【神奈川編】
第4回 湘南海岸の別荘地で 大磯・二宮

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。

第4回 湘南海岸の別荘地で 大磯・二宮

1885(明治18)年、陸軍の初代軍医総監・松本順(良順)の提唱によって、大磯は日本最初の海水浴場に指定されました。幕末の長崎で西洋医学を伝えたオランダの軍医ポンぺに学んだ松本は、牛乳の普及にも尽力した人物です。松本は、まだ日本人に馴染みのなかった牛乳を宣伝するために、当時絶大な人気を誇った歌舞伎の女形・沢村田之助を吉原に呼び、大勢の芸者の前で、牛乳をおいしそうに飲ませた、と言われています。晩年を過ごした大磯の別荘でも、きっと牛乳を飲んでいたことでしょう。
1887(明治20)年、東海道線の大磯駅が開業すると、風光明媚で温暖な海岸沿いに、政治家や財界人などの名士たちがこぞって別荘を構えるようになります。「大磯誌」によると、その数は1889(明治22)年に20軒、1907(明治40)年には108軒にのぼりました。中でも大磯は、伊藤博文や大隈重信ら8人の歴代首相が別荘を構えたことから「政界の奥座敷」と呼ばれ、隣の二宮にも犬養毅や三越百貨店の創業者らが別荘を建てました。
1889(明治22)年発行の「大磯名勝誌」には、「牛乳搾取販売人」として「長養舎」(神明町)と「牧牛舎」(東小磯)が記載されています。長養舎は獣医免許を持つ片野惣左衛門、牧牛舎は後に松下と改姓した山西村の西山金三郎が経営していたと言われています。西山は山西村(現在の中郡二宮町)で乳牛を飼っていたところ、松本順から「わしの邸に牛舎を建てよ」と勧められました。しかし、恐れ多いと感じた西山は、松本邸の隣接した御岳神社の隣にあった、親類の宮代新太郎の土地を借りて牛舎を建てた、というエピソードが残っています。
長く半農半漁の暮らしが営まれていた海辺の村に、避暑に訪れる「セレブ」のニーズが生まれたことで、この地における牛乳の販売が始まったのです。
  • 長養舎の広告には牛乳と大きく書かれた配達の車が写っている。
    商家案内壽語録〔小田原〕(1910年、部分)より 小田原市立中央図書館所蔵

地域の資料から

この地域には、早い時期の牛乳生産に関する貴重な記録が残されています。
それは、吾妻村山西(山西村などが合併して吾妻町村になる)の西山廣太郎が村に届け出た1890(明治23)年の牛乳の搾取高(生産量)の報告書です。月末時点の総頭数や搾乳牛の頭数、牛乳の生産量が月ごとに記録されており、当時の経営実態を窺い知ることができます。
報告書によると、西山は6〜8頭を飼養し、そのうちの2〜4頭から搾乳していました。牛乳の生産量は、最も少ない11月と12月が2石(約360リットル)、年明けの2月が最大で3石4斗(約612リットル)でした。仮に一軒に1合を毎日届けたとすると、66~113軒の顧客に配達した計算になります。冬場に生産量が増えているのは、寒さを避けて温暖な大磯の別荘に滞在する人が多かったからでしょう。
また、1896(明治29)年の「牛乳搾取販売免許願い」という資料も残されています。これは、吾妻村二宮の西山米次郎が、2頭の牛で新たに牛乳販売を始める旨、神奈川県知事にあて提出した申請書です。「間口五間奥行二間 詳細は別紙図面の通り」として牛舎の図面、さらに「隣地主エ家主ニ於テ故障筋一切無之候」という隣人の承諾書が添えられています。
当時、搾った牛乳はどのように処理されていたのでしょうか。1905(明治38)年に大磯の西小磯で牧場を開いた柳川舎の記録によると、搾った牛乳を大きな缶に入れ、大釜で沸かした湯で湯煎しながら攪拌して高温で殺菌していました。その後、水で冷やした牛乳を天秤棒で担ぎ、5勺(90ミリリットル)や1合(180ミリリットル)といった単位で売り歩いたそうです。やがてブリキ製の小さな缶(1合・2合用)で販売されるようになり、ほどなく瓶詰へと移行すると、大八車で配達するようになりました。
当時の様子について、「別荘や外人さん納めになると、良いもの、濃いものと注文がついた」という記録が残っています。当時の乳量は一頭あたり3升から5升(5~8リットル)ほどでしたが、よく乳を出す牛や夏場に青草を食べた牛の乳は薄くなるため「搾り別け」が行われました。牛乳は搾り始めと搾り終わりで濃さが異なるため、例えば3升(5.4リットル)の乳量であれば、搾り始めの2升(3.6リットル)は普通牛乳とし、搾り終わる前の濃い1升(1.8リットル)は特別な牛乳として別荘などに納めたといいます。ミルカー(搾乳機)が登場するはるか前のことで、毎日の手搾りだからこその経験知による付加価値の創出でした。牛乳がまだ高級品だった時代、牛乳の味にこだわる人は今より多かったかも知れませんね。
  • 富士山も望める、二宮町の人気スポットである吾妻山公園からの眺望

湘南牛乳株式会社

1908(明治41)年、山西に「湘南牛乳株式会社」が設立されました。当時の横浜貿易新報の記事によると、3000坪を超える広大な敷地に、60頭を収容できる牛舎と事務所を備えていたと伝えています。「中郡酪農発達史」によれば、この会社は二宮と山西の有志数人で設立されましたが、2年後には経営が傾いて解散しています。その後は、西山久次郎が事業を引受けて、「西山牛乳店」となったそうです。当初はアシアン(エアシャー)とホルスタインの雑種から搾った牛乳を、天秤棒で担いで計り売りしていましたが、1919(大正8)年にはボイラーを導入。金属製のかごに牛乳を詰めたガラス瓶を入れ積み重ねて、蒸気で効率的に殺菌処理するようになりました。
西山牛乳店では、「従業員が山西 西山牛乳店」と染められた印半纏しるしばんてんをまとい、東は大磯町の小磯から西は国府津駅まで配達して回ったといいます。なかでも大口の納入先だったのが国府津の「東華軒」で、1921(大正10)年頃には、国府津駅の売店用に1合瓶や2合瓶を100~200本納めていたとの語りが残っています。
「二宮町郷土誌」によれば、当初は牛飼いを異端者扱いにしていた他の農家も東京方面での牛乳需要が増え、牛乳が一升(1.8リットル)あたり26銭という高値を付けるようになると、牛を飼う農家がどっと増えたといいます。現在の二宮町内で農家が乳牛を飼い始めたのは、1916(大正5)年から1923(大正12)年が最も多かったようです。
  • 大正13年西山牛乳店牛乳小売帳二宮之部
    二宮町史資料所在目録第2号
  • 西山牛乳店の牛乳小売帳にも特別牛乳を示すと見られる「特」の記載があった。普通牛乳3合で27銭、特別牛乳は2升4合が2円88銭となっている。
 【参考文献】
 一嚢一筇道人 「大磯名勝誌・相州大山記」1889年
 鈴木昇「大磯の今昔(五)」1992年
 成瀬敏夫「中郡酪農発達史」1990年
 二宮町「二宮町史 資料編3 近現代」2006年
 二宮町「二宮町史資料所在目録第1集」1991年
 二宮町「二宮町史資料所在目録第2集」1991年
 明治記念大磯邸園ウェブサイト https://www.meijikinen-oiso.jp/
 二宮町教育委員会「二宮町郷土誌」1972年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]