【静岡編】
第6回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期)
~その3 煉乳事業の展開

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第6回 酪農導入の後期(明治30年頃~大正末期)
~その3 煉乳事業の展開

花島煉乳場は国内屈指の煉乳事業者に

花島兵右衛門は明治中期に煉乳製造を手掛けましたが、その花島煉乳場は躍進して明治後期に国内屈指の煉乳会社となります。花島煉乳場は、1889(明治22)年頃から煉乳の実験・試作と商品化を進め、1896(明治29)年に金鵄きんし印の商標を取得し、新式の真空釜を設備して本格的に煉乳事業を開始しました。その際、花島煉乳場は東京市日本橋区大伝馬町(現東京都中央区)の逸見山陽堂へんみさんようどうと提携し、金鵄きんし煉乳ミルクの一手販売権(独占的に販売する権利)を委ねました。
提携から5年後、1901(明治34)年5月の新聞広告には、金鵄ミルク、世界第二等、製造元・花島煉乳場、発売元・逸見山陽堂、などと明記されています。商品を宣伝する製造元と販売元が、広告文に「世界第貮等」と表現するのは実に奇妙です。しかし、煉乳は未だ舶来品(輸入品)が主流の時代であり、消費者がそれを高級あるいは上等と評価しているため、当社品はそれに次ぐ良品と誇示しているのでしょう。
  • 金鵄ミルクの広告
    (1901年5月21日『東京朝日新聞』朝刊8面)
  • 花島兵右衛門
    (三島郷土資料館所蔵『静岡県済生会協賛録』より転載)
次の表は、明治末期のわが国における煉乳の実績推移であり、国内の供給実態(国産品、輸入品)と花島煉乳場の生産実績を示しています。
国産品(国内生産量)に対する花島煉乳場生産量の割合は、1903(明治36)年が24%、1911(明治44)年が30%であり、この間の最大シェア値は1908(明治41)年の36%です。したがって、花島煉乳場はこの時期、既に国内屈指の煉乳事業者になっていたのです。しかしながら、国内供給量に対する国産品(カッコ内は花島煉乳場生産量)のおよその割合は、1903年が5%(1%)、1911年が12%(3%)、この間も3~7%であり、低水準が継続しています。いわば、煉乳の国内市場では輸入品が圧倒的なシェアを占めていたわけです。1911年3月の『牧畜雑誌』第305号によれば、最近1年間の主要輸入品の割合は、鷲印(イーグル印、米国)5割2分、人形印(ミルクメード印、英国)2割5分、鳥の巣印(ネッスル印、瑞西スイス)1割4分とあり、この時期、欧米品が市場を席巻している様子がうかがわれます。

農家の乳牛飼養を牽引した煉乳事業 ~花島煉乳場、続く新事業者

花島煉乳場の煉乳生産実績では、その数量が増減しながらも拡大傾向を示しており、同社は国内の有力な煉乳メーカーとして、工場のある三島の周辺地域に多大な影響を与えたに違いありません。それは、煉乳生産に使用された原料乳の量が裏付けています。県統計に基づいて推算すると、1903(明治36)年の原料乳108トンは県の搾乳量812トンに対して13%、田方・駿東郡の搾乳量249トンに対して43%を占め、同じく1911(明治44)年の原料乳588トンは県搾乳量の31%、田方・駿東郡搾乳量の67%を占めているからです。
折から1911(明治44)年2月、『牧畜雑誌』第304号では「成功せる煉乳業」と題して花島煉乳場を特集し、同社を経営する花島信一(兵右衛門の次男、当時28歳)から取材した記事を掲載しています。そこには、次のように記されています。


 日に百三十余人の農家は或は個人或は団体を代表して、毎日早朝六時迄に、遠きは五、六里より生乳を花島氏方に配達し来る、
 而して其少なきは三、四升、多きは八、九升内外に達するものなり。然る上は花島方に於ては、悪臭あるもの、酸敗、脂肪量の
 
