【京滋(京都・滋賀)地域編】第1回 明治初期、京滋地域の酪農に大きく貢献したアメリカ人がいた!

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

京滋地域編の第1回~2回のコラムは、明治初期京都府に展開した近代酪農に関する従来の研究(以下の参考文献)を踏まえ、筆者が昨年上梓した『蒲生野農学校新発見史料集』(2022年3月)以降に発見した史料や新たに分析した最新の研究成果を取り込む形で書き下ろしたものです。従来の研究の基礎となっていた、京都府が政府へ提出した編纂資料だけでは見えにくい部分を、他の史料と付き合わせる形で浮かび上がらせているため、全国的にあまり光が当てられてこなかった当該地域の先駆的な酪農事業について広く知っていただくことができると思います。隣接する滋賀県との交流も新たな発見があったため、そちらも合わせてご報告します。

なお、京都・滋賀地域(京滋地域)の酪農産業史研究には、大きな転機となった5つの論著がありますので、冒頭で以下の通り『参考資料』として紹介させていただきます。

参考資料
京都府立須知農林学校「我国農業会の濫觴 京都府農牧学校に就て」(『京都府農会報第四百九十五号』京都府農会事務所、1933(昭和8)年)
※京都府の農牧学校を初めて資料に基づき考察した報告書。

三橋時雄『京都府農業発達史』(1964(昭和39)年)
※農牧学校の学術的な裏付けを初めて試みた研究。

拝師暢彦『J.Aウィード京都府農牧学校物語』(2005(平成17)年)
※これまでの研究や須知高校周年記念誌に書かれてきた農牧学校関連資料を一堂に集めた研究。

矢澤好幸「京都牧畜業の発展と経過の考察—京都府官営牧畜場を中心に」(『酪農乳業史研究』第16号、2019(令和元)年)他
※京都府の農牧学校を他府県の学校と比較することができるようになった点で画期的な研究。

辻垣晃一『蒲生野農学校新発見史料集』(2022(令和4)年、Jミルクによる助成のため一部の公共図書館や大学図書館に寄贈、配架)
※従来取り上げられなかった農牧学校当事者作成文書(古文書)を40点集め公開した研究。

第1回 明治初期、京滋地域の酪農に大きく貢献したアメリカ人がいた!

札幌農学校初代教頭クラークが来日したのは、1876(明治9)年6月のことです。その約3年前、日本政府の「勧農掛」(※1)(京都府農牧師)となったアメリカ人がいました。その名はジェームス・オースティン・ウィード。彼は、1873(明治6)年3月来京し(※2)、賀茂川(荒神口)東に立地した京都府牧畜場【資料1】を拠点に京都の近代農牧事業の推進に携わりました。さらに1876(明治9)年11月からの約2年半は、蒲生野こもの農学校(京都府船井郡京丹波町)の教師となっています。クラークが教頭として活躍していた同時期、京都府ではウィードが近代日本酪農の先駆者となっていたのです。クラークがわずか約8ヶ月で帰国したのに対して、ウィードは農牧学校が廃校となった1879(明治12)年5月までの計6年2か月も日本のために汗を流しました。単純に滞在期間を比較すると、クラークよりもウィードの方が約9倍長いことになります。このことはもっと高く評価されても良いと思います。もちろん、単に雇用期間の長短だけで農牧指導者としての優劣や影響力の強弱を論ずるつもりはありませんが、クラークの全国的な知名度に対し、ウィードは地元の人にすらあまり知られていないのが現状です。しかし、「よし、そんな先駆者がいるのなら顕彰しよう!」と意気込んでも、彼の肖像写真はまだ一点も見つかっていないので、クラークのような立派な銅像すら建てることもできません。また、彼が直接書いた記録や手紙もまったく残っていません。彼の教えを受けた生徒の証言も記録としてありません。こうしたことが、ウィードを無名のままにしている大きな要因でしょうが、本当に残念です。 こんな悪条件の中、ウィードを間接的に知る手がかりが、大別して二つあります。一つは、京都府が農牧事業の取組内容を政府(太政官)へ報告した『京都府史料』(※3)、もう一つはウィードの講演を京都府勧業課の田代俊二が翻訳した『農業会記』『西洋農学日講随録』です。

