
幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。
第5回 城下町の牛乳店 ~小田原
作家・吉川英治の父は、明治の中頃に箱根山麓付近で牧牛を志したことがあったそうです。20代の頃、神奈川県庁の酒税官吏を務めていた父親は、小田原の花街の女性と同棲していました。しかし、長野県庁への転任中にその女性が殺害されるという事件が起き、これが新聞沙汰になってしまいます。辞表を出して数年間の放浪生活を送った後に故郷の小田原に戻ると、「これからは外人相手の仕事でなければ」と一念発起し、牧牛による起死回生を狙いました。その様子は、吉川英治の自叙伝に次のように綴られています。
「親類や土地の人々から、士族が、けものいじりするとか、土地を穢すとか云われて、徹底的に嫌われ、とうとう又、小田原を追ン出て、牧場を横浜市街の太田新田という所へ引移したのである。」 ———「忘れ残りの記」
1892(明治25)年生まれの吉川が誕生する前の話であり、小説家だけに脚色もあるかも知れませんが、明治時代になっても畜産業をタブー視する偏見が根強く残っていたことを物語っています。先人たちは、そうした逆風のなかにあっても、牧畜や酪農の将来性に賭けたのでした。なお、父親の目指した牛肉ビジネスは、その後に牛疫の蔓延で牧場の牛を失い、「長続きしなかった」ということです。
「親類や土地の人々から、士族が、けものいじりするとか、土地を穢すとか云われて、徹底的に嫌われ、とうとう又、小田原を追ン出て、牧場を横浜市街の太田新田という所へ引移したのである。」 ———「忘れ残りの記」
1892(明治25)年生まれの吉川が誕生する前の話であり、小説家だけに脚色もあるかも知れませんが、明治時代になっても畜産業をタブー視する偏見が根強く残っていたことを物語っています。先人たちは、そうした逆風のなかにあっても、牧畜や酪農の将来性に賭けたのでした。なお、父親の目指した牛肉ビジネスは、その後に牛疫の蔓延で牧場の牛を失い、「長続きしなかった」ということです。
耕牧舎の牛乳瓶
小田原駅東口を出ると、大通りに沿ってアジなど地魚を提供する飲食店や土産店が軒を連ね、そのむこうには、まちのシンボルで、難攻不落と称えられた小田原城が見えます。1905(明治38)年に箱根の耕牧舎が廃業した際に、城下町でその看板を受け継いだのが、仙石原の牧場支配人だった須永伝蔵の四男・岡部五郎でした。
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小田原駅東口から小田原城をのぞむ
その耕牧舎の刻印が入った古いガラスの牛乳瓶が所蔵されていると聞き、小田原城址公園内にある郷土文化館に出かけました。
学芸員さんに見せていただいたのは、最近になって同館に寄贈されたという3種類の牛乳瓶です。
学芸員さんに見せていただいたのは、最近になって同館に寄贈されたという3種類の牛乳瓶です。
そこには確かに「耕牧舎」という文字が刻印(表面を浮き上がらせるエンボス加工)されており、上部に「全乳」、裏側「特別上等」とありました。口の部分に穴があり、針金と陶器のふたで栓をする「機械口」と呼ばれる瓶の形状は明治時代に一般的だったそうです。広口の瓶には、小田原ではよく知られた「益田牛乳」の刻印があります。耕牧舎の出資者で、小田原では晩年の号「鈍翁さん」と呼ばれる、益田孝ゆかりの牧場だそうです。
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箱根温泉供給株式会社が保管する牛乳運搬箱。箱の内径からは広口の瓶を運んだと考えられる。
瓶の見つかった場所
この牛乳瓶について、「どこから発掘されたのですか、やはり小田原城址ですか」と尋ねると、学芸員さんは「いいえ、皆春荘を掃除していたら、出て来たということで——」と教えてくれました。
「皆春荘」は、もともと清浦圭吾(第23代内閣総理大臣)の別邸だった建物を、首相や陸軍元帥を歴任した山縣有朋が購入して別荘としたものです。小田原から箱根登山鉄道で一駅の箱根板橋駅で下車し、国道一号線を渡って旧東海道へ向かいます。小田原北条氏の時代に公共水道として整備された小田原用水が流れ、町家が残る旧街道の風情が味わえます。築100年近い洋風建築を改装した薬膳喫茶のご主人に道を尋ねると「地図があるので、よかったらどうぞ。結構な登り坂ですよ」と教えていただきました。
