【静岡編】
第4回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期) ~その1 畜牛の改良と増殖

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第4回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期)
~その1 畜牛の改良と増殖

前回までは、「酪農の芽生え」、それに続いて「酪農導入の前期」として1897(明治30)年頃までの歴史を探ってきました。ここからは、大正15(1926)年頃まで30年ほどの歴史を「酪農導入の後期」としてたどってみます。

統計に見る酪農導入期の概況

最初に、酪農の導入についてその前期と後期を通した概況を牛の飼養頭数などによって確認しておきましょう。
次の表は、静岡県の統計書から作成した牛飼養頭数と搾乳量の推移であり、1885(明治18)年から10年単位でデータを掲載しています。
1885(明治18)年から1895(明治28)年の10年間は総牛数が著しく増加していることが分かります。しかし、その中に含まれる乳牛は1%程度と僅かであり、乳牛の急速な増加が見られるのは1895(明治28)年以降になります。それは牛乳飲用の普及と乳製品製造の伸長によるものであり、搾乳量の増加がそれを物語っています。ただし、この増加は一直線ではなく蛇行や停滞を伴うものであり、地域別にみると、大正期における伊豆の増加が顕著です。

ところで、現在、「酪農」は一般的に「乳牛を飼育する農業経営のことで、牛乳や乳製品の生産・加工・販売業までも含める」と定義されています。しかし、この表にある1885(明治18)年から1925(大正14)年の時期に「酪農」という用語はほとんど使われておりません。酪農の基礎となる乳牛の数は、総牛数に対して1925年の時点でも県全体では4分の1程度にとどまっています。ちなみに、当時、乳牛を飼養する事業は牧牛・畜牛・搾乳業などと称される事業に包含されていたようです。このような時代背景はありますが、酪農の歴史を段階的に整理する観点から、この時期を「酪農導入期」としていることを付言しておきます。

それではここからは、静岡県における導入期の酪農が徐々にステップアップし、搾乳量が1925(大正14)年に国内の7.3%に達するまでの足どりを、畜牛の改良増殖、牛乳営業に係る行政、牛乳飲用の拡がり、煉乳事業の展開、という視点から概観することにします。

外国種との交配による畜牛の改良と乳牛の増殖

この時期の畜牛改良は、乳肉の生産増を目的に英国などで家畜改良が本格化していた外国種を活用するという考えから、内国種(役牛として利用されていた在来種)と外国種を交配して雑種化する方法が一般に普及します。次表はその結果による牛種構成の推移です。
この表には、静岡県全体と県内屈指の和牛(内国種)産地であった賀茂郡における牛種構成の変化が示されています。
静岡県の総牛数を見ると、1885(明治18)年の10,417頭に比して10年後の1895(明治28)年は17,304頭と急増しました。その後、1905(明治38)年の数値は13,714頭に減少していますが、1925(大正14)年には回復して18,298頭と増加しています。なお、1905年の頭数減少について、『静岡県之産業』は日露戦争(1904~5年)による牛肉の需要増に伴う牛の屠殺が要因と説明しています。
また、外国種と雑種(国内種と外国種の交配種)の合計数(カッコ内は総牛数比)は、1885年は769頭(7%)、1895年には6,136頭(35%)、1905年で10,649頭(78%)、1915年では14,929頭(92%)と急増しており、内国種の激減が明白です。中でも、和牛産地として周辺地域の畜牛生産を牽引して賀茂郡は、その後に総牛数が減少し、1915年には内国種(和牛)が皆無となっており、昔日の面影はありません。
なお、1925(大正14)年の県統計には牛種頭数の項目がなく、代わって種牡(雄)牛頭数が新たな項目として記載されており、その数は国有4頭、民有120頭(ホルスタイン種107頭、同雑種4頭、内国種9頭)となっています。「静岡県における牛飼養頭数と搾乳量の推移 1885~1925年」(静岡県統計書)の表でこの時期に乳牛が急増したことを確認しましたが、乳用のホルスタイン種が民有種牡牛の9割を占めていることからも、大正末にホルスタイン種が主流になっていたことが推測できます。

