【北海道・十勝編】第5回 甜菜(ビート)と酪農 ~清水~

23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第5回 甜菜(ビート)と酪農 ~清水~

清水町熊牛に百年以上にわたって使われている牛舎があります。米国式の機械化農業普及を目指す渋沢栄一が資本家に出資を呼びかけて1898(明治31)年に設立された十勝開墾合資会社が、1919(大正8)年に建設した畜舎です。製糖工場建設が大きなきっかけとなった地域酪農の始まりをたどります。

築百年の牛舎にて

牛舎を見に訪れる人を出迎えるように立つ、大きなカシワの木は樹齢推定400年。並んで立つ3本のサイロのむこうに、その畜舎はありました。1936(昭和11)年に地元・北熊牛小学校の先生方が作成した、郷土についての教科書にはこう紹介されています。

熊牛停車場から東に約二十町(=約2.2キロメートル)、アカシヤの並木道が真直に美蔓高臺の麓まで延びてゐる。この道が行き止りになる麓のあたりに大きな建物があり、側にはコンクリート造りの立派なサイローが見える。これが有名な十勝開墾株式会社の経営する模範的な畜舎である。畜舎の周囲は七十町歩(=70ヘクタール)という廣大な牧場になってゐて、場内のところどころには、開墾當時伐り残されたらしい大きな樫や、桂や、其他雑木が蝦夷の昔を偲ばせて、ニヨキニヨキとそびえてゐる。…

1933(昭和8)年に会社が解散した後、農場を譲り受けた渋谷竹治の孫・正則さんに、乾乳牛や分娩を控えた牛たちのいる牛舎内を案内してもらいました。入口から左半分、窓の位置が高いのは、厩舎きゅうしゃ。農家の仕事に欠かせない相棒の馬はどこの家も2、3頭いましたが、牛はまだ珍しかった時代でした。はしごで牛舎の2階に上がると、眼下に田園風景が広がり、開拓の記憶を物語るような大木が一本聳えているのが見えました。
牛舎の床には木材が反るのを防ぐ「やといざね」、飼料を二階へ上げるのに使われた木製の滑車。機械のない時代の職人の確かな仕事ぶりが見てとれます。「大変でしょう、とよく言われるんだけど、手をかけず、使い続けているだけだよ」。正則さんが言いました。
  • 渋沢栄一の呼びかけで米国式農業導入を目指して設立された十勝開墾合資会社が1919(大正8)年に建設した牛舎。設計は札幌農学校に依頼

製糖工場と乳牛

第一次大戦後の好景気を受けて、人舞(現在の清水町)に日本甜菜てんさい製糖会社の製糖工場が建設されたのは、1921(大正10)年のことでした。鹿追に1800ヘクタールの農地を確保し、農家60戸と契約して原料の甜菜てんさいを栽培するはずが、思うように収穫できず、2年後には明治製糖に合併されます。
当時の宮尾舜治・北海道庁長官は、「農業と工業の間に区分なく、機械、肥料、耕作、土壌改良、すべての農業を科学的に」が持論でした。日本の統治下で砂糖生産が近代化された台湾での勤務経験もあり、「我北海道農好適地の百分の三位は砂糖耕地として用ゐたいと思ふ」と雑誌に書いています。
原料の甜菜が集まらなければ工場は稼働できませんが、開拓以来の豆の連作で土はやせ、収量は見込めない。そこでヨーロッパ型の「独立小農」、牛馬5頭その他の家畜を飼い、堆肥を畑に入れる「循環農業」を推奨します。砂糖製造の副産物として大量に生じるビートパルプも輸送コストをかけずに飼料になります。十勝開墾会社は製糖会社の依頼でビートを試作、約40頭の肉牛をすべて売却し、千葉からホルスタインを買い入れて、小作人に奨励金を出して乳牛飼育をすすめました。
1922(大正11)年、北海道庁は甜菜を栽培する農家の組合を対象に、乳牛購入に補助金・貸付を始めます。大正の最後の3年間、補助金によって十勝に入って来た乳牛は毎年200頭を数え、1935(昭和10)年までに2018頭に及びました。
  • 1928(昭和3)年に明治製糖清水工場内に製乳工場ができると、近郊の農家は毎日交代で集乳し、工場へ運んだ(清水町教委提供)

