【京滋(京都・滋賀)地域編】第3回 田中村が何故京都の一大搾乳地域となったのか

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日本の酪農は、明治時代以降牛乳需要の増える都心部から広がりを見せます。京都でも明治期の非常に早い時期から都市部で乳牛が飼われるようになりました。京滋地域の第3回目になるこのコラムでは、明治期の京都の一大搾乳地域について追ってみたいと思います。そして京都の牧場がどのような場所につくられ、その後発展したのかを探っていきます。

明治初期の京都の酪農地帯

現在のJR京都駅が建つあたりには、明治時代に牧場があったというと驚かれるかもしれません。京都停車場(京都駅)は用地買収の観点などから、1877 (明治10) 年に市街地の南部と農地の境界にあたる位置につくられ、京都—神戸間が開通しました。当時の駅舎は、今よりも七条寄りにあり、京都牧畜場分畜場はその南側に隣接して1881(明治14)年に作られました(図1)。この場所は、神戸港から輸入した洋牛を輸送するのにも便が良かったとも言えるでしょう。1914 (大正3) 年に駅舎が南へ移動したため、1918 (大正7) 年の地図では既に牧畜場が移転して線路用地となっていることがわかります(図2)。
本稿では、このような明治期の牧場(搾乳所)が京都のどのような場所で発展し、普及していったのか、土地や水の利用、交通、地理的環境など都市空間の視点から探っていこうと思います。 京都の搾乳業は、1872(明治5)年につくられた聖護院村の京都府牧畜場を嚆矢こうしとし、その後都市部での牛乳需要が増加すると周辺部へと発展していきます。この牧畜場のあった場所は、鴨川の東、現在の聖護院川原町に位置しています。当時、この辺りは鴨川が市街地との境界となっていました。京都府牧畜場は、1879(明治12)年に小牧仁兵衛ほか2名に払い下げられ、経営が継続されました。後に、事業を拡大し先の京都牧畜場分畜場を1881(明治14)年に七条停車場裏に増設したとされています。
  • 図1 明治28年の京都駅周辺の地図(京都停車場の南、八条通の北側に牧牛場とあるのがわかる。)
    『日本近代都市変遷地図集成 大阪・京都・神戸・奈良』(柏書房、1987)
  • 図2 大正7年の京都駅周辺の地図(京都駅が八条通り北側にまで移動して拡張しているのがわかる。)
    『日本近代都市変遷地図集成 大阪・京都・神戸・奈良』(柏書房、1987)
記録の上では、京都府牧畜場以外にしばらく新たな牧畜場は現れませんでしたが、1886(明治19)年になり、森新次郎、柾木彌太郎、秋山文五郎、宮原正喬、内田伊太郎、生田某等の数名が協同して平安牧場を岡崎町に組織し、小牧と競争を行うようになっていきます(※1)。平安牧場の場所は、京都府牧畜場の近くに位置していたことがわかります。この頃から、搾乳所も徐々に増え京都の搾乳業が発展していきます。
そこで、明治20年代以降の京都の搾乳場がどのような場所にあったのか、もう少し具体的に掘り下げてみます。

