【神奈川編】
第2回 渋沢栄一の領収書から ~箱根 仙石原

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幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。

第2回 渋沢栄一の領収書から ~箱根 仙石原

明治のはじめから外国人観光客でにぎわった風光明媚な温泉地・箱根。その奥に広がる仙石原の原野では明治10年代から資本家が牧場を開発し避暑に訪れる外国人向けに牛乳やバターが生産されました。
箱根の入口・箱根湯本駅は、平日も外国人観光客や若いカップルでにぎやかです。観光用人力車の客引きの前を通り過ぎて「あじさい橋」を渡り、歩くこと5分。「サルに注意」の看板に思わず、周囲を見渡しました。
ここには箱根町立郷土資料館があります。入り口には「歴史を知って、旅はさらにおもしろく」と英語のメッセージが掲げられていました。
  • 【箱根町立郷土資料館】
「渋沢がここで牧場を手がけたことは、近年まで地元でもあまり知られていなかったんですよ」。そう話すのは、長く学芸員を務めた鈴木康弘さん。同館が所蔵する耕牧舎関係の資料を見せてもらいました。
1878(明治11)年3月、渋沢栄一は、従兄の渋沢喜作、のちの三井物産の初代社長となる益田孝、株式取引所頭取の小松彰とともに、毛布製造の原料となる羊毛生産のため、内務省勧農局に緬羊500頭の借用を申請しました。同じ頃、神奈川県は、渋沢らが事前視察した村民の共有地を勧業試験牧場用地として買い上げ、1880(明治13)年2月には渋沢らに貸与、1年後に払い下げます。県庁(地方政府)が全面的にバックアップしての資本家による牧場開発が始まりました。
「三井の大番頭」と呼ばれた益田孝の自叙伝にこんな記述があります。
箱根を訪れ、碓氷峠(宮ノ下から仙石原へ向かう途中の峠)をぶらぶらしていた際に農家に立ち寄って麦飯をごちそうになった益田は、「此の少し先に大きな原がある、何もしないで遊ばせてある」と耳にします。「婆さんに教へられた通り行ってみると成程立派な原である。ここで牧畜をやったら豪気なものだ。之は天の賜だと思って参考の為めにそこの土や草などを取って東京へ持って帰った。(中略)渋沢さんに仙石原の話をして、牧場をやろうじゃ御座らんかと云うと、大賛成で早速やることになった」。
一見手付かずの遊休地に見えた広大な原野は、実は、村のひとびとが牛馬の餌となる秣(まぐさ)や茅を刈る「共有地」でした。火山灰地で水はけが悪いこともあり原野のまま確保されていたそうです。
翌1879(明治12)年2月、渋沢栄一は、いとこにあたる須永伝蔵を下総牧羊場に派遣して技術を実習させ、牧場地の選定を指示しました。10月中旬から11月にかけて出かけた現地調査の旅費の請求書類「豆相牧場地見分出張入用」によれば、現地入り前の10月15日、番町で百科全書とともに「牛採乳法」という本を16銭で購入していますので、すでに乳牛飼養が検討されていた可能性があります。
1880(明治13)年2月、渋沢、益田、小松、渋沢喜作の4人は、3万円の資本金を用意して、耕牧舎を設立します。1881(明治14)年の巡査の初任給が6円だったといいますから、当時の1円を現在の2~3万円と見れば、億単位の投資プロジェクトということになります。
1869(明治2)年に仙石原裏の関所が廃止されて10年、静かだった山奥の村に、資本家たちによって「近代牧畜業」が持ち込まれたのでした。
  • 【かつて仙石原の耕牧舎牧場跡にあったという標柱】
    「箱根温泉供給社史」より

草地のために牛を

下総牧羊場で実習を経て耕牧舎の支配人として送り込まれた須永伝蔵の手記「牧場概況」によれば、仙石原の牧場地は、南に芦ノ湖、北は仙石原村の耕地に接し、東西二方は連山がそびえ、「真ニ牧場ニ最モ適地ナル天然ノ境ナリ」と記されています。しかし一方で、一面に萱が生い茂り、後年の渋沢の言葉を借りれば「到底牧羊場トナスヲ得」ない土地だったことから、「先ツ乳牛ヲ牧シテ草質ヲ改良シ、而シテ後チ当初ノ目的ヲ達ス」とあります。
つまり、まずは牧草が育つように原野の土壌を改良する必要がある、そのために乳牛を飼おうと方針転換します。当時としては最新式の洋式農具を導入して開墾に着手しました。
耕牧舎関連資料のなかの「牝牛買入方見込書」から、どのような牛を購入する方針だったかを知ることができます。牝(雌)牛は30頭、このうち満1歳以上の牝犢ひんとく20頭 満2歳より3歳位10頭。但し書きに、気候の差異に適応しやすいと見て、満1歳の頭数を多くした、とあります。また、牛飼いに精通した牧夫を1、2年間雇い入れること、牝牛を牧場に入れる時期は5月下旬から6月中旬くらいとすること、牝馬4歳位を5頭入れることも記されています。
郷土資料館所蔵の領収証で、牛の購入について確認してみましょう。まず、1880(明治13)年9月に、日本の牛乳販売の先駆とされる前田留吉と山崎平助から洋種の牝子牛18頭を合計1,800円で購入しました。翌1881(明治14)年4月には、横浜で三井物産を通じて14頭を購入したという明細書が残っています。
  • 【洋犢代立替金支払通知書】箱根町立郷土資料館所蔵
一頭一頭に名前がついており、「シャフレー氏」が買い入れた牛も譲り受けたことにより10ドルの謝金を含め締めて416ドルは747円96銭。同年5月に前田喜代松から1頭70円、8月に下総種畜場から払い受けた「洋種無角種白毛牝牛」は160円、第2虎彪号二四雑種牝牛は70円でした。
ちなみに「シャフレー氏」とはアメリカ人獣医のA.ジャフレーと見られます。幕末の横浜で牛乳を販売したYOKOHAMA DAIRYを経営した「James&Co.」に勤務し、1873年頃にはゴールデン・ゲート・リヴァリー・ステーブルという馬車会社を引き継いで横浜から小田原・箱根方面へ運行していました。
この時点で、渋沢らは、現在の価値に換算してざっと数千万円以上を、牛の導入に投資したことになります。牛乳と牛肉にそれだけ大きな可能性を感じていたのでしょう。種牛は、ショートホーンやデボン種が下総種畜場から借用されました。

