【北海道 函館・道南編】
第8回 まちとミルクのものがたり ~函館・八雲~

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末に外国人に開かれた港町・函館では、明治時代に入る以前から、牛乳やバターの需要が生まれました。外国人との交流を通してキリスト教と出会い、信仰とともに酪農を受け入れた先駆者がいました。国内に乳業が生まれる前の明治時代の後期、この地域に乳牛を飼うことが広がるきっかけとなったのは、本場ヨーロッパの酪農を実践し、乳製品を製造販売したふたつの修道院の存在でした。先人のことばや古い地図を手がかりに、函館を中心にした北海道南部の酪農の歩みをたどります。

第8回 まちとミルクのものがたり ~函館・八雲~

ロシアホテルが牛乳販売

函館のまちの美しいランドマークのひとつに、2022年に修復を終えたハリストス正教会があります。当初はロシア領事館内に建てられた教会を中心としたロシアとの文化交流は、幕末にさかのぼります。
いち早く牛乳を販売したのが、1863(文久3)年頃にオープンしたと言われる「ロシアホテル」でした。
地元の研究者によると、経営者のピョートル・アレクセーエヴィチ・アレクセーエフの妻ソフィアは、海岸沿いに約3500坪の土地を借りて牧場にし、牛や馬を飼ってホテルで使用する食材を調達しました。
七重官園の元となる農場を開いたR.ガルトネルが1866年から翌年にかけて書いた日記に、函館のホテルの主人は「アレクセフ・ピンター」で、夫人は牛と豚を飼い、外国人に牛乳や肉を売ってかなりの副収入をあげていたと記されています。牧場があった場所は、鎖国の禁を破って密航した新島襄の海外渡航記念碑の近辺だそうです。
ソフィアは1871(明治4)年に、東京で布教を始めたニコライ神父のため、夫が上京した後も番頭と1879(明治12)年までホテルの経営を続け、食堂で働いた複数の日本人のなかには、その後パン屋を開業した人もいたといいます。気丈なロシア人のおかみさんも、牛乳や洋食を地域に広めたひとりと言えるでしょう。
  • 函館山からの海岸線。左下の出島のような「緑の島」にかかる新島橋の付近にロシア人経営の牧場があった。眼下にハリストス正教会も見える

華麗なる園田牧場

明治の函館には、時任農場以外にも、世に知られた大牧場がありました。大正期に北海道で初めての電車を走らせ、函館船渠や北海道銀行を設立した薩摩出身の実業家・園田実徳が、七重官園の牧羊場を払い受けて1887(明治20)年に開いた園田牧場です。1890(明治23)年には7万余円を投じて、ハンガリーのバボルナ牧場から純血アラブ種牡馬「ザリーフ号」を、乳牛はオランダからホルスタイン牡牝各1頭を購入しています。
1911(明治44)年発行の「園田牧場要覧」で、当時の農場経営を詳しく知ることができます。ホルスタイン(2歳以上32頭、内牡2頭)、エアシャー(2歳以上15頭、内牡5頭)、ホルスタイン雑種(同14頭)、エアシャー雑種(同12頭)の合計107頭を飼養し、ホルスタインとエアシャー合わせて16頭を搾乳し、年間約244石(約45.5トン)の牛乳を生産、1頭の平均乳量は17石(3,168キロ)でした。函館市史によると、朝夕2回、鉄道で桔梗駅から函館駅へ輸送、函館市東雲町にあった販売所で蒸気殺菌、市内に配達されたそうです。
  • 明治末の園田牧場。イギリスの船員たちがくつろぐ
    「はこだて史譚 會田金吾郷土史論集」1994年より
  • 放牧地での繋牧けいぼく 。角に鎖が固定されている(武芳孝さん提供)

五島軒のアイスクリーム

園田牧場が開かれた1887(明治20)年の6月、函館新聞に函館の老舗西洋料理店・五島軒が出した広告に「本日ヨリアイスクリームヲ以テ呈進仕候」とあります。食事を注文した客にサービスしていた「カウへー」(コーヒー)、紅茶を、この日からアイスクリームにするとの内容です。1907(明治40)年の大火を乗り越えて、当時と同じ場所に現存する金森洋物店の建物を活用した函館市郷土資料館に、五島軒で使われたアイスクリーム製造器が展示されていました【=写真】。
  • 函館新聞 明治20年6月26日付
  • 五島軒で使われていたアイスクリーム製造器
    (市立函館博物館郷土資料館所蔵)
五島軒とトラピスト修道院の間にも、古くから交流があったといいます。1931(昭和6)年生まれのトラピストの神父・高橋正行は、「(修道士たちが)大きなリュックサックに入れて、バターを売りに行く姿を私も後年目にしたことがある。1日売り歩いても、なお売れ残ったものを五島軒で引き取って下さったものだと耳にした」と、五島軒の沿革史に文章を寄せました。
その昔、木靴を履いた修道士が、函館のまちでバターを売り歩いていたのでしょうか。戦争が長引いて食糧難が深刻になると、少量生産のため販売規制がなかったトラピストバターは飛ぶように売れたといいます。

