【静岡編】
第3回 酪農導入の前期(明治30年頃まで)
~その2 駿河・遠江と県内連携

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第3回 酪農導入の前期(明治30年頃まで)
~その2 駿河・遠江と県内連携

駿河の牛飼養と牛乳販売

静岡県の中心に位置する駿河地域では、明治の早い時期から牛乳や牛肉の需要が高まり、そのための牛の飼養(繁殖)も盛んになったと思われます。その全体像は不明ですが、文献に記述されている事例の中から数点を紹介します。
  • 現在の静岡県地図
①第1回で記したように、駿東郡元長窪村(現長泉町)の牧牛社は1872(明治5)年に牧場を開設し牛の繁殖と販売を始めたものの、
 4年後に事故と社員退社などで廃業の危機に瀕した。その後、事業は残留社員が奮励し、牛の頭数も1880年2月に28頭、1887年末で
 48頭と持ち直したが、1888(明治21)年頃からの牛価格下落などで経営は頓挫して解散となった。
②庵原郡由比村(現静岡市清水区)の由比郷右衛門は、1880(明治13)年に洋種・雑種牛10頭を購入して合計20余頭の乳牛を所有、
 農商務省から純粋短角種牛を借り受けて畜牛の改良に専心した。由比は、牛乳の利用があってこその畜牛改良と考え、1885年12月、
 静岡追手町(現静岡市葵区)に由比牧場を開設し、生乳と乳製品を販売した。
③明治初頭に愛鷹山牧場が民業化後、1883(明治16)年10月に岡田金吾らが発起して愛鷹牧畜会社を創立した。駿東郡金岡村中沢田
 (現沼津市)の牧場では1892年12月に牛126頭・馬5頭・羊1頭を飼養していたが、事業は振るわずに1900(明治33)年頃解散と
 なった。
④ 1893(明治26)年の『静岡繁昌記』に旧駿府城下(現静岡市葵区駿府城公園の周辺)の牛乳販売所が掲載されている。旧城草深門内
 の浜村育牛所、旧城四ツ足門内の由比育牛場、東草深の藤波牛乳店、三番町の田中牛乳店、大工町の青野牛乳店である。浜村育牛所は
 田方郡江間村(現伊豆の国市)に本牧場を持つ浜村理平が1890(明治23)年に設立。40数頭の牝牛を飼養して日均3斗5升(1合=
 180ml瓶換算で350本)を搾乳し、市中の徳川慶喜公・県知事・監獄署・静岡病院などに販売していた。また、平野房次郎の由比
 育牛場は1879(明治12)年に設立し、毎日3斗(同300本)程度の牛乳を販売していた。
⑤元徳川家御家人の大塚大次郎は、1884(明治17)年頃に新富町(現静岡市葵区)で大塚牧場を始め、ホルスタイン種を中心に10数
 頭を飼育したが10年ほどで廃業した。
⑥ 富士郡上野村(現富士宮市)の牧野佳志郎は、役牛繁殖を目的とし、1888(明治21)年に岩手県大川村・釜津田村(現下閉伊郡岩泉
 町)より牝牛24頭、牡牛2頭を購入し、佐藤源吉経営の岩科牧場の一部を借りて放牧したが、繁殖に失敗して1894(明治27)年に残余
 全頭を売却した。牧野は他に純粋短角種やブラウンスイス種を導入して牛の改良を試みている。

この頃、牛乳の販売業は牛乳搾取さくしゅ営業と称され、県から鑑札(許可)を受けた牛乳搾取場で「乳牛を畜養し乳汁をしぼり」販売していました。静岡市を商圏とする上述の②④⑤がその事例です。1889(明治22)年に県内唯一の市となった静岡市は、当時、約4.36㎢の狭いエリアに約3.8万人が住む旧駿府城下の町であり、隣接地を含めていち早く牛乳の飲用が普及したのでしょう。