夏限定で牛乳販売

この年3月には「バタチョン」(バターチャーン:生クリームを分離してバターを作る撹拌機)を5円で、勧農局農具製作所から購入しています。
10月27日付の「牛乳売捌広告料一周間ノ分 ヘラルド新聞社エ洋三ドル仕払 相場壱円六拾三銭」という領収書から、横浜の英字新聞、ジャパン・デイリー・ヘラルドに広告を掲載したと見られます。翌1882(明治15)年には、自由民権論者の読んでいた朝野新聞にも広告を出した記録があり、外国人と知識人層が、牛乳販売のターゲットであったことが分かります。
1888(明治21)年、神奈川県に提出された「景況報告書」から耕牧舎の当時の様子がうかがえます。
「暑中箱根・宮ノ下等ニテ乳汁ヲ販売シ、残余ハバタヲ製シ宮ノ下ニ販売シ外 秋ヨリ冬春ハ東京支店又は諸々支店ヲ設ケ牛乳ヲ販売シ、或ハ同業者ニ貸與スル事アリ」。
暑い時期に箱根宿と宮ノ下で牛乳を販売し、残りはバターを製造して宮ノ下に販売している。それ以外に、秋、冬、春は、支店での牛乳販売のほか、乳牛を同業者に貸与することもあった、と記されています。注:ここで「或ハ同業者ニ貸與スル事アリ」は「貸し牛」であるかどうかはよくわからない。

支店といえば、1883(明治16年)に、東京の外国人居留地に近い築地入船町に開店した支店が大繁盛しました。その経営にあたったのが、小説家・芥川龍之介の父である新原敏三でした。翌1884(明治17)年には出資者への利益配当が始まり、山梨や沼津、1889(明治22)年には都内の内藤新宿や王子にも支店が出されました。
  • 【バタチョン代金領収証】箱根町郷土資料館所蔵

「貸し牛」の実践

神奈川県の統計をもとに鈴木さんらが調査したところによれば、開業から10余年が経過した1892(明治25)年末時点で、耕牧舎仙石原の牧場の牛の頭数は200頭を超え、うち16頭を貸し付けていました。翌1893(明治26)年から1898(明治31)年までは年間43~65頭と、貸し牛が行われたことがわかっています。
「五月中旬ヨリ十一月上旬迄ヲ野飼トシ、下等牛馬ハ昼夜共ニ放牧シ日々頭数及ヒ景況ヲ検査セシメ、上等馬・乳牛ハ舎飼トシ、麦・麬等ヲ與ヘ日中ハ運動ノ為放牧ス、冬期即チ十一月中旬ヨリ五月上旬迄ハ舎飼トシ、乾草ヲ細切シ、麬・米糠ノ類ヲ三升乃至四升ヲ混シ朝夕両度ニ分與シ、静日ニハ放牧シ、夕方ハ舎内ニ追入ルルヲ常トス」(景況報告書)
渋沢の「六十年史」によると、「牛乳販売石数ハ各支店ヲ通シテ毎年平均二百八十石余ノ上二登レリト云フ」。各地の支店を合計した牛乳の販売は、年平均280石(約50.4トン)に達しました。

