【静岡編】
第5回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期)
~その2 牛乳営業の行政と牛乳飲用の広がり

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

第5回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期)
~その2 牛乳営業の行政と牛乳飲用の広がり

牛乳営業の取締りと牛乳搾取場の存在

明治政府(内務省)は1900(明治33)年の4月に牛乳営業取締規則を制定し、静岡県は同年9月に県の細則を付して施行します。牛乳は全乳・脱脂乳、乳製品は煉乳・脱脂煉乳・粉乳、牛乳営業者は牛乳・乳製品の搾取・製造・販売又は請売を営業とする者と定義されました。また、牛乳営業者を認可制とし、営業(牛乳搾取・製造・販売)の基準(設備・品質など)を設定して取締りの対象としました。
次の表は牛乳営業の拠点となった牛乳搾取場(搾乳場)の実績推移です。
この表は牛乳営業取締規則施行の15年前からの実績推移ですが、県統計書では初年度から搾乳場所を特定して数値を示しています。このことから、静岡編の第2回で紹介した事例(豊牧舎の鑑札書換)のように、静岡県が同規則の施行前から搾乳場を管理下に置いていたことが分かります。
実績推移の傾向を見ると、県全体の場数と搾乳量は、1搾乳場あたり搾乳量の「場平均」が増加したことに伴って順調に伸長しているといえましょう。また、地域別には、駿河は搾乳量と場平均が常時最大であること、遠江は1905(明治38)年以降の場数が最多であること、牛の改良増殖が隆盛した伊豆は3項目総てが低調であることが目を引きます。

農家が搾乳した牛乳を煉乳原料として販売 ~ 牛乳裁判

「静岡県における搾乳場の実績推移 1885~1925年」の数値は、牛乳営業者による搾乳場の実績をもとにした県の公式な統計ですが、この数値の解釈には注意が必要です。それは、牛乳営業には飲用牛乳と乳製品(煉乳など)の営業が混在すること、搾乳には第4回で記述した「乳牛小作」の形態が含まれることなどの要因があるからです。特に、煉乳の事業者は1896(明治29)年に花島煉乳場が本格的に参入後、明治末に2社が参入し、1925(大正14)年の煉乳事業者数は5社となっています。しかし、事業者は少数ながらいずれも経営規模が大きく、大量の原料乳(煉乳原料用生乳)を必要とし、さらに、煉乳事業は国産品・輸入品との市場競争を伴うため、その原料乳を供給する乳牛飼養農家に多大な影響を及ぼすことになるのです。
なお、煉乳事業者が煉乳原料用とする生乳は、牛乳搾取業者が都市部で自ら乳牛を飼養・搾乳して飲用牛乳を処理販売するのとは異なり、農村部で農家が乳牛を飼養して搾乳(生産)するものでした。ここでは、こうした煉乳原料用の生乳生産に係る事例を紹介します。
その一つは、田方郡函南村(現函南町)における牛乳取引であり、『丹那地域風土記』はその様子を記しています。それによると、1902(明治35)年に下丹那の加藤浅右衛門、畑の大塚重蔵、新山の石川徳蔵・石川清作が、1905(明治38)年に軽井沢の渡辺善四郎が、それぞれ三島の花島煉乳場に原料乳の輸送をはじめたというものです。そこには、荷車で1日3~4斗の牛乳を三島まで運搬したとも付記されています。
もう一つは、農家の牛乳販売をめぐる裁判であり、1964(昭和39)年発行の『農業技術研究』は次のように記しています。

 明治33年内務省令牛乳取締規則が公布され、農家で搾乳された牛乳の煉乳業者への販売を禁止するに至ったので、
 折角進展しかけた酪農業も前途不安の状態となった。かかる折から北狩野村中之郷の熱心家、鈴木百太郎、山下米作、
 土屋宇十の3氏は、酪農の前途を憂え、官憲の圧迫に抗して送乳(1升15銭)を続行したので、明治39年10月15日、
 沼津区裁判所において、刑事被告人として公判に付され、全国の酪農家から義民として声援を受け、幸いにして1審にて
 無罪の判決を受けたが検事控訴され、さらに静岡地方裁判所の第2審判決にても無罪となることができた[以下略]