少なきもの、或は比重の過重なるもの等は一々之を廃棄して買入れず。

花島煉乳場には毎日130人余の農家が生乳(原料乳)を配送して来るというのです。また、「団体を代表して」とありますが、当時、北狩野きたかの村(現伊豆市・伊豆の国市)の北狩野畜牛信用組合(1905年設立)に所属する農家は、隣村の農家と共同して花島煉乳場に生乳を送る団体を作っていたといわれています。
さらに、花島煉乳場では品質基準に合わない生乳は「廃棄して買入れず」とあり、これは経営者の花島が14、5歳の頃から15年間にわたって自得した、技術上の秘訣の一端と紹介されています。この他に、花島煉乳場と農家の取引関係として、ⓐ希望する農家には、所有する種牛(ホルスタイン種3頭、エーアシャ種1頭、ゼルシー[ジャージー]種2頭)による種付、日清製粉との特約による飼料分与の便宜を供与し、その交尾料と飼料代は牛乳代から控除する、ⓑ牛乳代は1升12銭と廉価であるが、乳牛より得られる厩肥と産犢さんとく(生まれた子牛)は農家の所得となる、などが記されています。特にⓑは、作物栽培などを本業とする農家が副業として乳牛を飼育していたこと、その乳牛は「乳牛小作」として花島煉乳場から貸与されていたことを物語っています。なお、花島煉乳場が実施していたこのような原料乳の取引形態を『畜産発達史』は、「花島煉乳場と生産農家との特約取引関係は、おそらく日本においての乳業会社対生産者の従属的特約関係を結んだ最初のものと思われる」と評しています。このように、花島煉乳場が煉乳業界での地歩を固める一方、県内には新たな煉乳事業者が誕生します。

その一つは、仁科煉乳場です。同場は1911(明治44)年9月、仁科広吉が志太郡青島村青木(現藤枝市)に開設しました。牛乳搾取業を営んでいた仁科は、3年前から乳牛約200頭を賀茂郡より移入して付近農家に飼養させたところ、余乳が多かったため、その活用法として煉乳事業を始めたとされています。翌々年には1日1石3~4斗(250kg前後)の原料乳を用いて鷺印煉乳を製造し、同地の小西薬店が特約して専ら長野方面に販売したといわれています。1917(大正6)年に至り、花人形印煉乳の発売元である藤井長次郎がこの設備を賃借し、翌年8月に仁科を代表者として志太煉乳を設立しました。同社は周辺地を集乳区域として、多角的に煉乳(花人形印・桃太郎印・牛首印)などの乳製品事業を進めました。
もう一つは、太田煉乳場です。同場は1912(大正元)年10月、磐田郡於保村浜部(現磐田市)の太田清次郎が開設しました。太田は十数年の乳牛飼育(一時は貸付牛40頭)を通して牛乳利用の必要を感じ、志太郡青島村(現藤枝市)に小規模の煉乳設備を作り、仁科広吉を加えて煉乳の試験製造を実施しました。それに併せて、所有牛は付近の農家に譲渡し、新たに田方・賀茂郡より乳牛を移入して袖浦・長野・天龍・福田ふくでなどの近隣町村(現磐田市)にて増殖を進め、自宅に平鍋式製造設備して事業の開始に至りました。同社は煉乳の商標を山羊印とし、磐田郡見付町(現磐田市)の水野薬店によって主に名古屋方面に売り出したようです。

国産煉乳を支えた税制による保護政策

国内における煉乳の主な市場は、キャラメルなどの原料に用いる菓子産業や、携帯食料などに用いる軍隊でした。その多くは欧州からの輸入煉乳であり、国産煉乳の国内市場シェアは明治末にようやく1割程度に達したところでした。国産増強の機運や製造技術の向上はあったようですが、煉乳業界では試行錯誤が続いていたようです。そうした状況にあって煉乳業の浮沈を左右したのは保護政策であり、その鍵は租税制度でした。そこで、その動向を確かめてみることにしましょう。

第1は煉乳原料の砂糖に対する消費税です。
砂糖消費税は1901(明治34)年10月に新設(施行)されました。続いて1905(明治38)年3月に日露戦争経費の支弁を目的とする非常特別税法が発布され、砂糖消費税は2倍強の増徴となりました。これにより、煉乳事業者の経営は危機に瀕することとなり、業界を挙げて免税運動を繰り広げたとされています。断片情報ではありますが、非常特別税の増徴前、煉乳生産費に占める砂糖の割合は原料乳46%に次ぐ24%(内、砂糖消費税6%)だったそうです。そして、砂糖の税負担はその増徴により、煉乳1箱(48缶、正味約21.8kg)当り43銭8厘から1円35銭に増加したといわれています。また、砂糖の免税を求める運動の一端を『日本乳業史』は、「明治三十八年から三ヶ年に亘り三島の花島、東京の三共商店、永井煉乳場、大阪の麻生、房州の高橋銀太郎、磯貝、大島等の煉乳関係者は、煉乳用原料糖の消費税免税の請願を貴、衆両院に提出してこれが達成の大運動を行った」と記しています。こうした運動が結実して1908(明治41)年3月、煉乳原料砂糖戻税法の制定に至り、同年4月から免税が実現しました。ところが、この免税は1911(明治44)年7月までの期限付であったため、期限の削除に向けて再度の運動を展開した結果、その後も免税が継続となりました。

