【静岡編】
第1回 明治初頭、伊豆半島に酪農の芽生え ~その基礎となった伊豆牛

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第1回 明治初頭、伊豆半島に酪農の芽生え ~その基礎となった伊豆牛

静岡県の成立と地理

現在の静岡県は、東は神奈川県、西は愛知県、北は山梨県・長野県に接し、それ以外は太平洋に囲まれています。県の総面積は7,777㎢(国内13位)であり、平野は32%、山地は65%を占めています。地理的には東西に155kmと長く伸び、かつての東海道では五十三次のうち二十二次が県内に存在し、その東端は三島宿(現・三島市)、西端は白須賀しらすか宿(現・湖西市)でした。
歴史を振り返りますと、静岡県は明治初期に江戸時代から続いた旧三国の区域を段階的に合併して成立します。
  • 明治7年の県区域図(静岡県公聴広報課提供)
1871(明治4)年7月の廃藩置県で定められた浜松県、静岡県、足柄県三県の区域図(足柄県は他に相模の7郡)でみると、中央の静岡県(明治改元以前の駿河するが国)は、1876(明治9)年4月に足柄県の一部(同伊豆いず国、伊豆七島を含む)、同年8月に浜松県(同遠江とおとうみ国)を合併しました。続いて、1878(明治11)年1月に伊豆七島が当時の東京府に移管となり、現在の静岡県域が確定したのです。 そして、この時点で静岡県の市と郡は、1市(静岡)、23郡(旧国区分では伊豆4、駿河7、遠江12)となっています。
  • 明治22年の静岡県地図(静岡県公聴広報課提供)
それから20年ほど経った1899(明治32)年の改正により、郡は23郡から13郡(伊豆2、駿河5、遠江6)に再編成されました。この改編によって新たな郡配置は、伊豆は田方たがた君沢きみさわ賀茂かも北部を併合)・賀茂(賀茂南部に那賀なかを併合)、駿河は駿東すんとう・富士・庵原いはら安倍あべ有度うどを併合)・志太しだ益津ましづを併合)、遠江は榛原はいばら小笠おがさ佐野さや城東きとうの合併)・周智しゅうち・磐田(豊田とよだ・山名を併合)・浜名(長上ながかみ敷知ふちを併合)・引佐いなさ麁玉あらたまを併合)となったのです。
以来、この郡区分は長期に継続することになります。しかし、村から町、町から市への移行が市町村合併を伴いながら進行し、市制が施行されれば郡から分離されるので、個々の郡域内には大きな変化が生じています。例えば、13郡のうち8郡(1969年に安倍郡、2005~2010年にかけて他7郡)は既に消滅して現在は存在しておりません。
その結果、現在は23市(静岡市・浜松市はそれぞれ3区制)、5つの郡(伊豆は賀茂かも郡5町・田方たがた郡1町、駿河は駿東すんとう郡3町、遠江は榛原はいばら郡2町・周智しゅうち郡1町)となっています。
  • 現在の静岡県地図
静岡県にはこのような歴史や地勢があり、県内の酪農はこれを背景に進展することになります。そのため、本編では、伊豆・駿河・遠江の地域性や13郡の立地性に留意して記述とします。なお、現在の県行政では地域を、富士川と大井川・牧之原台地を境界として東部・中部・西部に3区分、あるいは、東部を2分して伊豆・東部・中部・西部に4区分、とすることがあり、この点には注意を要します。

