【北海道・十勝編】第1回 マルセイバタは一日にしてならず ~大樹・帯広~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第1回 マルセイバタは一日にしてならず ~大樹・帯広~

十勝の酪農史をめぐる旅は、牛乳を飲むのが一般的でなかった明治期に乳牛を飼い、バターや煉乳に加工して販売した開拓者・依田勉三の牧場跡から始めます。郷土の菓子に今もその名をとどめる「マルセイバタ」ができるまでの物語です。

サイロ跡と、冬を越せなかった牛たち

十勝の南部・大樹町の太平洋岸を数キロ入ったところに、この地域でいち早く酪農が営まれたオイカマナイ牧場の跡地があります。林の中にぽっかりとあいたふたつの大きな穴は、バター製造を始めた1905(明治38)年に建設したサイロの跡です。高台を掘り抜いて土の中に飼料を蓄えたそうです。
隣の「祭牛之霊」碑は、牧場を始めてまもない1889(明治22)年3月、雪原に放牧していた牛たちが飢えてたおれ、成牛8頭、仔牛12頭を相次いで死なせてしまった悲劇を記録したもの。生き物を飼いながら飼料を蓄えていなかった牧者の罪は大きい、と自らを戒めるために依田が涙ながらに建てたと言われています。
牛飼いを始めて日の浅かった先人は、牛が長く厳しい冬を乗り越えられるよう、必死の努力を重ねました。明治末に乳牛を飼い始めた芽室の酪農家は「稲わらを注文したが、届くまでは、米をおかゆにして飼馬桶で牛に吸わせた」と語りました。時代によって形は変わっても、サイロは、そのときどきの酪農家が生命を預かる重みに向き合って来たあかし なのですね。
  • 惨事を忘れまいと刻んだ「祭牛之霊」碑は、地域で最古の牛にまつわる史跡
  • 1905(明治38)年に建設されたオイカマナイ牧場のサイロ跡。おそらく十勝で最も早かった

船から鉄道の時代へ

なぜ、まちから遠く離れた、海岸べりを選んだのでしょうか。依田が牧場を開いた1886(明治19)年、十勝はまだカシワとミズナラの原生林に覆われ、帯広などの内陸に行く道路はありませんでした。太平洋岸から十勝川を川船でさかのぼるしかなかったなんて、いまでは想像できません。
その頃の交通・物流の主役は船。早くからまちが開けた「玄関口」の大津(現在の豊頃町)から近く、近隣に牛飼いの先達がいたこともその理由と見られます。依田は、青森から雄4頭、雌10頭の牛を手に入れ、まずは函館で牛肉店を経営します。牧場で育てた牛を函館まで、牛追いが海岸伝いを歩き、一度に20数頭を20日から1か月がかりで輸送したとか。牛追いの道中の飲食費、河川の渡し賃など経費がかさみ、牛肉店は5年で閉店します。しかしこの間、函館で出会った畜産関係者には、七重勧業試験場で煉乳やバターを製造した大山重武がいました。十勝に鉄道が通じる明治30年代に乳牛に関心を深め、バターの製造を本格化させると同時にサイロをつくりました。

ホルスタインと汽車に

20世紀が幕を開けた1901(明治34)年10月の依田の日記には「札幌農園より種牛一頭を購入し旭農場より牝(ホルスタインフレシャン)一頭を購入し合せて二頭牽引す」とあります。北海道大学に保管されている、札幌農学校時代からの牛の異動を記録した牛籍簿にもその取引が記載されていました。価格は250円、当時、巡査や教員の初任給が10円未満だったと考えると、年収2年分にも相当する大きな投資でした。
「この列車は客車なし。故に余は秀松氏と共に牛と共に台車に乗る」。依田は札幌から旭川まで7時間、種牛とともに汽車に揺られました。現在の美瑛にあった旭農場で購入した雌牛一頭を加えて、落合からは山道を追います。「牛進まず、夜に入り一里半(=約6キロ)を歩し、シントクへ宿す」。長い一日を経て、十勝にホルスタインがやって来たのです。
カナダ・オンタリオで酪農を学んだ旭農場主で、ブリーダーの小林直三郎から教わった乳牛の飼料は「豆腐粕は一斗 フスマは三升位夜又は朝湯にて掻きまぜ塩を加え翌日の晩に与う」。札幌滞在中には、後に北海道製酪販売組合連合会を立ち上げる宇都宮仙太郎を訪ね、米国での飼料用トウモロコシの青刈り、バターの塩分「酪は一斤(=英斤、約450グラム)に付き、塩八匁(=約30グラム)の割」も聞き取りました。十勝酪農の黎明期、外国で学んだ技術を惜しみなく伝えた先達の後押しがありました。