この裁判は、被告人が子牛育成後の余乳を販売したのは牛乳営業取締規則の違反とし、沼津区裁判所の竹田重吉検事が旧々刑事訴訟法の検事強制処分権に基づいて告発した事案です。これを控訴審は無罪と判決したのですが、その理由は、牛乳搾取営業の免許を受けずに余乳を田方郡修善寺村の煉乳製造業を営む山口活平に売却したのは事実だが、営業の意思を以て牛乳搾取販売をしたとは認められないというものです。
被告人とされた農家は牛乳取締規則が施行される1900(明治33)年以前から自ら搾った牛乳を煉乳業者に販売していたが、同法の施行後に営業免許を受けずにそれを続けたため、規則違反として告訴されたわけです。前段に紹介した函南村の事例は規則施行後の類似取引ですから、同様に告訴される可能性があったと思われます。また、紹介した事例の文中には「全国の酪農家から・・声援を受け」と記されています。これは裁判から数十年後の記述であり、裁判時に酪農の用語は一般化していないのですが、牛乳の販売を副業とする農家が県内外に相当数存在していたことは確かなのでしょう。
とはいえ、この牛乳裁判の判決は、農家が搾乳した牛乳を煉乳原料として販売することを許容しただけであり、その牛乳を飲用に供することを容認したわけではなかったようです。

農家の搾乳に道を開いた乙種搾取所の制度 ~いわゆる農乳の条件付容認

静岡県は、前述の牛乳裁判から12年後の1918(大正7)年12月、牛乳営業取締規則施行細則を改正し、従来の牛乳搾取所は甲種搾取所とし、乙種搾取所を新設しまた。
改正細則は条文に「搾取所を分ちて甲乙の二種とす。甲種搾取所とは牛舎を設け所内に飼養する牛より搾乳する場所を云ひ、乙種搾取所とは産業組合の経営に係り其の組合員の飼養する牛より搾乳する場所を云ふ」と規定しました。産業組合が設置できる乙種搾取所は「十五町」(約1,637m)以内で組合員が飼養する乳牛を引き入れて搾乳する施設とし、設備には「乳牛繋留所を設置」、管理には「日誌を備へ搾乳の都度其の牛種、頭数、搾乳量を記載」「獣医を指定」、といった諸要件を付して営業許可の取得を求めたのです。
この細則改正によって、産業組合が乙種搾取所を設置して免許を得れば牛乳営業者となり、その搾乳施設を使用する組合員(農家)が搾乳業者として生乳販売からの収入を得られる道が開かれたわけです。しかし、この措置の基本的な想定は乳製品の製造用とする原料乳だったようであり、農家飼養の乳牛から搾乳した牛乳は「いわゆる農乳」と称されることになります。静岡県はこの農乳を飲用牛乳用とすることに寛容だったようですが、既存搾乳業者の反発や食品衛生面での慎重論などにより、国内ではその是非が昭和期に入っても問われ続けます。
それでは、前述の牛乳裁判や乙種搾取所の新設を経て搾乳実態、特に搾乳量はどのように変化したのでしょうか。
前掲表「静岡県における搾乳場の実績推移 1885~1925年」から1905~1925年の搾乳場数と搾乳量を見ると、数値の伸長は明らかなのですが、特段の変化はなさそうです。ところが、静岡県統計書は1922(大正11)年度から従来「牛乳搾取業(搾乳場)」に限られていたデータに、乳牛を飼養・搾乳して生乳を販売する農家の数が追加されて「搾乳業者」と「農家其他」に区分され、農村での搾乳が統計に反映されるようになりました。
次の表「静岡県の統計基準変更に伴う搾乳者別の搾乳実績 1921~1925年」はその搾乳基準の変更に伴う搾乳単位(搾乳者)別の搾乳実績です。変更の前後を比較するため変更前1921(大正10)年を挿入してあり、1925(大正14)年における搾乳業者の数値は前掲表の同年搾乳場と同一です。
この表からは次の諸点を読み取ることができます。第1に、1921(大正10)年の搾乳場は1922(大正11)年に搾乳業者に移行し、1925(大正14)年までの戸数と搾乳量は県、三地域ともに緩やかな変化で推移しています。第2に、1922年に追加された農家其他の戸数は、1925年には搾乳業者に対して県全体では12倍となり、地域別では伊豆38倍、駿河13倍、遠江0.4倍と顕著な差が生じています。第3に、1925年の農家其他1戸当り搾乳量は、搾乳業者に対して県全体では3割と少なく、地域別では2~4割とバラツキがあります。これらのことから、第4に、1925年の搾乳量に占める農家其他の割合は、県全体では77%と圧倒的な地位を占め、地域別では伊豆94%、駿河75%、遠江7%と特異性が目立ちます。
単純な推測は避けるべきでしょうが、統計が変更される以前から相当数の農家による搾乳が行なわれていたこと、県内における煉乳事業の急速な発展に伴って農家飼養の乳牛からの搾乳が急増したことは確かでしょう。なお、前掲表「静岡県における搾乳場の実績推移 1885~1925年」における搾乳場の統計値(特に1905・1915年)には、「農家其他」による搾乳実績の多くが反映されていないと思われるので、「農家其他」の数値を加味すれば、伊豆の酪農は「低調ではなく」依然として県の中心地域だったことが明らかです。