※1 外務省外交史料館所蔵資料による(辻垣晃一『蒲生野農学校新発見史料集』2022年)
※2 それ以前は、神戸在住の可能性がある(同上書)。
※3 国立公文書館所蔵。下書きの『京都府史』は京都府立京都学・歴彩館所蔵

  • 資料1 当時の地図に賀茂川荒神口に「仮牧畜」(京都府牧畜場のこと)とある。
    京都區分一覽之圖 : 改正 : 附リ山城八郡丹波三郡 1876(明治9)年 国際日本文化研究センター所蔵・所蔵地図データベース
    ※このデータベースは、筆者が日文研で研究支援者をしていた頃(2001年頃)に作成したものである。

ウィードはなぜ京都府に招聘されたか

京都府は、東京奠都てんとに伴い、1100年続いた都の機能が喪失し、それまでの地域の経済基盤が崩壊しました。こうした中で、新しい街作りや産業振興が必要であったことから、産業基立金として10万円が天皇から下賜され、また、勧業基立金として15万円が政府から補助されたことで、様々な先進的殖産興業政策に取り組むことができました。こうした京都復興事業は、長谷信篤・初代知事(在任1871(明治4)年—1875(明治8)年)から槇村正直・第2代知事(在任1875(明治8)年—1881(明治14)年)に受け継がれました。
京都復興事業の一つとして実施された農牧事業は、国民の肉体改造と窮民対策を兼ねていました(※1)。実現のため、京都府は1871(明治4)年、大阪レーマンハルトマン商社からアメリカ産雌牛25頭、雄2頭を購入し、翌年にドイツ人のジョンソンを雇用。これが京都での西洋式酪農の第一歩となりました(※2)。
また、京都府は、1871(明治4)年より管内の牧牛を奨励し、京都市中・伏見・山城八郡合わせて計4713頭が飼養されていました。この時、乳牛はわずか3頭でしたが(※3)、僅かながらも民間で乳製品の製造を試みている事実は興味深いと思います。こうした中、1873(明治6)年2月市中で牛疫が流行し、牧畜場に近接する河原町荒神口牛車業長・長谷川吉兵衛の畜牛24頭が斃死へいししています(※4)。とくに、京都鞍馬口の牛については、 焮衝きんしょう(※5)となって痘のようなものを発し、歯がことごとくうごくほどであったと報告されています(※6)。この最悪の状態から脱却するため、翌月にウィードが招聘されたのです(※7)。ウィードの治療法を京都府舎密局(※8)の人たちが習得し、彼らが市郡に派遣され予防法を人々に伝え普及しました(※9)。治療の成果を買われたのか、京都府は文部省にウィードの雇用を願い出て、4月には牧畜場で官民の人々に講義することとなりました。同年9月に滋賀県で「牛馬伝染病」が流行したとき、県はウィードに治療法を質問し、得た回答を管内に告諭しています【資料2】。この回答全文(日本語訳)には、死牛が出た際、厩内に散布する薬水の種類や分量、掃除の仕方、発病の原因などが詳細に記されていますので、ウィードは、獣医学の専門家だった可能性があります。

※1 『京都府史料』政治部勧業類第3、p199-201、国立公文書館所蔵
※2 『京都府史料』政治部勧業類第3、p169-178、国立公文書館所蔵
※3 『京都府史料』政治部勧業類第3、p206、国立公文書館所蔵
※4 『京都府史』第1編第41号政治部衛生類3、京都府立京都学・歴彩館所蔵
※5  きんしょう。赤く腫れて熱を持つ。
※6 「牛馬伝染病に付京都府雇入農牧師の治療法に関する件(明治6年)」(滋賀県立公文書館)
※7 『京都府史』第1編第45号政治部戸口類提要、京都府立京都学・歴彩館所蔵
※8  せいみきょく。「舎密」とは、オランダ語でいう理・化学のこと。
※9 『京都府史』第1編第45号政治部戸口類提要、京都府立京都学・歴彩館所蔵
  • 資料2 「牛馬伝染病に付京都府雇入農牧師の治療法に関する件(明治六年)」(滋賀県立公文書館所蔵)。
    写真資料の後段に予防法の詳細が記載されている。

