
幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。
第1回 軍港の小さなフランス〜横須賀
JR横須賀駅から歩いてすぐ、丸みを帯びたクラシカルな軍門をくぐった先に、その場所はあります。フランス式のバラ園と隣り合わせに、旧日本海軍の戦艦「陸奥」の主砲が展示されています。対岸の米軍基地に佇むのはミサイル駆逐艦———。少々不思議な風景が広がるこの場所こそが、近代日本の出発点となった「横須賀製鉄所(後に造船所、海軍工廠)」跡です。20世紀の後半に世界を席巻する日本の工業は、ここから始まりました。
横須賀製鉄所は、江戸幕府が、フランスの協力を仰ぎ、幕末の1865年(慶応元年)に建設を始めました。建設のためにやって来たのは、27歳の若き技術者R.ヴェルニー率いるフランス人技術者の一行。明治維新後の1872(明治5)年には海軍省の造船所となりますが、1876(明治9)年までの10年間で100人を超えるフランス人技術者とその家族が滞在し、造船を中心とした工業技術を伝えました。
慶応年間から1875(明治8)年まで足かけ10年、製鉄所付きの医官として滞在したサヴァティエは、私信で製鉄所の光景を次のように伝えています。
「横須賀工廠はフランス人の一植民地で、二五人のフランス人の生活の場である。工場長はたいてい既婚者で、家族同伴で着任している。彼らは庭のあるヴェランダ付きの木造家屋に住んでいる。日本士官の住宅とは竹の生垣で隔てられており、ヨーロッパ風の集落をなしている。礼拝堂や代理司祭である神父の家もある。この工廠で一番重要な施設は徒弟学校であるが、そこでは16歳から19歳くらいまでの日本人伝習生53名が学び、優秀な成績を収めている・・・」。
サヴァティエは、技術者の到着後まもなく横須賀村に設けられた通称「ラシャメン所」の娼婦50名を性病予防のために検診し、日本人も広く診療したそうです。三浦郡一円(現在の神奈川縣三浦半島全域)の植物を採取して調べ上げ、ヨーロッパに紹介するなど植物学研究にも足跡を残しました。サヴァティエが、その教育レベルを高く評価した「徒弟学校」で技術教育を受けた少年の中には、“いのちのスープ”を提唱したことで有名な料理研究家・辰巳芳子さんの祖父にあたる辰巳一がいました。フランス語で厳しく教育された伝習生はフランス留学を経て、技術者として日本海軍の軍艦建造に貢献します。
製鉄所内には、2メートルもあるパン焼き釜があったそうです。フランス人の食生活になくてはならないものと言えば、パン、コーヒー、そしてもちろん牛乳でしょう。バターやチーズは輸入品が手に入ったでしょうが、牛乳やクリームはここで調達するしかなかったはずです。
慶応年間から1875(明治8)年まで足かけ10年、製鉄所付きの医官として滞在したサヴァティエは、私信で製鉄所の光景を次のように伝えています。
「横須賀工廠はフランス人の一植民地で、二五人のフランス人の生活の場である。工場長はたいてい既婚者で、家族同伴で着任している。彼らは庭のあるヴェランダ付きの木造家屋に住んでいる。日本士官の住宅とは竹の生垣で隔てられており、ヨーロッパ風の集落をなしている。礼拝堂や代理司祭である神父の家もある。この工廠で一番重要な施設は徒弟学校であるが、そこでは16歳から19歳くらいまでの日本人伝習生53名が学び、優秀な成績を収めている・・・」。
サヴァティエは、技術者の到着後まもなく横須賀村に設けられた通称「ラシャメン所」の娼婦50名を性病予防のために検診し、日本人も広く診療したそうです。三浦郡一円(現在の神奈川縣三浦半島全域)の植物を採取して調べ上げ、ヨーロッパに紹介するなど植物学研究にも足跡を残しました。サヴァティエが、その教育レベルを高く評価した「徒弟学校」で技術教育を受けた少年の中には、“いのちのスープ”を提唱したことで有名な料理研究家・辰巳芳子さんの祖父にあたる辰巳一がいました。フランス語で厳しく教育された伝習生はフランス留学を経て、技術者として日本海軍の軍艦建造に貢献します。
製鉄所内には、2メートルもあるパン焼き釜があったそうです。フランス人の食生活になくてはならないものと言えば、パン、コーヒー、そしてもちろん牛乳でしょう。バターやチーズは輸入品が手に入ったでしょうが、牛乳やクリームはここで調達するしかなかったはずです。