第2は輸入煉乳に対する関税です。
煉乳の輸入関税は、1899(明治32)年7月施行の関税定率法によって「100斤(60kg)に付4円94銭」と定められ、1911(明治44)年に同単位で「5円55銭」に改正されました。この改正は輸入の防遏(ぼうあつ)(拡大防止)を狙いとしたものであり、大日本畜牛改良同盟会(1904年結成)を中心に、煉乳業の生産・加工・販売の三者が共同で政府と議会に請願運動を続けて実現したとされています。この関税は1923(大正12)年9月の関東大震災に伴って一時免除となり、煉乳業界は苦境に陥りました。その際には、煉乳製造者で組織する大日本製乳協会(1919年結成の大日本煉乳協会から1923年に改編)が主体となり、関税の復活と引上げを政府と議会に働きかけ、1926(大正15)年3月に「容器共100斤に付8円30銭」の改正が実現し、煉乳業の安定が図られたとされています。

第3は新規の煉乳製造者に対する所得税の免税です。
政府は1913(大正2)年5月、煉乳国産化の促進策として新規参入の煉乳製造者に対しる所得税の免除措置を講じました。

このような保護政策の曲折を経て、国産煉乳は輸入煉乳と肩を並べるようになり、程なくしてそれを凌駕することになります。しかし、国産化の推進には国際競争力の獲得が不可欠であり、技術力や販売力の向上とともに、最新鋭の大型機械設備を導入する資本力が求められ、国内煉乳事業の再編成が進展します。

国内煉乳事業の再編成と森永製菓の静岡県参入

1917(大正6)年12月21日に極東煉乳が資本金150万円の株式会社として設立されました。社長には三井物産出身で大日本麦酒社長の馬越恭平が就任し、専務に橋本信次郎、常務に花島信一と左近彦四郎が就任しました。続いて同月26日、花島煉乳場と札幌煉乳場が買収のかたちで同社に吸収されました。札幌煉乳場は1910(明治43)年6月に左近彦四郎が設立した会社です。極東煉乳を設立して花島煉乳場と札幌煉乳場を吸収する事実上の合併は、左近の働きかけに応じた三井物産の後援で実現し、海外進出を視野に入れていたようです。極東煉乳は本社を東京に、工場を三島と札幌に置くこととなり、花島煉乳場から転じた三島工場の陣容は常務・花島信一、技師・吉田吾一、花島周一(兵右衛門の三男)などとなりました。
ところで、期限付煉乳原料砂糖戻税の継続運動の模様が『日本乳業史』に記されています。それは、1911(明治44)年の初頭から、大日本畜牛改良同盟主幹の木村専太郎を先鋒に札幌煉乳場の左近彦四郎と花島煉乳場の花島信一が協力し、政府と議会に対して寝食を忘れて陳情などの運動を続け、免税の継続が実現した、というものです。当時、左近は26歳、信一は28歳の頃ですので、事業主である若い二人が業界のために尽力し、その二人は数年後に合併の主体者となり、極東煉乳のリーダーとなったわけです。
なお、三島工場は1921(大正10)年6月、煉乳に加えてアイスクリームの製造を開始し、同年9月には新築した工場(三島町南才塚=現三島市南二日町にあった旧工場の隣接地と推定)に移設したとされています。同工場の同年10月の製造日報は、「製造日報」と「郵便はかき」は表裏となっており、工場は本社に製造品の情報を日報として郵送で報告していたことが分かります。
  • 極東煉乳三島工場の製造日報:左が日報部分、右が裏面の縮小画像で本社宛郵便様式(三島市郷土資料館所蔵)
ちょうどこの時期に、森永製菓は三島を起点として静岡県東部に参入を図りました。森永製菓は原料乳製品を自給する目的で、1917(大正6)年9月に日本煉乳を設立しました。同社は本社を東京市芝区田町(現港区)に置き、社長に森永製菓専務の松崎半三郎が就任し、煉乳などの乳製品を製造すべく千葉県安房郡に進出を図ります。ところが、同地では明治製糖の傘下にある房総煉乳(1916年8月設立)と東京菓子(1916年10月設立)が連携して基盤を固めつつあり、熾烈な競争になるのは必至でした。そこで平和的な解決をめざすこととなり、翌年5月、日本煉乳の松崎社長と房総煉乳の有島健助専務(明治製糖専務・東京菓子取締役)によるトップ会談が設定され、その場で「明治は安房に、森永は三島を中心とする静岡にその事業の地盤を強固に育てる」という協定が結ばれたのです。なお、東京菓子は1920(大正9)年12月に房総煉乳を併合し、1924(大正13)年9月に改称して明治製菓となっています。日本煉乳は1918(大正7年)年5月、田方郡錦田村(現三島市)に千葉県進出と並行して準備していた錦田工場を開設し、1919(大正8)年4月に富士煉乳(駿東郡沼津町、1917年3月設立、杉山周蔵経営)を買収、合併しました。
さらに、森永製菓は1920(大正9)年7月に日本煉乳を合併して同社畜産部とし、1921年5月には賀茂郡下田町の東洋煉乳(1919年4月設立、土屋梅之助社長)を傍系会社としました。こうした経過をたどる中で錦田工場は、開設時から菓子原料の煉乳・バターなどを製造し、続いて小缶煉乳(390g)を製造(1919年5月発売)、1920(大正9)年11月からは国内最初の機械装置によるドライミルク(粉乳)の製造を開始しました。なお、1922年当時、森永製菓三島第六工場となっていた錦田工場の集乳量は1日30石(5,625kg)ほどだったとの記録があります。
  • 森永製菓錦田工場:1920年秋
    (『森永乳業50年史』より転載)