牛舎で働いた女性たち

正則さんの母、数子さんが1959(昭和34)年にお嫁さんに来た時、牛舎には13頭の牛がいて、竹治や夫の一郎さんと一日三回、乳を搾ったそうです。「家事や子育ては姑さんにまかせ、牛舎で働きました。どこも大体そうだったと思います」。懐かしい場所はどこかを尋ねると、「牛舎のトロッコ」とのこと。汚れた寝藁を積んで外に出すのですが、途中で崩れてガッカリすることもあったそうです。
当時、搾乳は女性が担うことが多かったのでしょうか?1970年代に十勝のあるまちで開かれた座談会で、古老たちはこんなふうに語りました。「私はぜんぜんやらないで家内にばかりさせた。(笑い)家内の母乳の質が悪くて、子供に牛乳をやったのです。だから当然だといって聞かせて、乳を搾らせたわけですよ」「搾乳はもっぱら女房の仕事でした。私はね、息子が酪農をやりたいと言いだしたとき、家に牛はいるけど、本当にお前がやるならば、よく考えろ。牛というのは、家族みんながその気にならなければ飼ってはいかんとね」「私は家内に一度も乳を搾らせたことがないです。どんなに遅く帰っても私が搾りました」…。〝家内〟と呼ばれた奥さんたちは、実は家にあまりいなかったかも知れません。どこの家もうす暗くなるまで畑仕事、その後に牛の世話や搾乳に取り掛かりました。日暮れが早い冬は石油ランプの灯りをたよりに作業したそうです。
数子さんは、子供の頃、祖母から「お乳が足りない女の人が、コッホさんのところに行って牛乳をもらっていた」と聞いたことがあるとか。「コッホさんは、今で言う、農業普及員みたいなもんだったらしい。じいちゃんも度々訪ねて、色々と教わったんだって」。ご自身もお孫さんがいる正則さんが、教えてくれました。

ドイツから来た「農業普及員」

北海道庁は1923(大正12)年、先進国から「模範農家」を招き、地域で農業経営をさせるというユニークな事業を行いました。札幌にはデンマークの酪農家、十勝には、甜菜栽培のお手本となるドイツの農家2家族が清水と帯広にやって来ます。フリードリッヒ・コッホは当時43歳の製糖会社の社員。家族会議での妻ベルタのことば「日の出ずる国 黄金の国 神の国に行きたい」が、日本からの技術者募集に応じる決め手となった──とご家族の記録にありました。
2か月の船旅を経て清水に来たコッホ夫妻、長男(20歳)、次男(18歳)、長女(16歳)、次女(15歳)の6人家族は、用意された木造二階建ての家に住み、10ヘクタールで農場を営みます。鉄筋コンクリート製のサイロが整備され、耕馬2頭、乳牛3頭、豚5頭、にわとりは35羽いたと記録にあります。一家と親しかったという研究者の報告によると、娘ふたりが搾乳と鶏や豚の世話を担当していました。
  • 甜菜を中心とした農業経営普及のためドイツから招かれたコッホ家族のために北海道庁が整備した2階建ての住宅(清水町教委提供)

「コッホさん」の遺産レガシー

地元の人々を驚かせたのは、手間暇を惜しまない深耕、掘り起こした木の根を牧柵に使う合理性、それに徹底した輪作でした。やがて、コッホ家族に倣い、抜根し農地を広げ、同じ農具を入手し、家畜の管理法を教わる人が出て来ます。後に型枠を借りて、サイロを建てた人もいました。
交流を通じて伝わったものは、農業の技術だけではありませんでした。「高等教育を受けたのでもなくて、あの品位を保ち、あの素養を具え、そして農業を最上の職業と確信して自重していたことは、自ら卑下する日本農家に比し羨ましい程であった。我等は農業技術の上よりも、寧ろかう云った点において最も多く教えられた」。北海道農会(北海道庁の指導で設立された農業団体)の幹事が、会報に綴った感想です。
コッホ一家は5年の契約を延長し、1930(昭和5)年に帰国しました。次女のヘアタさんは、後に北海道議会議員となる酪農青年・三沢正男と結婚して北海道に残り、道南の八雲で酪農家の妻として一生を終えます。コッホ一家が暮らした家は、その後地域の人々の住まいとなり、改装された姿で現存しています。庭にあったパン焼き窯は後年家族に引き取られ、三沢牧場の玄関に置かれているそうです。
  • 1986年に清水に「里帰り」した三沢ヘアタさん。
    かつての住宅を訪れ、隣家の女性との再会を喜んだ
    (清水町役場提供)
  • コッホさん宅を訪れて技術を教わったという渋谷竹治さん(右端)らとの記念写真
    (渋谷正則さん提供)

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
上川郡清水村立北熊牛小学校「清水村郷土読本」1936
吉村眞雄「復刻版 北海道に於ける独逸人経営の模範農家」
熊牛地域開拓百年記念事業協賛会「熊牛の百年 熊牛地域開拓百年史」1998
日本甜菜製糖四十年史 1961
北海道農会報二十三巻第一号(大正12年2月)宮尾舜治「北海道に於ける将来の理想的農業」
清水町百年史 2005、「酪農余滴 三澤正男遺稿集」1981 
農林省農業総合研究所北海道支所「研究季報」No59(1978年3月)所収 井沢憙史「上羽帯地域開拓史」
三澤道男「日独(ちちはは)の余滴(しずく)」(私家版、ビート資料館所蔵)2015
若林功「北海道開拓秘録」1941、大樹町農業協同組合「大樹町農業史」1984
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]