酪農で家族を豊かに

北海道酪農を世界水準に——。八雲町の太田正治は、戦後まもなく発足した北海道酪農青年研究連盟の委員長となり、1952(昭和27)年、乳業会社や八雲農協の資金援助を得て、ヨーロッパに派遣されます。1年半にわたり欧米諸国の中小の酪農家に住み込みで働き、帰国後に出版した「私は見たデンマーク農業」は話題となり、海外で実習する人が増えてゆきました。
太田眞樹夫さんが幼なかった頃、父・正治は家にいないことが多かったそうです。5-6頭いた牛の世話をしていたのは母と住み込みの実習生。眞樹夫さんも小学校3年生頃には、早起きして牛舎に向かい、乳搾りをしてから学校に通いました。高校卒業後、福屋牧場や町村牧場で実習後、1962(昭和37)年にデンマークでの実習を経験します。
「一番印象的だったのは技術や経営よりも、生活スタイル。何のために酪農をやっているのか、それは、いかに家族や家庭生活を豊かにするかということに尽きる」。朝から晩まで働き詰め、それでも生活が苦しかった日本の農家。デンマークでは8時に朝食、と決めたら、仕事が途中でも家族がテーブルにつきました。日曜日は仕事を休み、奥さんは労働力に数えず、家事中心。日本では、女性は家族より早起きして食事の支度をし、その後急いで牛舎に来て働くのが普通でした。
眞樹夫さんは、およそ70頭を飼養して40頭を搾乳するのが家族経営の適正規模だと考え、30年間その規模で経営しました。八雲農協組合長時代は、「八雲は農地が狭く、農家の戸数は多い。可能な限り、農家を減らさないことを考えて進めてきた」と振り返ります。
地域一丸となって取り組むことで優位性が出る、との思いから、2002(平成14)年に渡島半島一円の2市12町にまたがる13農協の合併を実現し、初代の組合長を務めました。
「朝、昼、晩とお茶代わりに飲む」という、娘さん夫婦に継承された牧場の放牧牛乳を、ピッチャーでついでもらいました。温暖な八雲では、4月から11月まで放牧が可能だそうです。家族の食卓には、妻の加代子さんが、酪農家の女性らと加工するチーズも並ぶといいます。
「規模を追い求めると大きい機械が入らないとの理由で、一鍬一鍬耕したところが耕作放棄地になってしまう」。現役を離れて長いから——と控えめに語られる眞樹夫さんの言葉に、先人の声を聞いた気がしました。
  • 太田眞樹夫さん。デンマークを参考に1957(昭和32)年に建てられた牛舎の前で

酪農史を生きる

農に生き六十年むとせ の今昔星月夜 金子喜代「志のりの丘 句集」(1991年)より

函館空港から東へ2キロ、函館市赤坂の「志のりの丘」。津軽海峡から青森の山々までが近くに見え、夜には函館の灯と漁火が輝く——そんな高台に、金子牧場はあります。夫の一二三ひふみ さんとともに牧場を営んだ金子喜代さん(=写真)が俳句を始めたのは70歳代になってからでした。母の米寿の記念にと、子どもたちがまとめた句集には、四季折々の酪農の営みを詠んだ句とともに、「原野に牛飼いの夢追って」と題し、家族の歴史が綴られていました。

幼い頃から牛が好きだったという金子一二三さんは1902(明治35)年、栃木県生まれ。娘の神谷慶子さんが両親から聞き取った記録によると、一二三さんが小学校4年生のとき、「牛を飼いたいが、牛は高くて買えないから一番先に鶏を飼って儲け、豚を飼い、その豚を売って儲けて牛を買い、牧場をやりたい」と作文に書いたほどでした。
「北海道はいいぞ、お前もいかないか」と誘われ、現在の安平町遠浅へ移り住み、高等小学校を卒業後、牛飼いを志して真駒内の種畜牧場、宇都宮牧場、函館の時任農場で家を出て働きます。
一二三さんは、日曜日には牧夫と連れ立って教会へ行ったことなど、宇都宮牧場での思い出を家族によく語ったそうです。時任牧場では乳製品製造を指導、初めてヨーグルトを作って売った際、配達する人も買う人もヨーグルトがどんなものか知らず、「『今日のヨーグルトは固まっていたぞ』とすごく怒られて帰って来た」とのエピソードや、月給50円が3人分の給料だったこと…。
当時の鍛冶村(現在は函館市)に2ヘクタール程の農地を借りて、ともに実習した弟と4頭の牛を飼って独立。1930(昭和5)年の春、家族が購入した20ヘクタールの原野で始めたのが現在の金子牧場です。喜代さんの文章に当時の様子が記されていました。

