【京滋(京都・滋賀)地域編】第4回 「牛乳搾取営業願」から明治期京都の牧場の様子を垣間見る

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日本の酪農は、明治時代以降牛乳需要の増える都心部から広がりを見せます。京都でも明治期の非常に早い時期から都市部で乳牛が飼われるようになりました。京滋地域の第4回目になるこのコラムでは、明治期の京都の一大搾乳地域について追ってみたいと思います。そして京都の牧場がどのような場所につくられ、その後発展したのかを探っていきます。

明治時代の牧場空間について

ところで、明治期の京都の牧場空間とはどのような場所だったのでしょうか。前のコラムでは、地図から牧場の様子を見ていきましたが、今度はその具体的な施設の様子について述べていきたいと思います。しかし、実は、牧場に関する写真などその様子がわかる公開史料が少なく、まだ多くのことが明らかになっていないのが実情です。そのような史料は、今でも個人で所有したまま家の中で眠ったままになっていることが多くあります。(そのため、もし牧場の古写真などをお持ちでしたらご一報ください。)
そこで、今回は京都府立京都学・歴彩館(以下、歴彩館)が所蔵する「牛乳搾取営業願」(以下、「営業願」)という史料を用いて、明治期の搾乳所の様子を垣間見ていきます(Jミルクリンク)。京都府では、1881(明治14)年に牛乳搾取並販売取締規則が制定されると、当時の搾取販売業者は、畜養場の図面を添え、郡役所を経て府に営業願いを出願することとなりました。※1
この申請のため役所に提出された書類が、歴彩館に残される「人民指令」という行政文書に綴られた「営業願」と考えられます。しかし、歴彩館所蔵の史料は、毎年の「営業願」が揃っているわけではなく、1883(明治16)年と1890(明治23)年に提出された数件のみに限られています。また、これらの史料に残る搾乳所は、1軒あたりの乳牛の飼育頭数が1頭というような非常に小規模な搾乳所が多く、前コラムで見た京都の搾乳業の一大地域となっていた田中村からの届出については1件も見当たりませんでした。そのため、現在見られるものが全てではないといえるでしょう。
この「営業願」が提出された地域を見ると、南桑田郡(現・亀岡市及び大阪府高槻市の一部ほか)、乙訓郡(現・伏見区、南区、西京区の一部ほか)など都市部だけでなく、当時の京都の各地からあったことがわかります。
さて、本コラムでは、この二つの年に提出された「営業願」に添付された図面について、いくらかの分析を行う事で、当時の搾乳所の空間がどのような所であったのか復元考察していきます。

1883(明治16)年の届出に見る牧場空間

まずは、1883(明治16)年に提出された「営業願」からみていきます。明治16年の「営業願」には、搾乳所の住所とその地目、また申請者名(書かれていない届もあります。)と飼育頭数が書かれ、最後に図面が添付されています。そのうちの1件を例に取ってみていきましょう。図1の「営業願」(※2)で申請の住所は、中郡峰山織元町(現・京丹後市峰山町織元)で、地目と広さは宅地16歩(約52.8㎡)に、牝牛1頭を飼育することを願い出ています。申請者名は書かれていません。
この搾乳業者を確認するため、搾乳場の所在地と営業者氏名が記録される1889(明治22)年の『京都勧業統計報告第6-7回』(※3)を見てみると、中郡峰山織元町にある搾乳業者は池邊直三郎の経営する1軒のみが記載されています。
「営業願」には申請者の記載がありませんでしたが、願出に添付された図面には牛舎と隣接する敷地に「池邊直三郎宅」とあり、彼が申請者であることが確かめられました。『勧業統計報告』の記録では、搾乳高、販売高は共に2.145石、販売代価は64.17円となっています。開業から6年経った明治22年になっても、規模は小さく、飼育牛数も、申請時の牝牛1頭の時から、あまり変化はないように思われます。