煉乳の国産化進行と県内煉乳事業の躍進

ここまで静岡県内における煉乳事業の動向や国産化を促進する煉乳の保護政策を見てきましたが、次表は明治末から大正末期にかけての煉乳の国内供給量と静岡県生産量の推移です。
煉乳の国内供給では、微弱であった国産煉乳が輸入煉乳と並んだ後に一挙に引き離し、国内市場の4分の3を占有するに至っています。そして、静岡県の煉乳生産も飛躍的に増加し、1925(大正14)年には国内生産の23%、国内供給の18%を占めています。この年の県内郡別の実績は不明ですが、翌1926年の県内生産は2,378トンであり、郡別に(カッコ内は順に県内比率、煉乳事業者)、賀茂が48トン(2%、東洋煉乳)、田方は2,032トン(85%、極東煉乳・森永製菓)、志太で276トン(12%、志太煉乳)、磐田では22トン(1%、太田煉乳場)となっています。この時点では6事業者による煉乳生産ですが、極東煉乳と森永製菓が圧倒的な事業規模を誇っていたようです。
 【参考文献】
 牧畜雑誌社『牧畜雑誌』第304号・第305号、1911年
 静岡県産牛馬組合連合会『嶽陽之畜産』1914年
 牛乳新聞社『大日本牛乳史』1934年
 太田八郎「磐田酪農の回顧」(酪農事情社『酪農事情』11(6)、1951年)
 日本乳製品協会『日本乳業史』1960年
 逸見山陽堂『八十五年の歩み』1965年
 窪田喜照『日本酪農史』中央公論事業出版、1965年
 農林省畜産局『畜産発達史』本篇、中央公論事業出版、1966年
 森永乳業『森永乳業50年史』1967年
 明治乳業『明治乳業50年史』1969年
 笹山曜子「三島の酪農・乳加工業-花島兵右衛門の事績を中心に-」
 (三島市郷土資料館『研究報告』11号、2018年)
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執筆者:佐藤敏彦
北海道十勝北部の鹿追町出身、千葉市在住。乳業会社に就職して6都道府県にて勤務。定年退職を契機に歴史研究を発起して十数年、大学・大学院にて史学を専攻。研究領域は酪農乳業を中心とする食品産業史。
関連論文 「史料『北海道ニ於ケル畜産〈殊ニ酪農〉奨励ニ関スル件』の考察」(『法政史学』第93号、法政大学史学会、2020年)、「北海道における国有未開地処分と大農場による開墾事業」(長井純市編『近代日本の歴史と史料』花伝社、2022年)、「農業経営の改革を担った金原農場蔬菜部」(伴野文亮・渡辺尚志編『金原明善』文学通信、2023年)
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]