牛も八頭くらいになり、本格的に酪農の道を歩き出しました。牛乳は女子トラピスチヌに出していました。(中略)まだ牧草地もないので2年位は、夏は道路放牧を私が担当、冬は津軽から草刈り人が来て、刈った野草を飼料としたのです。
  • 酪農の営みを俳句で詠んだ金子喜代さん
  • 戦後間もない頃、金子牧場の子どもたち
    いずれも金子新市さん提供
1939(昭和14)年、一二三さんは「この地帯をぜひとも見てもらいたい」と直談判。後に雪印乳業となる酪連の黒澤酉蔵や渡島支庁と市役所の幹部が牧場を視察し、集乳所を作ることが決まります。下海岸の古川尻に集乳所が出来、雑穀で生計をたてる農家が多かったこの地区に乳牛を飼う人が増えていったといいます。戦後、地元にできた北海道乳業への出荷を地区で取りまとめたのも一二三さんでした。
戦後生まれの七男・健治さんは、母・喜代さんが自ら馬車や馬そり を仕立てて、トラピスチヌ修道院まで牛乳を運んだ苦労を聞いたことがあるそうです。戦後しばらくは牧場でバターも作っており、回すのが速い、遅いと注意されながらクリーム分離器を回したこともあったとか。自家製バターの味は、「市販のものより、色も風味も濃かったような気がする」。五男の周治さんは「うちの母さんは仕事をすれば、小遣いをくれるのではなくて、褒めてくれた。それでもっと褒められたくて仕事をした」。一心に働く親の背中を見て育った周治さんら子どもたちは、進学を先送りして牧場で働き、経営を支えました。

1960年頃に牧場を継いだ四男・隆さんは、北海道乳業から乳量が多い生産者として表彰されます。規模を拡大して地域一の生産者にと仕事に励んでいた隆さんの転機は、1966(昭和41)年でした。ホクレンによる牛乳の一元集荷が始まり、都市近郊で飲用乳を生産する金子牧場にとっては乳価が下がる事態となったのです。考え抜いた結果、1974(昭和49)年、仲間の酪農家4軒と「函館酪農公社・函館牛乳」を立ち上げ、トラックに牛乳パックを積んで移動販売を始めました。喜代さんは息子の挑戦について、「流通経費を切り詰めてその分乳価を高くし、成分無調整のおいしい牛乳を消費者に提供したい。(中略)『もう一段上の段階で酪農に貢献したい』と考えたのだと思います」と記しました。

農継ぐと進学の孫に風光る 喜代

「農業経営と云う面から云うと、おじじ、おばばは必ずしも成功者とは云えなかったかも知れない。しかし年をとってからも農業の理想を追うことから一瞬たりとも目をそらせる事はなく、程を過ごす欲を持たず、日々の平和に感謝する気持ちを持ち、明日のある事を信じて暮らし続ける生き方のおおらかさは、私たちに背で生き方を教えている様に見えてならない」。
母の句集のあとがきにそう記した隆さんも既に80代後半となりました。牛乳の生産調整をきっかけに、経営安定のためにナガイモやゴボウなど有機肥料を使った野菜の生産販売を手がける周治さんは、「農家のいいところは作ったものを食べてもらって、交流ができること。本来の農業は金儲けとは違うところにある」と語ります。
戦後ほどなく、一二三さんは、生まれ故郷の栃木の生家で母屋を囲うようにそびえていたけやき の苗木を、子どもたちに手伝わせて農場の道路沿いに植えました。潮風にさらされながらも苗木はいつしか堂々たる並木となり、現在は、孫の新市さんを中心に一家が営む農場のシンボルとなりました【=写真】。函館牛乳は地元の消費者に支持され、まもなく半世紀を迎えます。
  • 金子牧場の欅並木(金子新市さん提供)
海のむこうから酪農という異文化がやってきて150年あまり。信仰と共に酪農を受け入れた先人や、不況のなか酪農の将来性に賭けた地域や家族のたゆまぬ歩みの上に、現在の酪農風景があります。そこには、世代や国境を越えた交流や、酪農という生き方に真摯に向き合い続ける人の姿がありました。
まちの名前が変わり、風景から歴史の痕跡が消えゆくなか、記録や記憶のなかにかろうじて残るもの。それをもっと探したくなった道南の旅でした。
 【参考文献】
園田実徳「園田牧場要覧」1911年
函館の歴史的風土を守る会編「はこだて史譚—會田金吾郷土史論集」1994年
北海道新聞 2012年6月4日、6月7日 「私のなかの歴史」金子隆
五島軒「北の食文化に灯りをともして 五島軒創業120年のあゆみ」1999年
金子㐂代「志のりの丘 句集」(私家版)1991年
函館市史編さん室「地域史研究 はこだて」25号 1997年
清水恵「函館・ロシア その交流の軌跡」2005年
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]