遠江の牛飼養と牛乳販売 ~先駆けは遠江興農社

遠江地域において牛の飼養と牛乳販売に先駆的役割を果たしたのは、川島滝蔵らが設立した遠江興農社です。その歴史を「西遠乳業雑史」などの文献から探ると概ね次のようになります。
①山名郡福田ふくで村(現磐田市)の川島滝蔵は、1880(明治13)年4月から田方郡韮山町(現伊豆の国市)の牧羊場と千葉県下総
 三里塚の農商務省種畜場で緬羊・乳牛の飼養を実習して翌年末に帰郷した。川島は23歳にして牧畜の起業を志し、長上郡安間
 村(現浜松市中央区)の金原明善や丸尾文六らの賛同と支援を得て、1882(明治15)年5月に同郷の太田清十・川島清作・
 本間嘉吉と共同して遠江興農社を創立した。
②創業には、山名郡浜部村(現磐田市)の土地2反4畝に36坪の牛舎を建て、田方郡や千葉県などから英国種である短角種とその
 雑種牝牡牛を10数頭導入し、牧夫に三里塚牧場種牡牛係の菅野善次郎を雇用して乳牛の管理・増殖・育成を担当させた。さらに、
 同地で牛乳販売を開始し、元城(現浜松市中央区)に出張所を設けた。これが西遠地方における牛乳販売の先駆けとなった。
③1885(明治18)年、事業拡張を期して4人の共同経営から出資者による株式会社に転換(金原は158円を出資)した。牛乳販売
 では拠点を浜松栄(現浜松市中央区)、豊田郡中泉村(現磐田市)、掛川(現掛川市)に増設し、当時では珍しい色刷りのポスター
 による宣伝を行った。また、増殖育成した牛は同年、田方郡の川口秋平に4頭、仁田大八郎に15頭、山口活平に2頭を分譲した。
④1887(明治20)年9月、田方郡の土肥とい小土肥おどい・狩野村舟原(現伊豆市)に450町歩余の共同山林を借りて育成牧場を造り、
 牧場主任に高橋芳太郎を配して牛の改良増殖を試みた。しかし、牛の育成は良好だったものの、本社との距離的な隔絶や現地の
 不便な交通事情などがあり、止むを得ず1889年(明治22)4月に廃業とし、所有牛は多くを現地にて分譲(伊豆産馬会社15頭、
 飯田新三2頭)した。
⑤ 1893(明治26)年7月の記録によれば、牛乳に使用する搾乳量は1日平均3斗8升2合(仮に1合=180ml瓶に換算すると382本、
 販売所毎には浜部8本、浜松元城138本、浜松栄8本、中泉99本、掛川51本)であった。同地では牛乳販売を目的とした乳牛の飼養
 希望者が徐々に増加し、それに応じて余剰牛を分譲しており、この頃の所有牛は短角純粋種28頭、短角雑種23頭であった。なお、
 牛乳販売では1896年頃に秤り売りを全廃し、ガラス瓶詰(5勺=90mlと1合の二種)による販売に切り替えた。

遠江は畜牛の分野で伊豆や駿河に後れを取っていましたから、遠江興農社(以下「興農社」)の登場は地元で歓迎されたに違いありません。そして、同社は先行する伊豆の事業に学んで牛の改良増殖を手掛け、ほどなく牛乳販売に軸足を移すことになります。