提出された図面に描かれた物は

この提出された図面をもう少し詳しくみていきます。図面には、敷地内の建物が描かれ、主要な建物として、敷地北東側の表通り(「織元町本通り筋」)に面して申請者の居宅、その南西に雪隠と物置が並んで描かれています。居宅とは離れて土蔵が建てられ、その南に隣接して「畜養場」と朱書きされています。他の「営業願」でも、「畜養場」や「牛室」といった表現で記され、ここで搾乳が行われていたと考えられます。「畜養場」には規模が書かれ、1間半(約2.7m)×1間半の広さで、飼養する牛も1頭と小規模なものでした。
この添付図面が作られ提出された目的は、搾乳所の隣地の状況を確認することにありました。添付図面をよく見ると、敷地を接する箇所に、隣地の状況が書かれています。居宅から通りを挟んだ側には「此辺何レモ人家稠密(ちゅうみつ)」と書かれ、居宅の敷地両側には「是より以下(以上)人家稠密」と墨書きされています。一方で、敷地奥の畜養場側の三方については朱書きで「隣家建物無之畑ニ相成居ル」、「之ヨリ藪迠(やぶまで)凡五間空地ア」り等と畜養場周辺の状況が記されています。畜養場の周囲はいずれも空地や畑であることがわかります。
明治後半になると、都市部の人口も回復し、住居が密集するような場所では、搾乳所から隣地の建物まで必要な距離を取ることが義務づけられ、隣地の状況を記し提出することが求められました。朱書きの上から行政の確認者と思われる人物の判が押されており、周辺の状況を確認していたことがわかります。
  • 図1 「牛乳搾取営業願 聞届の件」(京都学・歴彩館蔵「人民指令」明16-0040)を結合した。

明治23年の願出の変化

次に、1890(明治23)年に提出されたもう一つの「営業願」をみていきたいと思います。例として、天田郡曽我井村(現・京都府福知山市)の1件をみていきます(図2)。まず、搾乳所の住所、申請者と飼育頭数が書かれ、最後に図面が添付されているのは、先ほどの明治16年のものと同様です。ここでは、願い出た者と別に土地の所有者が記されています。規模と飼育頭数は、6坪(19.8㎡)、牝牛1頭となっています。
そして、添付の図面を見ると、敷地の東と南を道路に接し、東側に敷地への入口があり、入口左手に雪隠、右手に「牛室」、その北と西に物置が接続しています。物置と牛室の西側には接続して居宅が書かれ、南側に庭園、北側には井戸と畑が描かれています。
隣地の情報は、四方とも全て畑と書かれています。隣地が畑で周囲に建物がないためか、先ほどのように敷地から隣地の建屋までの距離は書かれていません。
ここで、歴彩館所蔵の二つの年に提出された「営業願」を比較してみると、願出の形式などはほとんど変わりませんが、図面の表記に若干の違いがみられます。
明治23年の願出のほうが、図面に牛室の構造を詳しく記しているのです。図面の牛室の箇所には、「屋根ワラブキ天上及下周囲ホ板バリ 但土間シックイ」と建物の仕上げが書かれているのがわかります。このことから、牛舎は、広さが3間(約5.4m)×3間で周囲や天井や床を板貼りとした茅葺き屋根の牛舎が建っていたことがわかります。この牛舎の構造に関する記載は、明治23年に提出された「営業願」のいずれにも確認できました。
明治23年に表記内容が追加されているのは、1888(明治21)年6月に「牛乳搾取並販売取締規則」から「搾乳営業取締規則」となり、畜場畜舎の構造や搾取方法について追記され、以前より厳しい内容となった事が考えられます。その背景には、コレラの流行や増加する搾乳所への衛生問題の懸念があり、搾乳所の建物の構造についても徐々に厳しく規制されてきたことがあげられます。
  • 図2 「牛乳搾取営業許可鑑札下付の件」(京都学・歴彩館蔵「人民指令」明23-0045)