市街地周縁部に増加する搾乳所

1885(明治18)年から1902(明治35)年までの搾乳所の住所や牛の飼育数などを知ることができる『京都府勧業統計報告』(国会図書館デジタル)という史料を見てみます。
報告の最後の年である1902(明治35)年の統計を表にしてみると、愛宕郡と葛野郡の2郡に搾乳所が集中していることがわかります。この2郡は、京都市街地からみて北東に位置する愛宕郡と、西部の葛野郡という位置関係になっています。京都の中心部がどこかという話は見方によっても変わると思いますが、近世は御所を中心として公家の屋敷が周辺を囲み、東海道から京都への玄関口ともなった三条大橋を通った三条通りや老舗の多い室町通りは特に商人の町として栄えました(図3)。明治時代以降、三条通りには新たな洋風建築が建てられていき、それらの建物を現在でも多く目にすることができます。
さて、愛宕郡と葛野郡にある搾乳所はどちらも、京都市を囲むように市街地の周辺部に位置し、かつその境界に近い場所にあります。これは、都心内部から発展した東京の搾乳業と比べると対照的で、京都の町の構造は中心部に町人地が集まり、放牧する空地が必要な搾乳所の入り込む余地があまりなかったためと考えられます。明治期の搾乳場は、多くが放牧場を設けた牧場を兼ねたものでした。東京では、明治初期に空き家となった武家屋敷が牧場として利用され、昭和初期に加速して市街地周縁部に移転するようになります。 また、搾乳所の多く集まった愛宕郡は京都府牧畜場の北側に位置し、一方の葛野郡は京都府牧畜場分畜場が1881(明治14)年にできたことで、牧畜場の周辺に搾乳所が集まったことも想像できます。
  • 表1 明治35年の乳牛数内訳
    『京都勧業統計報告第20回(明治35年)』から作成
  • 表2 明治41年の愛宕郡村別搾乳場数および乳牛数内訳
    『愛宕郡誌』から作成
  • 図3 慶応4年の京都の様子(『京都の歴史7巻』付録地図の部分)
    凡例:ピンクが町人地、オレンジが武家地、グレーが公家及び朝廷関係、緑が寺社地
一方で、明治初期の京都の町は著しく衰退していたともいわれます。東京奠都てんと(明治天皇の東京への行幸は、一時的なものであり京都にまた帰ってくる、と京都の人々を納得させるため遷都ではなく、都を定めるという意味の奠都てんとという言葉を後に使いました。)に伴い、天皇をはじめ公家の多くが東京へ移転してしまったからです。そのため、京都でも多くの公家屋敷や武家屋敷が空き家となりました(図3,4)。その衰退した京都を再興しようと、当時の府知事槇村正直は勧業政策を推し進めます。その政策の一つに牧畜事業の推進がありました。勧業政策が行われた牧畜場や内国博覧会の会場は、幕末に武家屋敷が集まった鴨東地区や御所の周辺に多かったことがわかります。そして、そのような場所が琵琶湖疎水などの明治期の殖産興業により発展していきました。
  • 図4 明治36年の京都地図『日本近代都市変遷地図集成 大阪・京都・神戸・奈良』(柏書房、1987)に追記

愛宕郡田中村と増加する牧場

明治期の搾乳業が大きく発展した地域である愛宕郡に注目すると、中でも田中村というひとつの村に多くの搾乳所が集まっていることがわかります(表2)。田中村は、京都府牧畜場のある吉田村(市町村の変遷が多いため当時の村名で表記します。)の北部に隣接し、やはり市街地との境界に近い場所です。現在、叡山電鉄の元田中駅がある周辺が当時の村の中心部で、かつては愛宕郡役所と田中村役場が近くに存在し、郡の中心的な村だったことがわかります。現在は町村名が変わっていますが、旧田中村の村域の町名には「田中」か「高野」が頭に付いています。
田中村は搾乳所数だけでなく、乳牛数も他村に比べて圧倒的に多くいました(表1,2)。『愛宕郡誌』(洛北誌 : 旧京都府愛宕郡村志 旧京都府愛宕郡郡役所 編pp.23-24)をみると、1908(明治41)年の愛宕郡の畜産は「本郡は京都市に接し近時京都市の発展に伴ひ牛乳の需要多く今や日々京都市民の要する牛乳の約7分は殆ど本郡各飼畜業者の供給せる状態にして年々斯業の発展を示せり」とあります。また、同年の田中村の搾乳所数は15、乳牛の数は310頭で、京都府内の搾乳所数116、乳牛数2,041頭と比較すると、京都府内の乳牛のおよそ6分の1が田中村に集まっていたといえます。 これだけ搾乳所が集まり発展した田中村ですが、その様子についてはあまりわかっていないのが実状です。なぜ、田中村にそれほどの搾乳所が集まったのでしょうか。次に搾乳業が発展した明治期の田中村の様子を探ってみたいと思います。