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公園内にあるフランス人官舎を再現したミュージアム・ティボディエ邸に展示された
「横須賀明細壱覧圖」(1885年)
統計は語る
1884(明治17)年の神奈川県統計書から、1880(明治13)年の神奈川県内における牛乳の生産量がわかります。最も搾乳高が多かったのは、横浜・山手の外国人居留地に近い久良岐郡の190,400合(約34 .2 キロリットル=約35.4トン)、次いで三浦郡の37,000合(約6.6キロリットル=約6.8トン)でした。渋沢栄一らが牧場を開いた箱根・仙石原のある足柄下郡は9,860合(約1.8キロリットル=約1.9トン)でした。
1872(明治5)年、横浜・山手に牧場を開いた中澤源蔵は、1876(明治9)年までに横須賀にも牧場を開いていたとされます。この統計にある三浦郡の牛乳生産高は中澤牧場のものだった可能性があります。関係者の証言によれば、中澤家は横須賀の汐入町付近に土地を所有していたようです。「フランス人村」での需要が、横須賀に牧場を開いた決め手のひとつだったかも知れません。
「職工から大工、コック、別当、お手伝いさんに至るまで、村人が就職口を見つけることができた。各種の工場建設のための資材調達、技術者の食糧確保のために、横須賀村がかなり潤ったに違いない」と研究者の西堀昭は記しています。
アメリカの工業技術を目の当たりにして製鉄所建設を進言したとされる幕臣の小栗上野介忠順と、国を二分する争乱にも動じず製鉄所建設をやり遂げたヴェルニー。ふたりの胸像が、現在も使用されている1号ドックを見つめるように、対岸のヴェルニー公園に佇んでいました。
1872(明治5)年、横浜・山手に牧場を開いた中澤源蔵は、1876(明治9)年までに横須賀にも牧場を開いていたとされます。この統計にある三浦郡の牛乳生産高は中澤牧場のものだった可能性があります。関係者の証言によれば、中澤家は横須賀の汐入町付近に土地を所有していたようです。「フランス人村」での需要が、横須賀に牧場を開いた決め手のひとつだったかも知れません。
「職工から大工、コック、別当、お手伝いさんに至るまで、村人が就職口を見つけることができた。各種の工場建設のための資材調達、技術者の食糧確保のために、横須賀村がかなり潤ったに違いない」と研究者の西堀昭は記しています。
アメリカの工業技術を目の当たりにして製鉄所建設を進言したとされる幕臣の小栗上野介忠順と、国を二分する争乱にも動じず製鉄所建設をやり遂げたヴェルニー。ふたりの胸像が、現在も使用されている1号ドックを見つめるように、対岸のヴェルニー公園に佇んでいました。
宣教師の嘆き
ヴェルニーは、幕末から明治初期の12年にわたって横須賀に家族と滞在し、その間に3人の子どもを授かったといいます。家族の食卓に、牛乳は届けられていたのでしょうか。
フランス人技術者やその家族たちの食生活についての資料を探しましたが、あまり見つかりませんでした。なお、幕末に横須賀に滞在した宣教師ルイ・フェレの回顧録に、妻を伴わず来日したフランス人を、次のように諭したと伝えた箇所があるそうです。
「どうしてなのです。あなた方は週に一度肉を食べるのもままならず、まずいシードル酒ばかり飲んでいた港の頃と違い、今やただ同然で済んでいるのに、金曜日に肉を食べずにいることもできなければ、ひと月で500や600や700フランも稼いでいるのに、その一部を貯金することもできないなんて」
イエス・キリストが十字架にかけられた金曜日に肉食をつつしむのは、カトリックの伝統ですが、その金曜日にも肉を食べていたのだとすれば、横須賀滞在中には、ほぼ毎日のように肉を食べていたかも知れません。
1874(明治7)年、三浦郡の有力者らが横浜の戸部に横浜牧畜会社を設立します。横須賀の区長や戸長ら14名が名を連ねた会社の建議書に、こんな一節があります。
「今日の形勢ニ膺(あた)リ肉食日ニ開ケ月ニ熾ンニシテ、屠牛ノ夥多ナル又数フヘカラス、然シテ蕃息ノ法未タ備ハラス、其数日々ニ減少シ其価日々ニ騰、寒農細民ニ至リテ請求スルノ策ナク、僅ニ三浦一郡ノ如キモ五六年前ニ比較セハ半ヲ以テ数ルモ猶未タ足ラス、農間殆ント耕耨ヲ運搬ニ苦ミ罷在、実ニ以憐然ノ至リ不堪、今般有志ノ者協議シ以テ一ノ会社ヲ結ヒ、…」(若命寿男家文書)