共通する表現「土間シックイ」とは

明治23年の「営業願」で、牛舎の仕上げが記述されるようになりますが、その中に共通して「土間シックイ」という表現が用いられていることに気が付きます。
明治21年に改正された「取締規則」をみると、第三条に「畜舎の地盤は漆喰叩きにして其上に板張をなし舎外へ陶器又は漆喰たたきの尿壺を設け排除に便にして汲取りを怠るへからす」とあります。(カナ表記をひらがなへ変えた。(『京都府府令達要約』、明治21年第9編上巻))
漆喰は、消石灰にすさや海藻のりなどを練り交ぜ、壁などに塗る建築材料として知られています。土蔵の白壁が頭に浮かびますが、それを床に塗ったのでしょうか。また、土間や叩きというと、今では珍しくなりましたが、古い民家の玄関を入ると床が貼られていない広い土間があり、その仕上げの一つに土を消石灰やにがりで突き固めた「叩き」があります。叩きには、色々な呼び方があり、「漆喰叩き」と呼ばれることもあります。
この「漆喰叩き」という言葉は、牛舎の構造を書いた『畜産学講義 牛編』(明治37年)にも登場します。少し長いですが引用すると「牛舎は(中略)土地高爽(原文ママ)にして西南に向ひ周囲は通気窓及出入口を除くの外緊密に塞き光線の射入空気の流通完全にして夏季涼しく冬季賊風の侵入を防くを要ず広さは通常九尺乃至二間四方にて可なり床地は板張又は漆喰叩きとなし少許の勾配を設け排尿を尿池に導くへし従来床地は多く土床としたれとも汚物は床土に浸透し衛生上有害なるのみならず肥料採集上不利なり」と書かれています。
つまり、牛舎の床には叩き仕上げが推奨されて、土中に尿が浸み込まないことが求められていたことがわかります。
結論から言うと、この土間シックイの仕上げが実際にはどのようなものであったのか、今ある史料からは筆者には断定できないのですが、このような「叩き」の仕上げであったと考えられます。
明治時代になると「叩き」は改良され、治水工事などにも用いられることになりました。当時、セメントが高価だったことから、それに代わるタタキを改良した新しい工法が開発されたといいます。また、当時の病棟の消毒室などの仕様書に「土間漆喰」という言葉が使われている事例もみられます。(『滋賀県現行警察法規綴 下巻 明治35年8月改正』)
この土間シックイが、搾乳所でどれほど普及したのか資料からは読み取れませんが、写真がある昭和初期の搾乳所の床の様子を見ると、この頃にはコンクリート舗装の床が主流となっています。また、明治33年の牛乳営業取締規則の施行規則では「不滲(原文ママ)透質ノ材料」という表現が使われています。そのため、コンクリートが普及するまでの期間に、「土間漆喰」は広まったものと考えられます。
今見たような理由から、「土間シックイ」は防水や衛生を目的として利用されたものと考えられます。また、厩肥の利用や牛の糞尿対策として殺菌の効果も期待されていたのではないでしょうか。
ただし、この「営業願」の内容は、様式化されていて、ある程度形式的なものであったといえるでしょう。そのため、明治23年の願出ではどの牧場にも「土間シックイ」を設けた牛舎が描かれています。

結論

今回見てきた牛乳搾取営業願の搾乳業者の多くは、飼育牛数が牝牛1頭から数頭という規模の小さな経営者でした。大規模な搾乳業者について詳細な記録がないことから京都の搾乳業の全体像を語ることはできませんが、多くの搾乳業者が農家との兼業であったことが想像されます。そのため、飼育される牛舎も小さな規模でした。ただし、そのような搾乳所でも、当時の取締規則の改正により、敷地周辺の環境が重視され、牛舎は隣地の建物から距離を置いて建てられることとなり、牛舎の仕様なども規制され、特に床を不浸透の仕上げとすることが求められました。このように、徐々に搾乳所に関する規制が行われ、徐々に建物などの構造が決められていく様子が見えてきました。


謝辞 資料の相談に乗ってくださった京都府立京都学・歴彩館の岡村氏、また突然の訪問にもかかわらず快くお話をしてくださった修学院学区郷土誌研究会の会長山田茂夫氏と町の中村善三氏には心より感謝申し上げます。
※1  橋爪伸子「近代日本の乳受容における菓子の意義—京都の事例を通して」、2015
※2「牛乳搾取営業願 聞届の件」(京都学・歴彩館蔵「人民指令」明16-0040)
※3『京都勧業統計報告第6-7回』京都府、1889
執筆者:金谷 匡高
幕末から近代にかけて日本の都市空間がどのように変わっていくのか興味を持ち研究を行っています。元号が明治に変わり、それまで100万人都市と言われた江戸も、その人口は約60万人に減少したといわれています。この人口減少に維新政府が取った対策は、絹や茶を海外へ輸出するために衰退した土地で桑茶の植え付けを推奨することでした。こうして、空き家となった多くの大名屋敷は桑茶畑の姿に変わりました。一方、徳川家直属の家臣である幕臣の多くも東京を離れ、屋敷の跡地には新たな居住者たちが集まります。彼らは新政府の役人であり、国内で興る牧畜業の経営者でもありました。牧畜業は、当時の政策と相まって急速に国内で発展します。そのため、東京では都心部から、搾乳業が発展していきました。牧畜業はその後、全国の都市部で広まりますが、各都市でどのような空間変遷が起こるのか明らかにしていきたいと考えています。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]