明治前期における牛馬の分布

『静岡県史』は、「牧畜業」の項に「農耕用がほとんど」と前置きし、牛の飼養頭数を記しています。浜松県は1873(明治6)年に859頭、静岡県が1874(明治7)年に1,719頭、足柄県で同3,549頭です。浜松県は旧遠江国、静岡県は旧駿河国ですが、頭数の多い足柄県は旧伊豆国一円の4郡(田方たがた君沢きみさわ那賀なか・賀茂)なのか、2年後に神奈川県編入となる7郡を含むのかは不明です。
そのほぼ10年後、1884(明治17)年の静岡県における牛と馬の飼養頭数をみると
まず、牛の飼養総頭数は11,137頭、地域別には伊豆65%、駿河28%、遠江7%であり、伊豆が約3分の2を占めます。用途別には運搬用239頭、農耕用10,498頭、繁殖用318頭、搾乳用82頭であり、その比率は運搬用2%、農耕用94%、繁殖用3%、搾乳用1%となり、農耕牛が大部分を占め、搾乳牛は1%弱に過ぎません。また、牝(雌)牛と牡(雄)牛の対比は、伊豆69:31、駿河31:69、遠江30:70、県全体55:45であり、伊豆は牝牛、駿河・遠江は牡牛が圧倒的に多く、全体では牝牛がやや多くなっています。
次に、馬の飼養総頭数は16,954頭、地域別には伊豆23%、駿河31%、遠江46%であり、遠江が半分近くを占めます。用途別には運搬用10%、農耕用90%、繁殖用微少(0.2%)であり、農耕馬が大部分です。牝牡比は、伊豆75:25、駿河33:67、遠江34:66、県全体43:57であり、伊豆は牝馬、駿河・遠江は牡馬が圧倒的に多く、全体では牛とは逆に牡馬がやや多くなっています。
続いて、牛馬を比較すると、特徴として、総頭数は馬が牛の約1.5倍。地域別は、牛は伊豆が約3分の2、馬は遠江が約半分。用途別は牛馬共に農耕用が大部分。牝牡比は、全体で牛は牝、馬は牡がやや多く、地域別で牛馬共に伊豆は牝、駿河・遠江は牡が圧倒的多数、などを指摘できます。
この時期、静岡県では牛を馬に準じて農耕に使役していたようですが、伊豆で主流の農耕牛は一般に湿性の高い田地や傾斜地の耕作に適するとされています。また、伊豆に牝牛、牝馬の飼養が多いことから、この地域の農家は牛馬を繁殖させ、生まれた牛馬を役畜として他の地域に販売して収入を得ていたのではないかと推測されます。これは、他の地域に比べ、伊豆半島は急峻な山地が多く、稲や麦などの穀作に利用できる畑や水田が少なかったという特有の地形にも関連していると思われます。県内にやがて酪農の主役となる乳牛(搾乳牛)は少数ですが、伊豆に多数飼養されている牝牛はその乳牛を増加させる基盤になる可能性を秘めていたようです。

南伊豆地域の畜牛 ~ 旧来からの和牛飼育

『南豆畜牛史』は南豆(伊豆半島南部、現賀茂郡・下田市)における畜牛の歴史を記しています。それによれば、南豆には古来、放牧の習慣があり、良役牛を出したことから関東地方における唯一の畜牛場として知られていたそうです。そして、明治初年から伝統を受け継いだ畜牛の実践と牛種改良の努力が続けられ、今(1914〈大正3〉年)では「伊豆牛」の名声を得るようになったというのです。
さらに、伊豆牛には地域毎の固有条件(原種、古来の飼育習慣、地勢など)によって特徴が異なり、三つに大別されるといいます。その名称と主な産地は、第一は仁科牛にしなぎゅうで西岸4村(宇久須うくす・仁科・岩科いわしな・中川、現西伊豆町・松崎町)、第二は南部牛なんぶぎゅうで南岸7村(南上みなみかみ・朝日・三浜・南中みなみなか竹麻ちくま・三坂・南崎みなみざき、現南伊豆町)、第三は稲生沢牛いのうざわぎゅうで東岸7村(城東きとう稲取いなとり上河津かみかわづ下河津しもかわづ稲梓いなずさ・稲生沢・白浜、現東伊豆町・河津町・下田市)とされています。ちなみに、仁科牛の特徴を『西伊豆町誌』は「厳しく複雑な山地という立地条件にふさわしく、体格矮小・四肢強健にして、全身黒毛」であり、「古老は『黒牛』という」と紹介しています。
このように旧来から農耕や運搬に使役する牛の飼育が盛んだった伊豆南部は、明治期に入って乳牛や肉牛の需要が増えたため、和牛育成の強みを生かして牛種の改良を進めつつ、県内外に三地域の銘柄牛を供給していたのです。
  • 仁科牛(『南豆畜牛史』より転載)
  • 南部牛(『南豆畜牛史』より転載)
  • 稲生沢牛(『南豆畜牛史』より転載)