肉食が盛んになり、おびただしい数の牛が屠られているが、繁殖の方法が備わっていない。そのため牛の数が減り、価格が高騰して、零細な農民は牛を求めることができない。三浦郡だけでも5、6年前と比較して牛の数が半数以下になり、農耕、運搬にも苦しんでいる。あわれで見るに堪えず、有志で協議して会社を起こすことにした、というのです。牛の価格が高騰し、横須賀近郊の村々では農作業に欠かせない役牛にも事欠くほどだったと述べられています。
フランス人のみならず、開国と文明開化で牛肉の需要が急増したようです。1874(明治7)年に出た「開化世相の裏表」には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々マデ之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ…」とあり、その流行ぶりがうかがえます。
フランス人技術者やその家族たちの食生活についての資料を探しましたが、あまり見つかりませんでした。なお、幕末に横須賀に滞在した宣教師ルイ・フェレの回顧録に、妻を伴わず来日したフランス人を、次のように諭したと伝えた箇所があるそうです。
「どうしてなのです。あなた方は週に一度肉を食べるのもままならず、まずいシードル酒ばかり飲んでいた港の頃と違い、今やただ同然で済んでいるのに、金曜日に肉を食べずにいることもできなければ、ひと月で500や600や700フランも稼いでいるのに、その一部を貯金することもできないなんて」
イエス・キリストが十字架にかけられた金曜日に肉食をつつしむのは、カトリックの伝統ですが、その金曜日にも肉を食べていたのだとすれば、横須賀滞在中には、ほぼ毎日のように肉を食べていたかも知れません。
1874(明治7)年、三浦郡の有力者らが横浜の戸部に横浜牧畜会社を設立します。横須賀の区長や戸長ら14名が名を連ねた会社の建議書に、こんな一節があります。
「今日の形勢ニ膺(あた)リ肉食日ニ開ケ月ニ熾ンニシテ、屠牛ノ夥多ナル又数フヘカラス、然シテ蕃息ノ法未タ備ハラス、其数日々ニ減少シ其価日々ニ騰、寒農細民ニ至リテ請求スルノ策ナク、僅ニ三浦一郡ノ如キモ五六年前ニ比較セハ半ヲ以テ数ルモ猶未タ足ラス、農間殆ント耕耨ヲ運搬ニ苦ミ罷在、実ニ以憐然ノ至リ不堪、今般有志ノ者協議シ以テ一ノ会社ヲ結ヒ、…」(若命寿男家文書)
肉食が盛んになり、おびただしい数の牛が屠られているが、繁殖の方法が備わっていない。そのため牛の数が減り、価格が高騰して、零細な農民は牛を求めることができない。三浦郡だけでも5、6年前と比較して牛の数が半数以下になり、農耕、運搬にも苦しんでいる。あわれで見るに堪えず、有志で協議して会社を起こすことにした、というのです。牛の価格が高騰し、横須賀近郊の村々では農作業に欠かせない役牛にも事欠くほどだったと述べられています。
フランス人のみならず、開国と文明開化で牛肉の需要が急増したようです。1874(明治7)年に出た「開化世相の裏表」には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々マデ之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ…」とあり、その流行ぶりがうかがえます。
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ティボディエ邸から海を臨む
酪農に商機
牧畜会社の建議書に、牛乳生産の計画もありました。原資料の虫食いにより肝心な一字が不明なのですが、不明部分は「搾」と想像できます。
「広ク国内生産スル所ノ牝牛ヲ買入、之ニ外国ノ良牡牛ヲ孳尾サセ、先畜養ニ馴タル農家ニ貸付或ハ預ケ、遂日戸々ニ養牛セシメハ、使役ハ勿論糞汁ハ田圃ヲ養フノ益アリ、且犢犢ノ飼育、乳汁ノ□方及ヒバタ、チース等ヲ製スルノ産業ヲ開キ、貧産無産ノ徒ヲシテ其一業ニ就カシメ、而シテ追々衆人牧畜ノ真利ヲ暁知シ、良種ノ牝牡牛ヲ蕃殖セハ自然御国益ノ一端ニモ可相成ト、… 」 (若宮寿男家文書)