田中村の牧場

実際にかつての田中村のエリアを訪ねてみると、現在は宅地化していて、搾乳所があった場所を見つけるには先に見た資料からは読み取ることができませんでした。なぜなら、記録に残っている搾乳所の住所には、田中村以降の地番が書かれていないためです。
そこで、地図上に描かれた搾乳所(牧場)をまずは探してみることにしました。商店の店名などその土地の詳しい情報が記載された地図に「住宅地図」があります。京都府立京都学・歴彩館にて所蔵する京都の住宅地図として最も古いものに1957(昭和32)年の住宅地図が存在しています。この地図を詳細に見ていくと、旧田中村の範囲には2軒の牧場を見つけることができました。ひとつは、高野西開町の稲尾牧場(地図では稲生工場となっています。)、もう一つは、田中南西浦町に位置する松岡牧場です。
この2つの牧場をさらに少し古い地図で遡ってみることにしてみましょう。立命館大学の公開する「近代京都オーバーレイマップ」を利用して明治期から昭和までの変化を辿ってみます(図5,6)。すると、どちらも敷地の中程に大きな長方形の建物が一つ描かれていることがわかります。稲尾牧場については、昭和26年の『京都市明細図』に「稲尾牧場 牛舎」の表記があります。そして、放牧場なのか建物の周りは空地となっています。また、1922(大正11)年の地図を見ると、松岡牧場の東側敷地境界に沿って水路が流れていることも読み取れます。これは当時の多くの搾乳所に共通していて、用水などの水が近くにあることが搾乳所の立地条件として必要であったと考えられます。牧場には水路や河川が切り離せない関係にありました。 時代順に地図を見ていくと、牧場の周りが次第に都市化によって住宅地に囲まれていくのがわかります(図5)。
  • 図5 松岡牧場(田中西浦町82)(近代京都オーバーレイマップを利用し、トリミングしている。)
    1922(大正11)年から1951(昭和26)年まで、松岡牧場敷地内に同じ建物形状が描かれている。大正期の地図を見ると牛舎と思われる建物右側に水路が流れているのがわかる。
    2022(令和4)年の航空写真はgoogle mapに牧場位置を追記した。
  • 図6 稲尾牧場(高野下開町7) (近代京都オーバーレイマップを利用し、トリミングしている。)

発展の背景 田中村と琵琶湖疎水

京都府立京都学・歴彩館には、明治初期に描かれたと思われる田中村の絵図(「愛宕郡田中村耕地絵図」)が収蔵されています。その絵図には田中村を囲むように水路が流れ、さらに村の内外に縦横無尽に小さな水路が描かれているのがわかります。水が豊富な村に見えますが、一方で、『史料京都の歴史8巻』(左京区、平凡社、1985)などを読むと、近世においては周辺村々との水利権争いも度々起こっており、高野川から取水を行う太田井堰は各村の利害が伴い、度々争論の対象となっていました。
水路は縦横無尽に走っていますが、降雨量が減りひとたび渇水となると高野川の上流域と下流域での争いが起こったといいます。田中村への水の供給が安定するのは、近代になり、京都の殖産興業の一大事業である琵琶湖疎水の開鑿かいさくが行われて以降のことでした。琵琶湖疎水は琵琶湖から京都市街へ水を引くという一大事業で、1890(明治23)年に完成します。この水は、水力発電をはじめ、灌漑用水、運輸など様々な目的に利用され、京都の町を潤しました。
田中村の搾乳所は、ちょうどこの頃に数を増やしていきます。『養成小学校の歴史』によれば、この琵琶湖疎水支線の開鑿かいさくによって田中村には以前よりも安定した水の供給が行われるようになったそうです。そして、その一方で、使われなくなった農地を利用した牧場が増えていったといいます。(西村優汰『養成小学校の歴史』平成30年)
ここまで見てきたように、明治期の田中村は農地が多く、水が豊富で、市街地の周縁という牧場が発達するのに非常に条件のそろった場所であったことがうかがえます。