都市化の進む駿河に広がる飲用牛乳

静岡市は1889(明治22)年に誕生しますが、同市と周辺の市街地には飲用牛乳を製造販売する搾乳場が次々に開設されます。搾乳場の搾乳量は前掲表「静岡県における搾乳場の実績推移 1885~1925年」にあるように継続して伊豆・遠江を圧倒しており、飲用牛乳の広がりを推測できますが、残念ながらその全体像は不明です。そこで、『静岡市産業百年物語』の記述を中心に断片的な情報を拾い上げて整理してみたいと思います。

 ①1898(明治31)年頃、旧城深草門内の浜村育牛所には飼畜と育牛の2部門を営んでいた。事業主は浜村理平であり、
  飼畜部の広告文に「乳汁並コンデンスミルク、バタ、クリーム等を製造販売」と記している。
 ②明治30年代半ば(1902年前後)、福地賢吉は長田村下川原(現静岡市葵区)に福地牧場を開設した。乳牛を飼育して
  搾乳販売の事業を営み、その運営は斉藤宇吉が担当した。
 ③寺尾延太郎は安倍郡豊田村池田(現静岡市駿河区池田)に寺尾牧場を開設し、八木唯一郎と共同で経営した。八木は
  1902(明治35)年、この牧場を離れ、同村八幡(現駿河区八幡)に八木牧場を開設し、牛乳処理場を設置した。
 ④1902(明治35)年前後、伊藤金太は安倍郡安東村柳新田(現葵区北安東)に伊藤牧場を開設し、10年程で廃牧した。
  その後、大正末の1925(大正14)年頃に長男の伊藤鉱平が同郡豊田村石田(現駿河区石田)に静岡イトー牛乳を設立した。
 ⑤山内久作は安倍郡服織はとり村新間(現葵区羽鳥)の戸井牧場を譲り受けて山内牧場とし、1907(明治40)年、
  静岡市安西外新田(現葵区柳町)に進出して規模を拡大した。
 ⑥1907(明治40)年、山梨長蔵は福地賢吉から乳牛を譲り受けて安倍郡大里村川辺(現葵区川辺町)に山梨牧場を開設した。
 ⑦1907(明治40)年頃、洞口は安倍郡南賤機みなみしずはた村籠上(現葵区籠上)に洞口牧場を開設した。同牧場は
  2年程後に石射常次郎が譲り受け、さらに、1914(大正3)年に菅谷久蔵が譲り受けて菅谷牧場となった。
 ⑧庵原郡由比出身の深沢利三郎は服織村(現葵区)に深沢牧場を開設し、後に、静岡市井宮町(現葵区)の酒井牛乳(大正
  初年から大正12年頃まで経営)を家畜商の鈴木を経て継承した。
 ⑨1907(明治40)年頃、望月千代蔵は南賤機村安西外新田(現葵区田町)に望月牧場を開設し、1916(大正5)年頃まで経営
  した。同時期、静岡市四番町には白鳥竹次郎が白鳥牧場を開設し、静岡市八番町では石川源平が石川牛乳を経営していた。
 ⑩横浜出身の谷川森蔵は③の八木牧場で牧童頭を務めた後、1914(大正3)年に独立して同牧場の近隣地(現葵区柚木)で牛乳の
  処理・販売を開始した。その原料牛乳は⑦の菅谷牧場(数年後には菅谷久蔵が参加した後述の静岡煉乳会社)から取り寄せた。