国産の牝(雌)牛を買い付けて外国の良い牡(雄)牛を掛け合わせ、家畜に慣れた農家に貸し付ける、または預けることで、役牛として活用できると同時に、糞尿で田畑を肥やすこともできる。また、子牛を育て、牛乳を搾りバター、チーズ等の製造という新産業を開けば、貧しい人も手に職をつけることもでき、人々が牧畜に理解を深め、良種を繁殖すれば国益にもかなう、と持論を展開しています。
出資の呼びかけ文には、「爰ニ外国人ニ交際開ケテ巳来、肉食スル者牛乳ヲ呑ムモノ日々増エ、月ニ熾カンニシテ、人身ノ裨益アルヲ知ルト雖モ、今日本国中ニ生産スル牛ノ数屠殺スル牛ノ数及計算スレハ壱か年ニ幾千疋不足」とあり、肉食とともに牛乳を飲む人が日々増えて、健康につながるとわかっているが、牛の数が何千も不足している——と記されています。
会社設立の中心人物は、秋谷村の若命信義や、後に初代の三浦郡長となる大津村の小川茂周ら、現在は横須賀市となっている近郊の村々で名主の家に生まれた若きリーダーたちでした。
「生産したる後、乳汁を搾り、製乳する事、人々望あるものへ伝授せしめる事」(子牛を生産した後は、搾乳や乳製品加工を希望者に伝授すること)の文言からは、新たな時代の空気が感じられます。奥羽(東北)や中国から牛を買い付け、時機を見て販売する、家畜の市場を設けて便宜をはかる、といった先進的な事業プランは、外国人との交流から生まれたのではないでしょうか。
貸付の方法は、妊娠した牝牛1頭を50円と定めて、半額を会社に納め半額は5年の年賦払いとし、生まれた子牛を1年育てて販売しその販売代金50円を会社と牛を飼う人に半額ずつ分けて支払われる仕組みでした。
出資呼びかけの段階で、「乳汁凡一日壱升ツゝ出ル 右製薬の方法ヲ立、或ハ壱村或ハ二ヶ村ニテ製薬所ヲ構へ、夫々伝習シテ村民ニ其ヲ習ワセシムル事 但ハダ、チーズ コンデンスミルクの類ナリ」とあり、地域でのバターやチーズ、煉乳など乳製品生産も視野に入っていました。工場ではなく、製薬所と呼んでいるのも興味深いですね。
事業初年度、1874(明治7)年6月から翌年までの収支決算書によれば、収入は神奈川県庁からの借り入れ6,396円と出資者14人から2,650円などで合計9,599円、預け牛は123頭を数えていました。作成年は不明ながら、牝牛を貸与された人の名簿も残っており、「赤すたれ 二才牝」「小ふち星 二才牝」のように、牛の特徴と年齢も書かれています。牛を引き受けた49人のうち、秋谷村が24人、長坂村が17人でした。秋谷村や大津村に牛の見回り人を置き、月に3回必ず巡回することも定められていました。
1877(明治10)年の記録からは、2人の出資者が去り出資者への配当金も出せないなど、経営は順調とは言えなかったようです。とはいえ、農家の支援とビジネスチャンスの双方を狙った地域発のベンチャーが、村人にとって乳牛との出会いとなり、その後の酪農の普及につながったことは間違いないでしょう。
「横須賀経済経営史年表」(1970年)によると、1895(明治28)年当時の横須賀町には中沢牧場、鬼沢牧場、豊島村豊の坪に若命牧場があり、 牛乳が販売され、鬼沢牧場では煉乳も製造されたといいます。 鬼沢牧場があった坂本町は汐入町から近く、海軍の退役軍人が「これからは牛乳の時代だ」と牧場を始めたとの逸話を郷土史家が記しています。牧畜会社を興した若命のものと見られる牧場があった豊島村・豊の坪は現在の横須賀市中心部東側、不入斗公園付近と見られます。
「広ク国内生産スル所ノ牝牛ヲ買入、之ニ外国ノ良牡牛ヲ孳尾サセ、先畜養ニ馴タル農家ニ貸付或ハ預ケ、遂日戸々ニ養牛セシメハ、使役ハ勿論糞汁ハ田圃ヲ養フノ益アリ、且犢犢ノ飼育、乳汁ノ□方及ヒバタ、チース等ヲ製スルノ産業ヲ開キ、貧産無産ノ徒ヲシテ其一業ニ就カシメ、而シテ追々衆人牧畜ノ真利ヲ暁知シ、良種ノ牝牡牛ヲ蕃殖セハ自然御国益ノ一端ニモ可相成ト、… 」 (若宮寿男家文書)
国産の牝(雌)牛を買い付けて外国の良い牡(雄)牛を掛け合わせ、家畜に慣れた農家に貸し付ける、または預けることで、役牛として活用できると同時に、糞尿で田畑を肥やすこともできる。また、子牛を育て、牛乳を搾りバター、チーズ等の製造という新産業を開けば、貧しい人も手に職をつけることもでき、人々が牧畜に理解を深め、良種を繁殖すれば国益にもかなう、と持論を展開しています。