幕末期、ハリスに提供された伊豆の牛乳

明治に改元となる10年程前、下田において米国のタウンゼント・ハリス総領事に提供した牛乳の記録があります。
周知の事実ですが、ハリスは1856年8月(安政3年7月)、下田に入港して柿崎村の玉泉寺に米国総領事館を開設し、江戸幕府との交渉に当り、翌年6月に日米和親の下田協約、翌々年7月に日米修好通商条約の締結を実現します。
当時、米国総領事館が設置されたのは、現存する下田市柿崎の玉泉寺であり、境内にはハリス記念館があります。同館には柿崎村名主与平治の日記が所蔵され、その1858年3月(安政5年2月)の条などに「牛のちゝ」を調達する様子が記されています。
次は、与平治日記に認められた安政5年2月3~6日の「牛のちゝ」に関する記述(文中の[ ]は筆者挿入)であり、下欄に「与平治日記」の一部画像を参考として付しました。
  一 同三日[中略]今夕方、異人御掛り様より被仰候は、牛のちゝ少々異人用度由に付、
    近村へもたつね度様御申付被成候に付、下役弐人白濱村へ遣し候。
  一 同四日[中略]次に昨晩、白濱村へ注文致し置候牛のちゝ、五六勺程白濱村より送り来候に付、
    玉泉寺へ差上候。
  一 同五日[中略]尚又、玉泉寺異人掛様より牛のちゝ、是より日々弐合計りつゝも調度由被仰候に付、
    又々白濱村へ頼に遣し候[中略]
  一 同六日[中略]今朝、白濱村へ忠右衛門出役、牛のちゝ乳少々持参玉泉寺へ差上候。
    猶又、跡々も注文可致候様被仰候に付、久四郎中村より蓮臺寺へ行申候。

この概要は、2月3日、米国総領事館(玉泉寺)が設置された柿崎村の名主与平治は、伊豆奉行所の異人係から、異人に供する「牛のちゝ(牛乳)」少々を近村にも依頼して調達するよう指示を受け、配下の2人を北隣の白浜村に派遣。4日、白浜村から5~6勺(100ml程)の牛乳が届いたので玉泉寺に差出。5日、異人係から牛乳を日々2合位(360ml程)調達するよう指示を受け、再び白浜村に依頼。6日、白浜村に出張した忠右衛門が牛乳少々を持参して玉泉寺に差出、続けて注文を受けることになり、久四郎を北隣の中村経由でその先の蓮台寺村まで派遣、となります。
こうした経緯は、『玉泉寺今昔物語』などに詳述されており、それらを加味すると「異人」は病気の療養中であったハリスであり、牛乳は薬用の名目で提供されたようです。牛乳は、現下田市域内の白浜村・蓮台寺村・大沢村・落合村、現南伊豆町域内の青市村・馬込村(一條の青市側)から約2週間にわたって集められ、総量は9合8勺、代金は1両3分88文(約2両)、とされています。
集められた牛乳の量は余り多くはありませんが、官命を受けて苦労して広域から調達した様子がうかがえます。このようにして米国のハリス総領事に提供されたのは集乳の場所から推定して稲生沢牛や南部牛から搾った牛乳だったのでしょう。

なお、広く知られる「唐人お吉」の物語にはお吉が牛乳を集めてハリスに与える場面があります。しかし、これはフィクションであり、ハリスに関する各種資料や「与平治日記」などの現地資料に記された史実とは符合しません。

  • 瑞龍山玉泉寺の山門から望むハリス記念館(「玉泉寺公式サイト」より転載)
  • 「与平治日記」の一部(ハリス記念館所蔵)