これらの事例は、人口密集地の周辺に相次いで牧場が誕生し、飲用牛乳の販売が広がっていく様子を物語っています。 
とはいえ、牛乳の飲用は普及の途上なので需要は未だ多くはなく、事業者の増加によって過当競争が生じ、ついに共倒れが起きたといわれています。そのような状況下、牧場や牛乳処理を営む牛乳販売の事業者が共同して事業を進める実例があります。
第1は、1905(明治38)年12月に設立された静岡牛乳合資会社です。会社は静岡市両替町にあり、目的は牛乳売買、資本金は6,625円、無限責任社員は浜村理平、有限責任社員は寺尾延太郎、八木唯一郎、福地賢吉となっています。この会社は1909(明治42)年3月に解散、同年4月に同名称の会社を設立します。無限責任社員は浜村(同年7月に有限責任社員)、有限責任社員は寺尾良一(延太郎の相続人、同年7月に無限責任社員)、佐野吉兵衛、八木、平野よし、福地、望月千代蔵、大村吉平、山内久作、後藤常吉、白鳥竹次郎、佐山儀一の構成となりますが、1911(明治44)年9月に解散しています。
会社事業の内容は不明ですが、前述の事例で列挙した事業者の半数が参加しており、目的を牛乳売買としていることから、何らかの事業協同をしていたと考えられます。
第2は、1919(大正8)年12月に設立された静岡煉乳株式会社です。
会社の場所は静岡市五番町、目的は牛乳請負販売となっています。小笠郡掛川町(現掛川市)で弁護士の栗田小文治、菅谷牧場の菅谷久蔵らが発起人となり、社長には栗田、重役には深沢牧場の深沢利三郎らが就任しています。
会社事業の詳細は不明ですが、牛乳営業の事業者数名が合同して会社を設立し、会社の名は煉乳であったが、煉乳は製造せずに、牛乳のビン装処理と販売をしていたとされています。
  • 明治末期頃の静岡市周辺地図(『静岡県安倍郡誌』復刻版より転載)

幼少の光宮殿下が沼津の鈴木豊牧舎に遊ぶ子牛をご覧に

1908(明治41)年12月26日付の『東京朝日新聞』に次のような記事が掲載されました。

 「皇孫殿下御近状 御避寒地の楽き朝夕 過般沼津桃郷なる御用邸へ御避寒相成りたる三皇孫殿下には極めて御機嫌よく過させ
 給ふ趣[中略]三殿下が山に浦に馳せ回り[中略]最御幼少の光宮殿下は嘗て御運動の御途次揚原村なる鈴木豊牧舎にて
 柵内に可愛らしき犢の遊び居たるを御覧あり痛く打興ぜさせ給ひし由なるが今尚屡同牧場へ成らせられ犢御覧の事
 ありとたまはる。」