牧牛は利益少なし

元学芸員の鈴木さんらの研究によると、開業から5年たった1885(明治18)年のものと見られる、須永伝蔵から会計担当者に宛てた手紙には、「年々損耗」と苦しい台所事情がつづられていました。「穀物類モ追々上リ相場二相成候二付、麸杯も格別高債二不相成候間、差向金弐百円斗御送リ被成度」(穀物の値段は高止まりし、特にフスマは高値になっているため、200円ご送金いただきたい)などとあり、購入飼料の値上がりが経営を圧迫していたと見られます。
1893(明治26)年、渋沢が須永への手紙で、「右売乳ハ先以積年之御尽力二テ追々都合ヲ得候様ナレトモ、牧牛一方ハ何分利益少ク、永年御勉強被下候効モ相立不申痛心罷在候」(牛乳販売はこれまでのご尽力で道筋がついたが、牧牛は利益が少なく、長年努力してもらっても立ち行かず、心が痛みます)と記しました。1895(明治28)年には「牛トテ乳店分ヲ除キ可成売却仕度ト存候」と、牛乳店で使用する以外の牛の売却方針を伝えました。
さらに、明治30年代以降は牧草の栽培も手がけますが、強風が強く、牧草栽培も芳しくなく、防風林も上手に育たなかったようです。「近年西洋牧草『ヲチャルト』『レートップ』『チモヂー』『クロバ』『アルハルハ』ノ類ヲ播種セシニ、『クロバ』、『アルハルハ』ハ暴風ノ為メ好果ヲ得ザリシガ、他ノ3種ハ盛ニ蕃殖セリ。樹木ハ皆無ニシテ幼獣風雨ヲ避クルモノナシ。故ニ植樹ニ尽力シ年々若干ヲ植ヘ付クルモ風力大ナルヲ以テ成績悪ク、殊ニ松杉ハ虫害モアリテ枯死ニ至ルコトアリ」。これらの手紙には、現場を預かる須永の苦悩がよく表れています。
1904(明治37)年、仙石原村の村長もつとめた須永伝蔵が亡くなります。現地視察させた新原から、仙石原の事業は見込みがないとの報告を受けた渋沢ら投資家は、耕牧舎の解散を決定します。各支店は、担当者らに売却されることになりました。
  • 【明治31年5月撮影の須永伝蔵の家族写真。
    前列中央が須永で、左後方が四男の岡部四郎】
    「箱根温泉供給社史」

耕牧舎の遺産

20余年の牧場開発は、地元に何をもたらしたのでしょうか。
耕牧舎が廃業してまもなく、仙石原村民が土地の払い下げを求めて神奈川県知事に提出した嘆願書にこんな一節があります。

「従来農間之余業村内ニ耕牧舎ナルモノアリ、牧畜業ヲ営ミ居リ、牛馬飼育上ニ青草苅取及干草ノ始末、或ハ牛乳搾取其他之要務ニ男女ノ別ナク被相雇、依之全村生活之一助罷在候処、同業ハ本年七月限リ廃業致シ、舎員モ悉ク引拂、空虚ノ状況ト相成、細民ニ於テ賃取等稼モ無之…」
耕牧舎が牧畜を営むなかで、村びとが男女を問わず雇われ、牛馬の飼育に加え、青草を刈ったり乾草にしたり、牛乳を搾ったりするなどの作業に従事し、その賃金が暮らしの支えとなっていた、との内容です。まちから隔絶され、細々と暮らしていた人々にとって、牧畜という新たな生業との出会いとなりました。領収証から、二本爪、三本爪、四本爪の「ホーク」(フォーク)が何本も購入されたことがわかりますが、村人は使い慣れた鍬や鎌を、フォークに持ち替えて、干草を積んだのでしょう。
やがて神奈川県の仲介で耕牧舎の土地は村に譲渡され、一部は仙石原村小学校に寄付されました。1912(明治45)年に御殿場への国道が開かれ、大正期には周辺でゴルフコースや別荘開発がすすめられてゆきます。
江戸時代がまだ昨日のようだった明治10年代において、箱根の奥深い山里で、乳牛と向き合い、牛乳を搾り、バターを作った人々がいました。几帳面に保管された領収証の束や文書が、その事実を今に伝えています。

湘南海岸の二宮でも、酪農家のこんな語りが残っています。
「大正6年頃、或る日耕牧舎に貸牛を引きつけた所、中井砂口の多田さんの牛がいて、沢山の牛乳を出す牛だとの定評。調べてみると箱根仙石原から来た牛で英国系の国産牛、牧場からこの牛が返されるのを待って、買い取りの交渉、やっとのことで話はまとまり、5産6産と2斗(約36リットル)余り出る評判牛となった。」(中郡酪農発達史)
この英国系の国産牛の子孫は、その後、二宮、秦野など各地で経営の中心となって活躍したそうです。ここでいう「耕牧舎」とは、須永の四男・岡部が継承した小田原の牛乳店(耕牧舎の嘗ての支店)と考えられます。中井砂口は、東名高速道路の秦野中井インターチェンジ近くです。なお、5産、6産とは仔牛を出産した回数をいいます。
仙石原での耕牧舎の挑戦は潰えましたが、その火種は、神奈川県の各地の酪農として、受け継がれていきました。
  • 【秦野市歴史館の企画展で展示されていた南秦野の酪農風景の写真(年代不明)】
 【参考文献】
 箱根温泉供給株式会社社史編纂委員会編「箱根温泉供給社史」1982年
 鈴木康弘「近代の仙石原村-耕牧舎との関係を中心に」 箱根町立郷土資料館館報 第10号 1994年
 箱根町立郷土資料館 図録「企画展 箱根を拓く—渋沢栄一と箱根」 2022年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]