ところで、金原明善は天竜川治水などの偉業を成し遂げた遠江の名望家であり、川島滝蔵の志望に応じて牧畜の実習や起業を後援し、株主として会社経営を支援しています。金原の事蹟は資料集『金原明善資料』に多くが記されており、そこには興農社に関する資料20数点が収載されています。その中から2点をピックアップして紹介しましょう。
1点目は、牧場の設置場所を探し回ったことを叙述した金原の手記です。金原は、川島ら4人で初めに周智郡、続いて二派に分かれて甲州・信州と豊田・引佐・あらたま・榛原など諸郡を探し回った、しかし、適地は見つからずに結局は会社を山名郡於保村に設けた、とあります。遠江域内に加えて山梨・長野の両県にも足を延ばしたのは、牛馬羊を飼育する複合的な牧畜を想定していたためと考えられ、その適地がなく牛飼育に限定した牧場設置に落ち着いたようです。
2点目は、株主に総会の開催を案内する文書です。興農社が株式会社に転換した翌年、1896(明治29)年1月の文書であり、現株主として34名を記しています。その住所は駿河側の榛原郡と愛知県側の引佐郡を除く7郡に分散していますが、会社の周辺地に居住する株主が経営に関与していたことが分かります。
  • 金原明善(金原明善記念館提供)明治12年(当時48歳)
なお、この時期、遠江には興農社以外にも牛飼養の事例がありますので紹介します。
①1881(明治14)年5月、城東郡池新田村(現御前崎市)の丸尾文六は下総種畜場の短角種牡1頭を借り受け、牝牛17~18頭を
 購入して畜牛改良を試みた。丸尾はこの事業を興農社設立の支援と並行して開始したが、5~6年後に中止して全頭を興農社に
 譲渡した。 
②1885(明治18)年、周智郡森町の鈴木喜三郎は純粋デボン種牝牛を導入して牛乳搾取業を開始した。この乳牛は同郡初の
 洋種牛であり、1日の乳量約1斗3~4升の優良種であった。
③1895(明治28)年、数年前まで興農社の小土肥育成牧場主任を務めていた高橋芳太郎は山名郡笠井村高尾(現袋井市)に
 興養社を設立し、牛乳搾取業を開始した。
④1895(明治28)年頃、引佐郡井伊谷村(現浜松市浜名区)の中井宇平は10人の協力者と精乳社を設立し、浜松の牛馬商上村
 八十八からエアシャー種2頭を購入し、その後6~7頭に増やして牛乳搾取業を開始した。

遠江興農社が運営した牛乳販売の仕組み

興農社の事業運営に関しては当時の帳簿類が一部存在(綴書6冊、東海明治所蔵、以下「興農社史料」)しています。ここからは、その史料を読み解きながら、興農社が営んだ牛乳販売の仕組みを想像してみたいと思います。画像は興農社の「貸乳勘定帳」であり、表紙は「明治二十六年七月・以降」、その第1ページは「浜松元城乳店勘定七月分」です。
史料の帳票に記されている乳牛毎の乳量・乳代金をまとめると次表のようになります。


浜松元城乳店は1893(明治26)年7月に乳牛8頭から4,266.5合(42斗6升6合5勺)の牛乳を搾り、これを販売していたのです。この月間乳量は日均で約138合となり、前項で記した同月の販売量(1合瓶に換算して138本)と一致します。また、乳代金の合計は29円86銭5厘であり、史料下段の「乳代」と同額です。さらに、史料下段には、「店代」7円、「雑種モンゴーの牝族一、谷城・夕日の牡族弐」20円、「合計」56円86銭5厘、8月4日領収済と記されています。
この浜松元城乳店は5ヵ所にある乳店(牛乳販売所)の1つですが、史料(貸乳勘定帳の他ページを含む)を通して興農社における牛乳販売事業の仕組みを類推することができます。例えば、以下のⓐ~ⓕなどが挙げられます。
 ⓐ 興農社は乳店に乳牛を貸与し、乳牛の搾乳量は験査(月3回)によって1日当り乳量を設定していたこと。
 ⓑ 興農社が貸与する乳牛は乳店間でも移動していたこと。
 ⓒ 乳代は同一の単価(1合当り7厘)とし、設定乳量の適用は乳牛移動や搾乳期間などに応じて調整していたこと。
 ⓓ 興農社は乳店に牛乳搾取営業の施設を貸与し、賃貸料を徴収していたこと。
 ⓔ 貸与した乳牛が出産した子牛(モンゴーの牝族、谷城と夕日の牡族)は乳店に売却していたこと。
 ⓕ ⓒ~ⓔによる代金は1ヵ月分をまとめて翌月に徴収していたこと。
このように、表紙そのものが興農社「貸乳勘定帳」となっており、乳店は乳代を支払っていますから、乳店は興農社からの借乳(借用した乳牛から搾った牛乳)を処理して販売していたことになります。
したがって、牛乳の販売価格は、乳店が乳代金・施設賃借料・飼養販売諸経費を差引いて利益が出るように、おそらくは興農社の指導を受けて設定していたのでしょう。また、借用乳牛が出産した子牛の処分権(売却、所有など)は借主の乳店が持ち、乳店はそれを収益源にしていたのではないかと思われます。
なお、浜部(本社所在地)・浜松栄の2乳店には店代と子牛売却の記載がありません。推測すれば、浜松元城・中泉・掛川の3乳店は店主と興農社の契約による独立採算的な事業形態であり、浜部・浜松栄の2乳店はそれとは一部異なる事業形態であったと考えられます。