京都府牧畜場の経営

ウィードが当初関わっていた京都府牧畜場の経営は、良好だったと見られます。牛羊頭数の推移【資料3】を見ると、京都府牧畜場の牧牛が、購入した当初から明治11年まで少しずつ右肩上がりに増えているからです。
牧畜場の役割は、「牛羊ヲ牧畜スルコト及ヒ其方法療病等ヲ教諭スルコト」(※1)とありますが、牛の頭数を毎年計上している一方で羊は数えていないことから、酪農事業に力点を置いていたものと考えられます。実際に、この牧畜場における歳入の大半は、歳入額の比較【資料4】から見ても分かるように、ほとんどが乳製品で占められています。ちなみに、羊毛による利益は1876(明治9)年が2円、1878(明治11)年に8円であるため、極めて僅少です。
  • 資料3『京都府史料』政治部勧業類1明治1-7・勧業類明治8-11
    国立公文書館所蔵資料をもとに筆者がグラフ作成
  • 資料4 『京都府史料』明治8-11
    国立公文書館所蔵資料をもとに筆者がグラフ作成
    乳製品は、『京都府史料』によると、「生乳」「牛酪」「錬乳」「粉乳」「乳菓」を指す(資料5では「牛乳」「ボートル」「ハヲトルミルク」「コテンツミルク」「テツキミルク」とある。
    乳製品以外の歳入費目は、「厩糞」「農書販売」「羊毛」「生豚・牧牛・綿羊売却」「製革」である。
こうした乳製品製造は、他府県に先駆けた事業だったと考えられます。1874(明治7)年、石川県から練乳製法を学びに牧牛社の2人(浅川注と廣田逸露)が来京しています(※2)。乳製品の歳入統計を取り始める前にすでに視察者がいるということは、牧畜場開設後一定度安定した製造が行われていて、他の地域の人々にも広く知られていたことが窺えます。では、果たして、歳出と比較した時に経営状況はうまくいっていたのでしょうか。
  • 資料5 『京都府史料』政治部勧業類1
    国立公文書館所蔵 p34-35
経営状況は、累積赤字【資料6】を見るとわかるように、1875(明治8)年・1876(明治9)年に赤字(平均マイナス3,698円)となっていますが、1877(明治10)年・1878(明治11)年は赤字累積は減少し、経営が黒字(平均プラス1,048円)に転換していることがわかります。ただし、1878(明治11)年、京都府は、もともと牧畜場でウィードに学んだことがある平井勝次郎と山嶋唯輔の2名をフランス留学させていて、これには山城八郡郡費3,000円という大金が使われています。つまり、牧畜場の経営自体が上向いていても、決算書に記されないところでの地域の負担は、かなり大きかったのではないかと想像できます。

※1 『京都府史料』政治部勧業類1—p42、国立公文書館
※2 『京都府史料』政治部勧業類1—p198、国立公文書館
  • 資料6『京都府史料』明治8-11
    国立公文書館所蔵資料をもとに筆者がグラフ作成
執筆者:辻垣晃一
私は、2014年(平成26年)から須知高校の前身である農牧学校について研究してきました。当初は、関連史料をほとんど見つけることができませんでしたが、調査の過程で数多くの専門家や地域の方、関連機関のお世話になり、少しずつ集まってきました。とくに、縁あってJミルクの研究助成をいただいたことがきっかけで大きく進展し、おかげさまでこれまでの調査の集大成を一書にまとめることもできました(『蒲生野農学校新発見史料集』2022年3月)。京都は近代農業教育の先駆である事実をもっと広めていけたらと思います。現在は、農牧学校の廃校後、蒲生野の地がどのような歴史を歩み、須知高校へとつながっていくのか、その過程について研究しています。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]