【北海道・十勝編】第2回 開拓者の牛乳配達 ~清水・音更・芽室・帯広~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第2回 開拓者の牛乳配達 ~清水・音更おとふけ芽室めむろ・帯広~

開拓地・帯広は、1895(明治28)年に監獄が出来、囚人たちと看守らが大勢やって来たことで、まちとして発展していきます。土地の払下げを受けるために牛馬を飼う人が増え、市街での牛乳販売や牧場でのバター製造が始まります。

「将来有望」な塩野谷しおのや牧場

依田勉三が大枚をはたいてホルスタイン種牛を買い付けた翌年、1902(明治35)年4月8日の日記に「夕刻 塩野谷辰造氏来り、之に応接し牛拾頭二才牝 四百円に売る約す」とあります。旭川近郊で酒造業を営んでいた塩野谷は、1900(明治33)年11月に現在の清水町上羽帯に148万坪(=約489ヘクタール)の貸付を受け、念願の牧場を開きました。明治の末に発行された「芽室村史」には、牛が80余頭いて「将来最も有望で衆民の注目を集め」、わずかながらホルスタイン種もいたと記されています。
当時この牧場で実習した獣医師の吉田尚武が語ったところでは、エアシャー種、ホルスタイン種、ジャージー種のほか肉牛も飼われ、「搾乳のほかバターを製造し、鉄道開通以前は、道産馬の背にのせ狩勝峠を越えて旭川、札幌方面に販路を広げていた」。塩野谷は「山の木を大切にしろ、無闇に木を倒すな」と牧夫に命じたといい、入植当時から植林された落葉松からまつ林が今も地域を縁取ります。落葉松は元々北海道になかった木だって、ご存じでした?
  • 塩野谷牧場跡を示す看板。
    辰造の弟で、後に全国酪農協会、日本ホルスタイン協会会長を歴任した平蔵も作業に従事した

牛乳配達の初日

「この日より牛乳配達を始む。勝、得意先をつくるため帯広へ行く」(明治33年6月1日)。
依田勉三と東京で出会い、晩成社に参画した渡辺勝と妻カネの日記にこんな記述があります。旧幕臣らを中心に東京で牛乳販売が盛んになり、配達にガラスびんを使用することなどを定めた「牛乳営業取締規則」が公布された年のことです。渡辺は既に晩成社を離れ、帯広近郊の音更・然別に牧場を開いていました。
「石油缶のようなものに入れて、テンビンで担いで来た」──地元の目撃証言です。搾乳をいつから始めたのか、日記をたどると「然別より牛乳を持ち来る」(明治30年2月2日)。直前の1月末、妻カネは二男を出産しており、乳児用に持ち帰ったのかも知れません。翌日には「此の日より岐阜の女来り、乳をもらう事とせり。山本金三氏よりミルク二つ貰う」。山本金蔵は晩成社の一員として14歳で帯広へ来て、札幌農学校で学びました。この「ミルク」は煉乳のことで、ボーデン社製が輸入されて流通しており、日本各地でも盛んに生産されました。十勝では1907(明治40)年に止若やむわっか(現在の幕別)の国安永助らの北海煉乳所、後に依田牧場も製造しました。
  • マント姿で座っている人物が晩成社幹部だった渡辺勝、隣が山本金蔵
    (帯広百年記念館提供)

帯広の牛乳店

渡辺の妻カネの兄で、晩成社の幹部として最初に単独で入植した鈴木銃太郎も、同社を去った後芽室に牧場を開き、1904(明治37)年に牛乳を販売しました。「牛乳兵太郎に四合届く」「田中戸長、九門筆生らに各一合」「芦毛号にて配乳(馬で)」などと日記にあり、四合瓶などに入れて馬で届けていたようです。
日記にはそれ以前、アイヌ民族の妻との間に生まれた長男の勇一が東京滞在中の1897(明治30)年に腸チフスにかかり、医師から連日牛乳を処方されたことも記されており、牛乳の効能はよく知っていたのでしょう。
1904(明治37)年の秋には「高山万造氏牝牛二頭曳き去る」(11月21日)、翌年には「伊藤から乳牛貸受依頼。酒と砂糖一斤、伊藤より贈らる」(3月25日)。同じ年の12月には高山から使いが来て「勇一を牛乳搾りの手伝いに」行かせた、とあります。当時は、乳牛も搾乳ができる人も少なかったことを物語っています。 明治末発行の「十勝史」には帯広市街の牛乳店の広告が掲載されています。1910(明治43)年、十勝に搾乳場は11か所、乳牛は127頭、生産量は年間681石(=約127トン)でした。
  • 十勝で最も古い地域沿革史「十勝史」(1907)巻末に掲載された牛乳店の広告。
    すでに競合があったことがうかがえる

開拓者と牧場

開拓者たちはなぜ、牧場を開いたのでしょうか? 1881(明治14)年に石川県から北前船で単身北海道に渡り、アイヌ民族との交易、貸し船業を経て芽室に牧場を開いた竹澤嘉一郎は、「より多くの土地を入手する最も賢明な手段」と語っています。「北海道国有未開地処分法」が制定された1897(明治30)年以降、期間内に未開地を開墾してお役人の検査を受ければ、無償で土地がもらえるようになり、そのためには牧場を開くことが手っ取り早い方法でした。竹澤の晩年に、家族が聞き取った当時の様子をご紹介しましょう。
1907(明治40)年頃には120頭ほどいて、牝牛はショートホーン、道庁から借りたホルスタインの種牛を自然交配しました。ある時は、種牛が柵から脱走、牝牛10頭を連れて、隣の渡辺勝牧場に出かけて先方の種牛と大喧嘩。手に負えない、すぐ取りに来い、と急ぎの使いが来て牧夫を連れて急行し、雨の後の然別川の急流に牛を追い込み、やっとのことで連れ帰ったそうです。牛は利口で、柵の弱いところを角で押して越え、畑に入る、塩気がある漬物樽を荒らすなどして弁償させられた─といいますから、西部劇さながらのワイルドさですね。
竹澤は、帯広で牛乳を販売した音更の高倉牧場との販売協定についても語りました。高倉佳造は、依田勉三らの紹介で美瑛・旭農場で修行後1906(明治39)年に牧場を開き、バターも生産しました。
  • 後年バターも製造した高倉牧場の牛舎。「十勝國産業写真帖」(1911)より

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
「十勝史」1907
田所武編「鈴木銃太郎日記 十勝開拓の先駆者とその人々」1985
「新十勝史」1991
「清水町史」1982
「芽室村史」1910
河西支庁「十勝國産業写真帖」1911
「清水町百年史」2005
「帯広市史」2003
竹澤経吾「竹澤嘉一郎翁聞き覚え書」(私家版)
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]