各地に開設された獣医伝習所

わが国には、古くから馬の診断や治療をするうま薬師すくし伯楽はくらくなどと呼ばれる人たちが存在し、これが獣医の源流のようです。
農商務省は1881(明治14)年末に獣医数(鍼治・蹄鉄業を含む)を調査し、静岡県の人数は40名でした。続いて、明治政府は1885(明治18)年8月に獣医免許規則と獣医開業試験規則を制定し、翌年7月に施行となりました。この背景には西洋獣医学の導入や牛馬の改良・増殖といった要請があったのですが、静岡県では時期を同じくして次のように獣医の伝習所・講習所が開設されています。
① 1883(明治16)年、村営の岩科牧場を保有していた賀茂郡岩科村は獣医伝習所を開設した。講師に静岡県職員の牧野獣医学士を
 招いて1週間の講習を実施し、8名の伝習生を出した。
② 1884(明治17)年、小川宗助は仁田大八郎(小三郎)・山口活平らとともに君沢郡中村手無(現三島市)に獣医伝習所を開設した。
 講師は岩科村と同様に牧野を招聘し、伊豆のみならず駿東地域の希望者をも収容して講習を行った。
③ 1886(明治19)年、川島滝蔵は興農社の株主でもあった山崎千三郎・高島甚三郎らとともに篤志の寄付を募り、佐野郡掛川宿(現
 掛川市)の農学舎内に私立獣医講習所を開設した。講師は他の獣医伝習所と同様に牧野とし、農村の畜産教育と獣医師の養成を図った。 
これら3例の伝習・講習は何れも県職員を講師としており、県の協力を得ながら現地主導で実施している様子がうかがえます。
この中で小川宗助らが開設した獣医伝習所については、伊豆市資料館が所蔵する山口家文書に1884(明治17)年7月7日付の「獣医伝習所設立大意」という文書があり、そこには設立者が協議決定した事項(獣医伝習所の設立趣旨、同伝習所の設置規則・伝習規則・庶務細則)が記されています。

次にその文書の概要を紹介します。
設立趣旨は、静岡県では「牛馬の繁殖、月を遂ふて益盛ん」になり、現在は「豆駿遠三州の牛馬総数大約三万千五百有余頭」である、しかし「獣医を問へは僅々数名」であり、「牛馬の健康を保護」するには「五百頭に付一人の獣医」を要する、そこで「獣医伝習所を設け、益獣医の学術を伝習研磨し獣医生を育成し、傍ら病畜治療を施し、以て逐次本業の隆盛を期する」というものです。また、設立者は創業費50円、初年度経費96円を見積り、相互の分担額を決め、その内容(組織名、カッコ内に代表者・分担額)は、牧羊社(小川宗助、44.364円)、伊豆産馬会社(仁田大八郎・田中鳥雄・川口秋平、52.648円)、桂谷牧畜社(山口活平・野田八弥、24.489円)、河内産馬社(省略、14.059円)、三島通運分社(省略、10.409円)となっています。その他の取決めは、ⓐ伝習者の志願年齢は満17~35歳、ⓑ講習科目は解剖学・生理学・病理学・薬剤学・理化学・動植物学・家畜管理法など、ⓒ伝習期限は2年、ⓓ得業者には速成獣医術卒業免状を授与、などです。
なお、この文書は7月7日付ですが、文献には設立時期を、「6月14日」あるいは「10月」とするものがあり、その真偽は不明です。
  • 「獣医伝習所設立大意」の一部(伊豆市資料館所蔵)