文献に見る牛飼育事業の芽生え

明治に入ると静岡県に酪農の端緒となる牛飼育の事業が芽生えはじめます。
この動向を実証する史資料は少ないものの、次に文献が登場する1877(明治10)年頃までの事例を列挙することとします。
①1869(明治2)年、田方郡函南村(現・函南町)の仁田大八郎(常種)と同北上村(現・三島市)の遠藤牧平は、
 伊豆牛(力が強く昔から役牛として飼養)を改良するために西部産の牛30頭を購入して北上村に放牧したが、
 4年後、牛疫によって全頭が斃死してしまった。
②1870(明治3)年、賀茂郡岩科村(現・松崎町)の佐藤源吉は、同村田代にある250町歩(約250ヘクタール)の原野に
 村営牧場を開設し、当初は国内種(和牛)を中心に増殖を図った。
③1870(明治3)年、植田七郎は田方郡修善寺村(現・伊豆市)において牛乳の搾取販売を開始、本県の牛乳販売業の元祖と
 されている。しかし、需要が少なかったので地の利を求めて沼津町へ移転したが、間もなく廃業するに至った。
④1872(明治5)年、旧士族授産のために江原素六の首唱によって駿東郡元長窪村(現・長泉町)に牧牛社を創設し、多数の
 南部産和牛とともに洋種牛牝牡3頭を購入した。翌年、更に洋種牛牡牝3頭を購買、同時に搾乳と製乳方法の伝習を目的に
 社員1名を東京愛宕下の牛商前田留吉のもとに派遣した。その後も増頭など事業努力を重ねたが、種々の事故に遭遇するなど
 経営は思うに任せず、1878(明治11)年前後に「廃牧」に至った。
⑤1873(明治6)年、足柄県令の柏木忠俊は伊豆半島の牛を改良しようとして田方郡下に洋種牛を導入した。
⑥1873(明治6)年頃、賀茂郡岩科村の渡辺要は農業のかたわらで牛を飼い始め、1877(明治10)年頃には十数頭を飼育した。
以上の6つの事例を紹介しましたが、いずれも事業開始は1870~73(明治3~6)年の間に集中しています。これらの事例からは次のような点を読み取ることができます。第一に県内の伊豆牛と輸入の洋種牛を交配して改良を進めようとしていること、第二に伊豆牛産地の賀茂郡から隣接する伊豆の田方郡、駿河の駿東郡に広がっていること、第三に牛改良と並行して牛乳販売の実践や乳製品製造の企図が認められること、第四に牛疫などの事故や牛乳の需要不足などで事業継続は至難であったこと、です。

さて、これに続いて静岡県の牛飼育-酪農はどのように進展するのでしょうか。この事例のその後を含めて次回から順を追って紹介することとします。
 【参考文献】
 静岡県産牛馬組合連合会『嶽陽之畜産』1914年
 土屋準次『南豆畜牛史』1916年
 静岡県駿東郡役所『静岡県駿東郡誌』1917年
 江原先生伝記編纂委員『江原素六先生伝』1923年
 村上文機『玉泉寺今昔物語』玉泉寺、1933年
 森一『黒船談叢』下田文化協会、1947年
 静岡商工会議所『静岡市産業百年物語』1968年
 函南町『函南町誌』中巻、1984年
 静岡県『静岡県史』通史編5、1996年
 松崎町『松崎町史』資料編・産業編上巻、1997年
 西伊豆町『西伊豆町誌』資料第3集・民俗篇下巻、1997年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:佐藤敏彦
北海道十勝北部の鹿追町出身、千葉市在住。乳業会社に就職して6都道府県にて勤務。定年退職を契機に歴史研究を発起して十数年、大学・大学院にて史学を専攻。研究領域は酪農乳業を中心とする食品産業史。
関連論文 「史料『北海道ニ於ケル畜産〈殊ニ酪農〉奨励ニ関スル件』の考察」(『法政史学』第93号、法政大学史学会、2020年)、「北海道における国有未開地処分と大農場による開墾事業」(長井純市編『近代日本の歴史と史料』花伝社、2022年)、「農業経営の改革を担った金原農場蔬菜部」(伴野文亮・渡辺尚志編『金原明善』文学通信、2023年)
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]