乳製品を加工した「バター小屋」があり、同牧場に木古内中から何百頭もの牛を一堂に集めて結核検査が行われたとか。今は牛の姿がなくなった放牧地を、齢を重ねたポプラの大木が見守っていました。
  • 鈴木泰男さん。自作のトレンチサイロの前で

こまどり乳業

1956(昭和31)年、鈴木牧場では「生産から販売まで一貫して手掛けるべきだ」との考えのもと、牛乳販売を始めます。家族仲良くという願いを込めて「こまどり乳業」と名付けられたと牛乳処理を担当した泰男さんの弟・了介さんが教えて下さいました。
当初は大鍋に湯をわかし、180ミリリットル入りのびんに牛乳を入れて殺菌していたそうです。木古内駅は江差線と松前線の分岐点にあたり、「昭和30年代、吹雪で松前へ行く汽車が遅れると、駅で待つ人たちが買ってくれて60本くらい売れることもあったね」。
1980年代には、35キロほど離れた福島町にもお得意さんがいて、900ミリリットルのびんを車に積んで売りに行ったそうです。青函トンネル工事に沸き、魚の加工場にもにぎわいがあった時代でした。
その後、泰男さんの体調不良により、自前の放牧乳が生産できずに、他の牧場から仕入れた牛乳を販売したら、お客さんに「味が変わったね」と言われてしまったそうです。「青草のにおいがして、乾草を食べる冬には濃くなってね。日光浴が足りないんだと思った。おいしいから飲んでみれ、って言えなくなってしまった」。了介さんは65歳になった2010(平成22)年、乳業をたたみました。
当時使われていた、手動の充填機や牛乳びん、ふたなどは「いかりん館」に展示され、今も見ることができます【=写真】。海風ふく草原で放牧され、手動で充てんされたびん牛乳を飲んでみたかったです。
昭和の前半を通じて200戸以上が乳牛を飼養、戦後の1958(昭和33)年には町の工業生産額の54.1パーセントを乳製品工場が占めた木古内町。酪農家は現在、4軒のみになりました。
  • こまどり乳業の器械や牛乳びんが「いかりん館」に展示されている
 【参考文献】
「木古内町史」1982年
「大野町史」1970年
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍:ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]