ホルスタイン種の輸入と三島種牛場の開設

花島兵右衛門が開始した煉乳事業では、その原料である生乳を大量に調達して事業を拡張するために、乳牛の多頭飼養とともに、生乳の泌乳量が多い優良牛の導入が必要となりました。
そこで、花島轍吉てつきちは、優良種牛を求めて1898(明治31)年に渡米し、米国ホルスタイン協会の有籍牛20頭を購入して翌年6月に帰国しました。その轍吉は仁田大八郎(常種)の五男にして花島兵右衛門の養嗣子であり、乳牛飼養と煉乳事業に従事していましたが、残念なことに帰国した年の11月に28歳で早世しました。輸入牛は牡2頭と牝(雌)18頭であり、牝牛のうち、北海道の宇都宮仙太郎(後に北海道製酪販売組合〈酪連〉の会長)に1頭、富山に1頭を分譲、3頭は仁田大八郎(甲子郎、常種の孫、小三郎の子)の委託購入でした。
なお、この輸入は国立畜産試験場の設立3年前に当たります。明治政府は、当初、洋牛としてショートホーン種やエアシャー種などの英国原産の乳肉兼用種を多く輸入していましたが、明治中期ごろからは、米国から乳専用種のホルスタイン種の輸入が牛乳搾取業者によって盛んになりました。政府によるホルスタイン種の推奨は明治末になってからですので、日本における乳牛改良は、このように民間主体で進められたともいえます。
1900(明治33)年1月、花島兵右衛門、仁田大八郎(甲子郎)、津田守三(花島兵右衛門の長男、津田家の養嗣子)の3人は三島町才塚(現三島市)に三島種牛場を設立し、轍吉が輸入したホルスタイン種を活用して乳牛の改良・繁殖事業に乗り出しました。
その事業の一端は『牧畜雑誌』に掲載された広告(画像参照)から知ることができます。これは1901(明治34)年3月付の「種牛売譲及交尾広告」であり、広告主は「三島種牛場主津田守三」です。文面には、輸入牛の由来、種牡牛2頭の履歴などを記して「交尾料金弐壱五円」「交尾の需に応ず」とし、「純粋ホルスタイン種牝牡犢余頭」を「望みにより売譲」としています。この三島種牛場は後世に、「その子孫は漸次に改良繁殖されて田方郡の名声を高めたホルスタイン種の基礎になった」などと評価されることになります。
  • 三島種牛場の広告(『牧畜雑誌』第189号より転載)

