【北海道・十勝編】第7回 戦火と乳牛 ~清水・士幌・広尾~

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23万頭の乳牛から日々搾られる新鮮な牛乳が、チーズやヨーグルトに加工されて日本中の食卓へ─。
北海道の十勝地方は、酪農の一大生産地ですが、酪農はどのようにこの地域にやって来て、根づいたのでしょうか?風景のなかの痕跡や先人達のことばから、その歴史に迫ります。

第7回 戦火と乳牛 ~清水・士幌・広尾~

昭和のはじめの10年間、冷害・凶作に苦悩する農家にとって数頭の乳牛が貴重な現金収入をもたらし、生活を支えます。やがて日中戦争、太平洋戦争の頃になると、牧草や資材不足が深刻化するなか、帯広でも脱脂乳から工業原料のカゼインが生産されました。

乳牛に金メダル

東清水の丸尾武雄さんは、1934(昭和9)年7月に開かれた第3回十勝乳牛能力共進会に2頭を出陳します。「牛は生死をかけたような」能力を発揮して1、3位に入賞。「嬉しかった。大きな金と銅のメダルを牛の首につるした」と当時を振り返っています。
1926(大正15)年に十勝開墾会社の支配人にすすめられ、牛を年賦で借りて飼い始めた清水町熊牛の大谷菊一さんは、1942(昭和17)年、札幌から買い入れた「ヤン・ロメオ・ドラ・オームスビー」号で乳量世界一に認定されます。当時の年収に等しい700円で買い付けたヤン号は、一頭平均の年間乳量が20石(=約3,723キロ)もあれば十分という時代に、96石(1万5,828キロ)、乳脂630キロ、平均脂肪率3.99パーセントという驚異的な数字を残しました。
日本が戦争に突き進むなか、清水町の飼育頭数は、1927(昭和2)年の281頭から1935(昭和10)年に1,051頭、1943(昭和18)年には1,504頭と急増しました。この年十勝の牛乳生産高は86,552石(=約16,113トン)、翌1944(昭和19)年には乳牛頭数が1万1千頭を数えました。
  •   乳量世界一という大記録を樹立した「ヤン・ロメオ・ドラ・オームスビー」号。
      同系統の乳牛は櫻井、松平牧場に導入され戦後の共進会で受賞が相次いだ
      (清水町郷土資料館所蔵写真)

牛乳缶に一生を

十勝は酪農の適地。今は大したことはないけれども、十年後には日本一の酪農地帯になる──。
札幌で仕事帰りに聞いた、黒澤酉蔵の講演でのひとことがきっかけで、帯広にやって来た若い技術者がいました。土谷特殊農機具製作所の創業者、土谷清。帯広市制が施行された1933(昭和8)年のことです。
牛乳缶を専門に手がけ、大きな需要をつかみます。乳業会社から輸入機具の組み立て等を請け負うこともあり、なかでも新田帯革製造所が皮革加工に使った渋を煮る厚い銅釜を、煉乳用の濃縮釜に改造する際には苦労したと語りました。
1941(昭和16)年、日本が事実上支配した旧満州(現在の中国東北部)の酪農開発のために産業組合や乳業メーカーの出資で設立された北海道特殊農機製作所に参画、機具の8割を満州へ送ることに。当時、酪農の指導者として北海道から毎年酪農家20戸とともに乳牛100頭を送り出す計画が動き出していました。ところが、機具を積んだ船が室蘭港で立ち往生するうちに終戦。丘に放り出された機具は何とか無事に帯広に戻りました。
「牛乳缶の表面処理に一生を注ぎ込んだ。(中略)でも今では牛乳缶というものは一本もいらないんです」。土谷がそう語った1980(昭和55)年、既にバルククーラーが普及しつつありました。看板商品は塔型サイロを経てバイオガスプラントと移り変わっていますが、帯広本社の看板に添えられた牛乳缶の画像が、創業者の情熱を今に伝えています。
  • 帯広市制の1933(昭和8)年に帯広で創業、牛乳缶を専門に手がけた
    (土谷特殊農機具製作所提供)