避寒のため沼津御用邸に滞在している皇孫殿下の近況であり、光宮てるのみや殿下は揚原やなぎはら村の鈴木豊牧舎に遊ぶ可愛いこうし(子牛)がお気に入りでしばしばこの牧場に立ち寄っているというのです。皇孫殿下は後の大正天皇の三皇子であり、第一皇子は後の昭和天皇、第二皇子は後の秩父宮雍仁やすひと親王、光宮(当時3歳11ヵ月)は第三皇子で後の高松宮宣仁のぶひと親王です。子牛が遊んでいるのは駿東郡楊原村下香貫(現沼津市)において牛乳搾取業を営む鈴木豊牧舎の牧場です。 鈴木豊牧舎の経営者は鈴木菊蔵・作太郎父子であり、鈴木家は賀茂郡仁科村(現西伊豆町)で牛を飼養する兼業農家でしたが、1902(明治35)年頃に移住して牛乳搾取販売を専業にしたと伝えられています。ただし、三島で豊牧舎を経営する鎮目正美は駿東郡楊原村に支店を開設したとされており、鈴木豊牧舎がその支店なのかそれを譲り受けたのかは不明です。

遠江興農社の解散と浜松近郊の牛乳販売

前掲の「静岡県における搾乳場の実績推移 1885~1925年」にあるように、遠江の搾乳場は、1895(明治28)年は17か所でしたが、1905(明治38)年に62か所、1915(大正4)年に104か所、1925(大正14)年には114か所と増加し、継続して駿河を超えるほどになりました。牛乳搾取業者が浜松市街だけではなくその近郊各地に誕生したのです。その結果、搾乳牛は不足、販売競争は激化し、乳牛が高価なこともあり、泌乳期の牛を農家から借りる乳牛小作(農家側では貸牛)が発生したとされています。
時期は不明ですが、獣医川瀬春次郎と天野甚蔵・佐藤弥七は共同出資で板屋町(現浜松市中央区)に牧場を設置し、牛乳販売業を開始しました。上村八十八はこれを1898(明治31)4月に譲り受けて養牛舎牧場とし、牛乳販売では同地最大の事業者となりました。
一方、牛飼養と牛乳販売の先駆者的な存在であった遠江興農社は経営が悪化して1899(明治32)年末に解散するに至り、18年の歴史に幕を閉じることとなりました。しかし、同社の主要な牛乳販売所は株主や社員に譲渡されてその営業は継続します。
浜松の元城販売所は使用人の菅野善次郎が譲り受けて興農社牧場・興農舎としました。同じく浜松の栄町販売所は斉藤徳治が搾乳場(土地建物と乳牛48頭)を譲り受けて白山舎牧場とし、後に近くの三組町に移転しました。さらに、掛川販売所は片岡悦次郎が譲り受け、やがて石田浅吉に譲り渡し、(現磐田市の)中泉販売所は佐藤英太郎が譲り受け、大正期に廃業したとされています。
ところで、「西遠乳業雑史」は、1900(明治33)年に牛乳営業取締規則が施行された後、1918(大正7)年の同規則施行細則改正を挟み、同地の牛乳販売業が如何に変転したかを記しています。次にその一端を紹介します。