牛馬の改良と増殖を誘導した行政施策

牛の飼育に関連する行政政策を眺めると、牛単独の施策ばかりではなく、牛馬の並行施策や家畜(牛馬羊豚)の共通施策など様々です。
例えば、1900(明治33)年7月に産牛馬組合法が制定されました。同法は農商務省の所管であり、「牛又は馬生産に従事する者は本法に依り組合を設立することを得」、「組合は牛馬の改良及組合員の共同の利益を図るを以て目的とす」と定めています。
この法制によって各地に産牛馬の組合が誕生しますが、同法は1915(大正4)年1月に改正(同年8月施行)されます。法律名を畜産組合と改め、主な改正点は、牛馬に羊豚を追加したこと、法人化を義務付けたこと、営利事業を禁止したこと、名称を畜産組合に統一したこと、連合会設置を明文化したことなどです。
畜産組合の実態は1921(大正10)年版『静岡県勢要覧』に記されています。それによれば、畜産組合は榛原郡を除く12郡に組織されており、畜産組合連合会(1911年設立の静岡県産牛馬組合連合会から改組、所在地は県庁)が置かれています。そして、畜産組合は合同で畜産業の発達を図っているとし、主な事業は「種畜の供給種付、家畜市場の開催、系統能力の登録、物品の購買配付、衛生の改善、品評会、共進会、講習講話会の開設、乙種搾乳所、屠場・化成場の開設、競馬会の開催、牧場の経営」と紹介しています。
ここで県内の施策に目を向けますと、静岡県は1903(明治36)年3月に種牡牛貸与規則を制定、種牡牛12頭(エーアシャー種6頭、ホルスタイン種4頭、ブラウンスイス種2頭)を購入して県有とし、産牛組合などに貸下げを開始しました。続いて、1905(明治38)年7月に畜産奨励金下付規程を制定し、産牛組合などの種牛購入に価格の半額以内を補助することとしました。一方、農商務省は1908(明治41)年7月に牛羊豚を対象とする道府県連合共進会褒賞授与規程を定めました。
こうした中、1909(明治42)年9月、第1回静岡県産牛共進会が田方郡の三島大社境内にて開催されました。会期は同月24日から3日間、出品頭数は133頭、審査長は叙任辞令を受けた農商務省技師石崎芳吉であり、受賞牛は1等賞2頭、2等賞3頭、3等賞6頭、4等賞44頭となりました。ちなみに、その1等賞(金牌、賞金100円)は「エーアシャー種牡ナイト二世号(田方郡函南村川口秋助)」と「ホルスタイン種牡第一金鵄号(賀茂郡産牛組合長渡辺要)」でした。
なお、この共進会は途中で畜産共進会と名称を変更して戦前はほぼ隔年に開催(戦後1948年の第22回からは毎年開催)され、継続的に畜種改良を牽引することになります。
  • 第1回静岡県産牛共進会1等賞:エーアシャー種牡ナイト二世号
    (『日本の乳牛:ホルスタイン史』より転載)
  • 第1回静岡県産牛共進会1等賞:ホルスタイン種牡第一金鵄号
    (『日本の乳牛:ホルスタイン史』より転載)

農業者教育を担った実業学校 ~牛の郷に田方農林学校

田方農林学校(現県立田方農業高校)は1902(明治35)年4月、農業者教育を目的として函南村塚本の地に創立され、開校しました。田方郡立の実業学校であり、1922(大正11)年に静岡県立となります。創立に際して、仁田大八郎(甲子郎)は設備費2千円の半額を寄付し、東京帝国大学農学科卒業の経歴を持つ30歳の甲子郎は自ら初代校長(1919年3月まで)となりました。
1918(大正7)年発行の『静岡県田方郡誌』には同校の大まかな配置図が掲載されており、そこには、「生徒数本科三学級百五十四名」「職員数校長外八名」「事務室・教室・生徒控所・寄宿舎・教員住宅・作業場・農具室・肥料舎・畜舎・養蚕室等四百十四坪、外校地千六百坪、実習地二町一反五畝歩、演習林三町四畝八歩」などとあります。これに続いて、同校は「乙種程度の農学校として成績の佳良なる県下は勿論我国中にても模範とせらるゝものなり」と評しています。事実、1916(大正5)年に岡山県の実業調査視察員が同校を訪問し、報告書に「実地の技能を錬磨し自ら進んで労役に服するを欣ぶの風を涵養」「開校以来の卒業生五百四十二名にして内農業に従事せるもの四百五十八名」などと地域農業に貢献している旨を記しています。
  • 田方農林学校の校舎(『耕友讃歌~田方農高の百年』より転載)
なお、明治末期の静岡県内には農業教育を目的とする実業学校が10校ほど存在します。例えば、磐田郡見付町(現磐田市)の県立農学校(現県立磐田農業高校)、富士郡大宮町(現富士宮市)の郡立農林学校(現県立富岳館高校)、志太郡西益津村(現藤枝市)の郡立農学校(現県立藤枝北高校)ですが、牛飼育を想定した畜産の教育課程は設定されていなかったようです。