出資の呼びかけ文には、「爰ニ外国人ニ交際開ケテ巳来、肉食スル者牛乳ヲ呑ムモノ日々増エ、月ニ熾カンニシテ、人身ノ裨益アルヲ知ルト雖モ、今日本国中ニ生産スル牛ノ数屠殺スル牛ノ数及計算スレハ壱か年ニ幾千疋不足」とあり、肉食とともに牛乳を飲む人が日々増えて、健康につながるとわかっているが、牛の数が何千も不足している——と記されています。
会社設立の中心人物は、秋谷村の若命信義や、後に初代の三浦郡長となる大津村の小川茂周ら、現在は横須賀市となっている近郊の村々で名主の家に生まれた若きリーダーたちでした。
「生産したる後、乳汁を搾り、製乳する事、人々望あるものへ伝授せしめる事」(子牛を生産した後は、搾乳や乳製品加工を希望者に伝授すること)の文言からは、新たな時代の空気が感じられます。奥羽(東北)や中国から牛を買い付け、時機を見て販売する、家畜の市場を設けて便宜をはかる、といった先進的な事業プランは、外国人との交流から生まれたのではないでしょうか。
貸付の方法は、妊娠した牝牛1頭を50円と定めて、半額を会社に納め半額は5年の年賦払いとし、生まれた子牛を1年育てて販売しその販売代金50円を会社と牛を飼う人に半額ずつ分けて支払われる仕組みでした。
出資呼びかけの段階で、「乳汁凡一日壱升ツゝ出ル 右製薬の方法ヲ立、或ハ壱村或ハ二ヶ村ニテ製薬所ヲ構へ、夫々伝習シテ村民ニ其ヲ習ワセシムル事 但ハダ、チーズ コンデンスミルクの類ナリ」とあり、地域でのバターやチーズ、煉乳など乳製品生産も視野に入っていました。工場ではなく、製薬所と呼んでいるのも興味深いですね。
事業初年度、1874(明治7)年6月から翌年までの収支決算書によれば、収入は神奈川県庁からの借り入れ6,396円と出資者14人から2,650円などで合計9,599円、預け牛は123頭を数えていました。作成年は不明ながら、牝牛を貸与された人の名簿も残っており、「赤すたれ 二才牝」「小ふち星 二才牝」のように、牛の特徴と年齢も書かれています。牛を引き受けた49人のうち、秋谷村が24人、長坂村が17人でした。秋谷村や大津村に牛の見回り人を置き、月に3回必ず巡回することも定められていました。
1877(明治10)年の記録からは、2人の出資者が去り出資者への配当金も出せないなど、経営は順調とは言えなかったようです。とはいえ、農家の支援とビジネスチャンスの双方を狙った地域発のベンチャーが、村人にとって乳牛との出会いとなり、その後の酪農の普及につながったことは間違いないでしょう。
「横須賀経済経営史年表」(1970年)によると、1895(明治28)年当時の横須賀町には中沢牧場、鬼沢牧場、豊島村豊の坪に若命牧場があり、 牛乳が販売され、鬼沢牧場では煉乳も製造されたといいます。 鬼沢牧場があった坂本町は汐入町から近く、海軍の退役軍人が「これからは牛乳の時代だ」と牧場を始めたとの逸話を郷土史家が記しています。牧畜会社を興した若命のものと見られる牧場があった豊島村・豊の坪は現在の横須賀市中心部東側、不入斗公園付近と見られます。
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「明治三十八年原商店引札」神奈川県立図書館所蔵
原商店のあった逸見は汐入と隣接し、海軍関係者が多く暮らした地域
| 【参考文献】 渡辺実「日本食生活史」1964年 横須賀経済経営史年表編纂委員会「横須賀経済経営史年表」1970年 富田仁、西堀昭「横須賀製鉄所のひとびと—花ひらくフランス文化」1983年 石井昭「ふるさと横須賀」1987年 西堀昭「日仏文化交流史の研究 : 日本の近代化とフランス 増訂版」1988年 「市史研究 横須賀」第6号 2007年 吉田ゆり子「幕末に横須賀に滞在したフランス人宣教師の記録」 「新横須賀市史 通史編 近現代」2017年 「新横須賀市史 資料編 近現代」2017年 |
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 ▶「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 ▶「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]