牛馬市場の興隆と乳肉事業の健全化

明治期に入ると農業における伝統的な役牛馬の飼養に畜種改良や乳肉消費の要素などが加わり、様々な動きが生じます。
その例の一つは牛馬市の開催であり、特に牛売買が盛んになります。
1885(明治18)年、伊豆産馬組合の仁田大八郎(小三郎)と川口秋平が発起人となって、11月1日より3日間、田方郡仁田村(現函南町)で牛馬競り市を開催し、以来、定期開催の牛馬市となりました。県内と隣県だけではなく奥州からも出品があり、多数の牛馬商が参加して年々隆盛を極めたそうです。
また、静岡県は1893(明治26)年12月に「牛馬及牛馬売買営業取締規則」を発布し、牛馬の伝染病予防、飼育上の届け出、売買不正の防止など取締りの強化を図りました。その第1条には「牛馬を購入交換又は譲受けたるときは種類(和洋雑種の別)産地・使用の目的(乗馬・駄馬・馬車馬・耕馬・牧牛・耕牛・乳牛等)年齢・寸尺・毛色・別徴[中略]・牝牡等を記し七日以内に[中略]所轄警察官署に届出へし」などと、厳密な届出を義務付けています。さらに、その他の条項では疾病の予防対策が目立ちます。
もう一つの例は、県内牧畜家による結社の構想です。
三島市郷土資料館が所蔵する花島家文書に1890(明治23)年9月付「静岡乳牛会社創設主意書」があり、主唱者(カッコ内は当時の年齢)は、川島滝蔵(30歳)・仁田大八郎(小三郎、43歳)・川口秋平(41歳)・花島兵右衛門(44歳)・浜野理平(34歳)・山口活平(43歳)の6名となっています。
この文書はその主意を、ⓐ乳肉牛種の需用が増加する一方で眼前の利に走る乳肉専業家が存在すること、ⓑ我ら同志は不良乳牛など本業を阻害する行為を傍観できないのでそれを防止する会社の設立を発意したこと、ⓒ本社は、乳牛の選抜・疾病の診断・飼料の選別などの適切な管理方法の習得、純良な品質の確保、牛乳効能の啓蒙、などを目的とすること、としています。そして、県内牧畜業の振興を図ろうとする主意に大方の同業者が賛同してこの会社に加盟してほしいと呼びかけています。また、会社の資本金は1万円(100円株を100株、その半分を主唱者6名が負担)、開業は翌年1月と定めています。
この主意書から推測すれば、創設する会社は営利を目的としていないようであり、業界団体、例えば「○〇協会」といった組織ではないかと思われます。しかし、残念ながらこの結社構想の行方に関する情報には接しておりません。それはさておき、本編の随所に登場する県内有力者がこぞって業界の健全な発達をめざして申し合わせをしていることは注目に値します。
 【参考文献】
 静岡県産牛馬組合連合会『嶽陽之畜産』1914年
 土屋準次『南豆畜牛史』1916年
 静岡県駿東郡役所『静岡県駿東郡誌』1917年
 酪農事情社『酪農事情』11(6)、1951年
 静岡商工会議所『静岡市産業百年物語』1968年
 静岡市『静岡市史』近代通史編、1969年
 金原治山治水財団『金原明善資料』上・下、1968年
 周智郡教育会『静岡県周智郡誌』1980年
 太田八郎「西遠せいえん乳業雑史」(浜松牛乳株式会社他『40年の歩み 1942-1982』1982年)
 函南町『函南町誌』中巻、1984年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:佐藤敏彦
北海道十勝北部の鹿追町出身、千葉市在住。乳業会社に就職して6都道府県にて勤務。定年退職を契機に歴史研究を発起して十数年、大学・大学院にて史学を専攻。研究領域は酪農乳業を中心とする食品産業史。
関連論文 「史料『北海道ニ於ケル畜産〈殊ニ酪農〉奨励ニ関スル件』の考察」(『法政史学』第93号、法政大学史学会、2020年)、「北海道における国有未開地処分と大農場による開墾事業」(長井純市編『近代日本の歴史と史料』花伝社、2022年)、「農業経営の改革を担った金原農場蔬菜部」(伴野文亮・渡辺尚志編『金原明善』文学通信、2023年)
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]