全国各地を訪ね歩く

依田がバターづくりを本格的に始めたとされる1905(明治38)年当時、十勝全体の乳牛頭数は30頭、搾乳所は5軒、年間の搾乳量は792石(=約147トン)でした。乳牛の数も牛乳の需要もわずかでした。冷蔵庫がなかった当時、搾った牛乳をお金に換えるには、手間や経費がかかっても加工するしか道はありませんでした。
この時期、依田は精力的に各地の農場や搾乳業者を訪ね歩いています。1905(明治38)年10月には札幌・真駒内の種畜場に出かけ、午前3時から搾乳作業やバター製造を見学、日記にはバター製造器具の挿絵も添えられています。1907(明治40)年11月には、トラピスト修道院や長野県の神津牧場も訪ね、情報収集に励みました。
依田の目標は、バター年産2万斤(=約9トン)でしたが、最も多く製造した明治の末でも5520斤(=約2.5トン)にとどまりました。大正の初めに依田牧場でバターづくりに従事した地元の川口清之助さんは、「ドロの木箱にパラピン(パラフィン)紙で包み、または一斗缶で豊頃から鉄道で函館方面、内地に送り出した」と語っています。
在庫と借金がかさみ、1916(大正5)年には帯広の農場を売却。1918(大正7)年にバター製造を止め、1920(大正9)年ごろから帯広で牛乳店を経営しました。牛乳店で働いていた稲葉嘉一さんによれば、牧場から連れて来た乳牛6頭を搾乳して大釜で殺菌、1合の缶詰にして配達し、値段は1合7銭でした。病床の依田に売り上げを持って行くと、こんなに儲かる仕事をやったことがない、と喜んだということです。
  • 日記には真駒内で使われていたチャーンなど製造器具の図や寸法も記した。
    「備忘十」(伊豆学研究会所蔵)より
  • バターの製造工程を示すかたちで撮影されている。
    「十勝國産業写真帖」(1911)より
《訪ねる》帯広百年記念館
帯広百年記念館には、依田牧場の酪農経営を知る手がかりとなる資料が所蔵されています。「マルセイバタ」やコンデンスミルク(煉乳)のラベルのほか、明治40年代にバターを東京へ発送した際の伝票や書簡などです。依田が明治から大正にかけて日々の活動や聞き取った情報を克明に綴った自筆の日記「備忘」のうちの6冊を帯広市が所有し、市の指定文化財となっています。
真紅のモダンなバターのラベルをいつ、だれがデザインしたのか──は謎です。取引先には、知識人や学生らが通った東京本郷の舶来食品雑貨店・青木堂も含まれていたことが伝票からわかっています。夏目漱石の小説「三四郎」にも登場するお店です。
百年記念館には、1920(大正9)年に幕別での米作りの成功を祝って依田が作った漢詩を友人たちが書き継いで完成させた書が展示されています。旭川の小林直三郎も「酪農行脚人」の名で一筆寄せています。明治の末、欧米諸国を巡り酪農事情を視察した小林に依田が買い付けを依頼した乳牛は不幸にも旅の途中で死んでしまいますが、ふたりの友情は変わりませんでした。
依田は晩年、「晩成社にはもう何もない」と語ったと伝えられています。しかし、先陣をきって酪農に挑んだフロンティア・スピリットは、その後やって来た大勢の移民とその子孫らに、インスピレーションを与えて続けています。
  • マルセイバタのラベル。形状から缶に入れて販売したと見られる(帯広百年記念館提供)
  • 鉄道輸送したバターを東京の青木堂が受け取った旨の伝票も現存する(同)

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
「十勝の農業」十勝総合振興局ウェブサイト
依田勉三、大津十勝川学会「大津十勝川研究第12号」2014所収 大和田勉「晩成社のバター製造及び販売について」
萩原実編「十勝開発史」1974
萩原実編「十勝開拓史」1975
幕別町「幕別風土記 第1集」1981
十勝文化会議「依田勉三・晩成社の研究」2016 
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]