変わりゆく風景と区画整理事業

最後に、明治時代以降盛んになった田中村の牧場がどうして戦後に無くなってしまったのか、少しの考察を加えたいと思います。明治以降、京都の搾乳所は市街地周辺部に位置する田中村に多く集まったにもかかわらず、昭和30年代初期の住宅地図ではその数は2軒にまで数を減らしていました。そこで、もう少し範囲を広げて周辺部の住宅地図をみてみると、田中村より北に位置する一乗寺、修学院のエリアにはまだ数軒の牧場が残っていることが読み取れました。これらの牧場があった場所を実際に訪ねた際、かつての周辺の様子について修学院学区郷土誌研究会の会長山田茂夫氏と地域の古老である中村善三氏にお話を伺うことができました。
一乗寺周辺には、叡山鉄道の敷設や宅地化により、田中村から移転してきた牧場があったといいます。そして、一乗寺、修学院の牧場の多くも、昭和30,40年代には姿を消していったといいます。
この牧場の減少に拍車を掛けた要因のひとつに、区画整理事業が影響していると考えられます。区画整理事業とは、曲がった道や大きな街区を直線的な町割に修正し、道路の拡幅などを行う都市計画の手法で、農地の宅地化を進める要因となりました。
田中村の区画整理事業は、早い時期に着手され戦前には完了していました。一方で、一乗寺地域は、戦後の1957(昭和32)年まで区画整理が行われませんでした。そのため、田中村の牧場は早い時期に無くなり、一乗寺周辺では牧場が昭和30年代まで残っていたことが考えられます。また、殺菌技術の進歩や冷蔵技術、輸送手段の発達により、さらに郊外での搾乳を可能にしたことも都市周縁部から牧場が消えていく要因となりました。
ところで、田中村周辺の牧場は皆無くなってしまいましたが、その多くは牛乳販売店へと変わっていったといいます。しかし、それもそのうちに牛乳配達に中学生を雇うことが禁止され、次第に姿を消していくこととなりました(※2)。
現在、その地を訪ねてみてもアパートやマンションが建ち、かつての牧場の姿を想像することは難しいかもしれません。しかし、牧場を営むにはある程度の敷地の広さが必要であり、牧場があったという歴史は、その土地がマンションとなりながらもその建物の名前などに幾ばくかの名残を見せてくれています。
  • 図7 アパート名に牧場の名残が見られる。
※1『京都府畜産一班』第一回京都府畜産共進会船井郡協賛会、1909年
※2 中村治『洛北一乗寺その暮らしの変化』大阪公立大学共同出版会、2014年

●近代京都オーバーレイマップ(2023年6月25日閲覧)
近代京都オーバーレイマップから用いた地図
京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(大正11年)、京都大学文学研究科所蔵
京都市明細図(縮尺1/1,200)(昭和2年)、長谷川家住宅所蔵
京都市明細図(縮尺1/1,200)(昭和26年)、京都府立京都学・歴彩館
執筆者:金谷 匡高
幕末から近代にかけて日本の都市空間がどのように変わっていくのか興味を持ち研究を行っています。元号が明治に変わり、それまで100万人都市と言われた江戸も、その人口は約60万人に減少したといわれています。この人口減少に維新政府が取った対策は、絹や茶を海外へ輸出するために衰退した土地で桑茶の植え付けを推奨することでした。こうして、空き家となった多くの大名屋敷は桑茶畑の姿に変わりました。一方、徳川家直属の家臣である幕臣の多くも東京を離れ、屋敷の跡地には新たな居住者たちが集まります。彼らは新政府の役人であり、国内で興る牧畜業の経営者でもありました。牧畜業は、当時の政策と相まって急速に国内で発展します。そのため、東京では都心部から、搾乳業が発展していきました。牧畜業はその後、全国の都市部で広まりますが、各都市でどのような空間変遷が起こるのか明らかにしていきたいと考えています。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]