牛も「戦力」

戦時中の酪農家の様子について、士幌で昭和初期から牛を飼った竹腰昇さんは「戦争必需品としてカゼイン増産が強く要請され、牛も戦力の一翼を担ったものである」と回想記に記しました。
1937(昭和12)年中国との戦争が始まった頃から、物資が不足し始め、「特に濃厚飼料輸入は、アメリカからの買付が止まり、国内の代用品を見つけるのに苦心をした」。精麦、白糠、小麦フスマ、油粕を競って集め、雑穀のくずは小石や釘が混じらないように「一度唐箕とうみにかけ、煮て与えたところ、てきめんに乳量が増えた」。粗飼料として菜豆の殻や稲わら、ビートは茎も与えてしのいだそうです。牧草の種の輸入が止まり、夏休みの児童が道端のクローバーの花摘みに動員されたのもこの時期でした。
1942(昭和17)年に産業組合の型枠を用い、お互いに作業を手伝い合って、念願のサイロが建ちますが、1943(昭和18)、44(昭和19)年に長男、次男が召集されて戦地へ。人手が減るなか、サイロへの草の切込みは「すべてが手で持ち、切る、運ぶ、カッターに揃えて入れる。一刻の暇のない激しい労働だった」といいます。
十勝農学校の教員だった本田栄一さんは、校内に「酪農挺身隊なるもの」が組織され、乳牛の世話や搾乳を担当し、毎日多量の牛乳をすべてセパレーターにかけ、脱脂乳も出荷したと語っています。

帯広のカゼイン工場

1933(昭和8)年、帯広競馬場の近くに酪連の製酪工場ができ、翌年から稼働します。脱脂乳を原料とした接着剤で、航空機に使われたカゼインの精製施設も備えていました。農林省の報告書では、1935(昭和10)年の帯広工場のバター製造量は98.9トン、カゼイン生産量は5.5トンでした。
 十勝農学校を卒業後、1936(昭和11)年から2年間、帯広工場に勤務し、後に雪印乳業の帯広工場長を務めた日下博によると、「当時は十勝中の牛乳を買っていたわけです。(中略)集乳所は十勝に五十か所くらいありました」。製造していたのはバター、カゼイン、アイスクリームで、残りは原料乳として極東煉乳に送っていたそうです。酪連の沿革史によると、終戦間際の1944(昭和19)年にはカゼインを前年の2.6倍増産するよう指令が出ていました。
1936(昭和11)年に来道された昭和天皇に献上する牛乳を搾るという大役を果たした福家定雄の自分史によると、戦時中は「一滴も飲んではならない、全量出荷を強要された。働き手の出征による人手不足は牛不足につながり、労力と技術を要する酪農の生産性は低下するのみだった」ということです。
  •  1934(昭和9)年に稼働した酪連帯広工場の絵はがき。戦時統制下では十勝中の牛乳を
     集めてバターやカゼイン等に加工された。運搬用の馬車が多数横づけされている
     (土谷特殊農機具製作所提供)

苦難に満ちた農家の「証言」

山に魅せられ、酪農を志して1930(昭和5)年に広尾・下野塚の原野に入植した画家の坂本直行さん・ツルさん夫妻も、厳しい現実に直面していました。直行さんの死後見つかった未発表の原稿が「続 開墾の記」として出版された際の、ツルさんのまえがきにはこうあります。

「四番目の子供が生れた昭和十五年は、大凶作、十六年は九月二十四日の早霜で、ソバ、デントコーンが一夜でゆでたようになってしまい、どうする事も出来ません。どちらの農家も皆同じで、よそから分けて頂くことも出来ません。飼料不足の牛はどんどん痩せて行き、三月に入ると、腰が抜けて立ち上がることが出来なくなり、二頭の牛が続けて死んでゆきました。もうすぐ雪が消え青い草が出て来るというのに…。今思い出しても涙が出て来ます」

直行さんがおそらくランプの灯りの下で書いたものの、表に出さなかった原稿──。そこには、集落の寄合で、国債や作付の割当、えん麦の供出を迫られた農家の本音が記されました。 「うんだ。作ったものは食わずに出せって言いやがるし、要らん物まで配給だと言って押し売りだし、とらんけりゃ次から配給停止ときやがるし。おまけに買わされるものはべらぼうに高くて形だけで使い物にならんし──」「なあに、百姓はいつの世だって下積みにきまってんだ」。今では語れる人の少ない、苦難に満ちた時代の貴重な証言です。
  • 広尾町下野塚の原野で酪農を営んだ坂本直行さん。「開墾の記」(1942)、「酪農の話」(1947)などの著作には当時の農家のリアルが記された(坂本嵩さん提供)
  • 冬の牛乳運搬には馬橇が活躍 坂本直行「山・原野・牧場─ある牧場の生活─」(1937)より

【換算】牛乳、バター等を計量する場合
石(こく)=186.164キログラム   ポンド=英斤=453.6グラム


(一部敬称略)
 【文献】
清水町五拾年史 1953
帯広市百年記念館編「ふるさとの語り部 第5号」1990
竹腰昇「楓ものがたり 老酪農家の回想」1980
坂本直行「続 開墾の記」1994
田所武「帯広百年百軒の家系誌 第二集」1987、福家定雄「猿別の大地 福家定雄自分史」1993
執筆者:小林志歩
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。北海道在住。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 関連著書:「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]