乳牛飼養の多様な形態 ~預託・小作・所有

旧来からわが国には小作制が存在しており、それは農民が地主から土地の使用権を得て農作物を生産して対価を払う仕組みでした。明治期に入って家畜飼養が推奨されるとその土地小作に準じた家畜小作の慣行が生まれることになります。とはいえ、対象となる牛馬は土地とは違う動産なので、農地の貸し借りとは異なり、特に乳牛飼養の場合は様々な形態があったようです。
そこで、ここからは典型的な酪農(乳牛を飼育する農業経営)という観点から乳牛飼養に絞ってその実態を探ってみます。
牛小作に諸説がある中で、栗原藤七郎は乳牛飼養の形態を「酪農の形成過程における乳牛貸借制」と題して論じています。栗原は、明治期から昭和初期の事例を分析した結果、所有と搾乳を要素として農家の側から見れば、次の4形態に分類できると述べています。
 ⓐ 乳牛を借受して搾乳するのは「乳代小作(狭義の乳牛小作)」
 ⓑ 乳牛を借受して搾乳しないのは「預託」
 ⓒ 乳牛を所有して搾乳しないのは「貸牛」または「育成販売」
 ⓓ 乳牛を所有して搾乳するのは「狭義の酪農」
農家が乳牛を借受するのが乳牛小作の基本なので、搾乳する「乳代小作」が乳牛小作の典型であり、小作の対価は牛乳代金や産犢(子牛)などを分配して決済する慣行があり、乳代小作ともいわれるとしています。搾乳しない「預託」の場合は、子牛の生育後または乳牛の分娩後・泌乳期に借受した乳牛を返還する条件とし、預託料、厩肥・使役などの便益を受ける形態であり、概念としては「預託」というべきであるが、広義には乳牛小作に含まれるとしています。
農家が乳牛を所有するのは当然、乳牛小作ではありませんが、搾乳しない「貸牛」は「乳代小作」と「預託」に対して逆の貸借関係であり、搾乳業者が農家の所有する泌乳期の乳牛を借受して搾乳する場合は、搾乳業者の側が「乳代小作」に類似した形態となります。
栗原は、乳牛を所有して搾乳する「狭義の酪農」こそが酪農の基本形態であり、功罪を伴うが広義の酪農には「乳代小作」、「預託」、「貸牛」を含むとし、その上で、「狭義の酪農」の形態が定着するには長い期間を要することとなり、実際には第二次世界大戦後を待つことになると述べています。
何れにしても、牛小作や乳牛小作が酪農の導入期においてその推進力を担っていたのは明らかですから、牛飼養の場面を考察するときにはこの点に留意が必要なのでしょう。
 【参考文献】
 静岡県内務部『共進会品評会状況報告 明治42年度』1910年
 静岡県内務部『静岡県之産業』1913年
 高橋不二夫『畜産組合法要論』高島幸三郎、1915年
 岡山県内務部『実業視察報告書』1916年
 静岡県田方郡役所『静岡県田方郡誌』1918年
 静岡県『静岡県勢要覧』1921年
 三島市『三島市誌』中巻、1959年
 栗原藤七郎「酪農の形成過程における乳牛貸借制」
 (東京農業大学農業経済学会『農村研究』17号、1962年)
 静岡県農業協同組合中央会『農業技術研究』9月号、1964年
 農林省畜産局『畜産発達史』本篇、中央公論事業出版、1966年
 日本ホルスタイン登録協会『日本の乳牛:ホルスタイン史』1967年
 静岡新聞社『耕友讃歌~田方農高の百年』静岡県立田方農業高校同窓会、2001年
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執筆者:佐藤敏彦
北海道十勝北部の鹿追町出身、千葉市在住。乳業会社に就職して6都道府県にて勤務。定年退職を契機に歴史研究を発起して十数年、大学・大学院にて史学を専攻。研究領域は酪農乳業を中心とする食品産業史。
関連論文 「史料『北海道ニ於ケル畜産〈殊ニ酪農〉奨励ニ関スル件』の考察」(『法政史学』第93号、法政大学史学会、2020年)、「北海道における国有未開地処分と大農場による開墾事業」(長井純市編『近代日本の歴史と史料』花伝社、2022年)、「農業経営の改革を担った金原農場蔬菜部」(伴野文亮・渡辺尚志編『金原明善』文学通信、2023年)
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]