 ①1902(明治35)年5月、牛乳販売業者が増加して競争が激化する中で、菅野善次郎(興農舎)・斉藤徳治(白山舎)・上村八十八
  (養牛舎)は共同販売所を作り、1909(明治42)年6月まで共同して処理と販売を継続した。この間に共同販売所は平尾よし子ら
  新規開業の5販売所を加えて、小売配達区域の割当や残乳の処理など競争緩和を目的に同盟契約を結んだが、その際には所轄
  警察署の係官が立ち会った。この同盟による共同販売で維持を図った小売価格は1本(1合=180ml)3銭5厘であった。
 ②牛乳販売は牛乳営業取締規則によって取り締られたが、その重点は原料乳の生産にあり、乳牛の飼養設備や健康管理は特に厳し
  かった。さらに、牛乳の衛生管理(設備・殺菌・瓶詰・貯蔵など)も基準が厳しく、広域販売や規模拡大は困難であった。
 ③そうした状況にあった1918(大正7)年に規則が改正され、乙種搾取所の制度が導入された。この制度によって農家は産業組合が
  設置した搾取所を利用して飼養乳牛からの搾乳が可能となり、同時に牛乳販売業者は乳牛を飼養せずに乙種搾取所から原料乳の
  供給を受けて処理・販売所を開設することが可能となった。また、組合員である農家は原料乳を牛乳販売業者に供給するだけで
  はなく、中には直営の処理所を設けて牛乳販売に進出する者も出現した。
 ④浜名郡畜産組合では1920(大正9)年に乙種搾取所を設置し、それを利用して浜名郡(現浜松市浜名区)の竜池りゅうち村伊藤八十吉・
  北浜村河合末吉・河輪村安間千量は牛乳の処理・販売所を開業した。同様に、磐田郡長野村(現磐田市)の山内長八は自村に設置
  された磐田郡畜産組合の乙種搾乳所を利用し、1921年に浜松市馬込町で牛乳の処理・販売所を開業した。
 ⑤そうした中で、牛乳販売業者は同盟による共同販売で小売価格の維持を図った後に、組合を結成して集団で事業改善などを図ろう
  とした。事例を挙げると、1915(大正4)年には、遠州全域から約40名が集まって遠州牛乳組合を結成したが、これは3年程で解散
  した。また、1919(大正8)年7月には、上村・斉藤と菅野元吉・伊藤照吉ら14名が申合せ組合を作って1合7銭の価格協定を実行し
  た。さらに、1926(大正15)年3月には、浜松市と浜名郡の全域から50名が集まって浜松牛乳商組合を結成して共同事業(乳質改
  善・牛乳瓶統一・資材共同購入など)や販売統制などを実施した。

浜松とその周辺は搾乳場が県内で最も多い地域ですが、飲用牛乳の処理販売業者は激しい競争を続けながら、時には共倒れを避けるために共同して商売していた様子がうかがわれます。
 【参考文献】
 山口井太郎『静岡誌』1899年
 法政協会出版部『静岡県衛生法規類纂』1925年
 静岡県農業協同組合中央会『農業技術研究』213号、1964年
 窪田喜照『日本酪農史』中央公論事業出版、1965年
 静岡商工会議所『静岡市産業百年物語』1968年
 丹那地域風土記編集委員会『丹那地域風土記』1970年
 安倍郡役所『静岡県安倍郡誌』復刻版、文献社、1979年
 太田八郎「西遠乳業雑史」(浜松牛乳株式会社他『40年の歩み 1942-1982』1982年)
 下川原歴史研究会『下川原の歴史』2002年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:佐藤敏彦
北海道十勝北部の鹿追町出身、千葉市在住。乳業会社に就職して6都道府県にて勤務。定年退職を契機に歴史研究を発起して十数年、大学・大学院にて史学を専攻。研究領域は酪農乳業を中心とする食品産業史。
関連論文 「史料『北海道ニ於ケル畜産〈殊ニ酪農〉奨励ニ関スル件』の考察」(『法政史学』第93号、法政大学史学会、2020年)、「北海道における国有未開地処分と大農場による開墾事業」(長井純市編『近代日本の歴史と史料』花伝社、2022年)、「農業経営の改革を担った金原農場蔬菜部」(伴野文亮・渡辺尚志編『金原明善』文学通信、2023年)
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]