「皆春荘」は、もともと清浦圭吾(第23代内閣総理大臣)の別邸だった建物を、首相や陸軍元帥を歴任した山縣有朋が購入して別荘としたものです。小田原から箱根登山鉄道で一駅の箱根板橋駅で下車し、国道一号線を渡って旧東海道へ向かいます。小田原北条氏の時代に公共水道として整備された小田原用水が流れ、町家が残る旧街道の風情が味わえます。築100年近い洋風建築を改装した薬膳喫茶のご主人に道を尋ねると「地図があるので、よかったらどうぞ。結構な登り坂ですよ」と教えていただきました。
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喫茶の中庭に置かれた昭和レトロな冷凍庫
坂を上がってゆくと、まず山縣が晩年を過ごした「古稀庵」が現れ、その先に目指す「皆春荘」がありました。人影のない夕暮れ時、日本家屋と手入れの行き届いた庭に斜めに光が差し込み様子は、まるで大正時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えました。
戦前、小田原郊外の別荘で過ごした名士たちに牛乳を届けるために、毎朝この急な坂道を駆け上がった牛乳屋さんがいたのでしょう。こんこんと流れる小田原用水の水音に交じって、時折ガチャガチャと牛乳瓶がぶつかり合う音が辺りに響いていたかもしれない——想像をめぐらせていると、坂上にある学校から下校する女の子たちの楽しそうな笑い声がして、はっと我に返りました。
戦前、小田原郊外の別荘で過ごした名士たちに牛乳を届けるために、毎朝この急な坂道を駆け上がった牛乳屋さんがいたのでしょう。こんこんと流れる小田原用水の水音に交じって、時折ガチャガチャと牛乳瓶がぶつかり合う音が辺りに響いていたかもしれない——想像をめぐらせていると、坂上にある学校から下校する女の子たちの楽しそうな笑い声がして、はっと我に返りました。
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牛乳瓶が見つかった皆春荘。火曜日から日曜日の日中、無料で公開されている。
古地図のなかに
小田原郷土文化館で、1913(大正2)年12月発行の地図「小田原案内図」を見せてもらいました。当時の小田原町の東の外れに位置する新玉(あらたま)四丁目に「耕牧舎牛乳店」の文字を確認できます。新玉地区は1875(明治8)年に区画整理された新しい土地ですが、幕末までは武家地であり「大新馬場(おおしんばば)」と呼ばれていたそうです。
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小田原町町勢調査会「小田原案内図」(1913年、部分)
地図の裏面に印刷された「町勢一覧」によれば、当時の小田原町の住民は20,387人。小田原名物は「透頂香(外郎、ういろう)、柚餅、梅干、漬物、塩辛、蒲鉾、箱根細工」とあります。業種別の数を見ると、牛乳店は耕牧舎(新玉四、電話三二)、木村牛乳店(新玉三)、桃林舎(荻窪、電話二一二)の3軒、牛肉店が3軒、西洋料理店が2軒、パン製造販売店も1軒あったことがわかります。広い通りをはさんで建具店、天理教会、路地を入ると7軒の遊郭らしき店があったようです。
小田原市史の編さんに携わった星野和子さんに、耕牧舎があった場所へ案内していただきました。「大新馬場」の「馬場」とは、その名のとおり、かつて武士たちが馬術の訓練を行った広大な土地であり、耕牧舎が牧場を兼ねた牛乳店を開く場所として選んだことにも納得がいきます。現在は、当時の面影はなく、大きな立体駐車場になっていました。
小田原市史の編さんに携わった星野和子さんに、耕牧舎があった場所へ案内していただきました。「大新馬場」の「馬場」とは、その名のとおり、かつて武士たちが馬術の訓練を行った広大な土地であり、耕牧舎が牧場を兼ねた牛乳店を開く場所として選んだことにも納得がいきます。現在は、当時の面影はなく、大きな立体駐車場になっていました。
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現在の大新馬場付近
資料は語る
星野さんから「図書館に、耕牧舎に関連する資料がある」と聞き、かもめの愛称で呼ばれる小田原市立中央図書館へ。見せていただいたのは、1910(明治43)年発行の「商家案内壽語録〔小田原〕」です。小田原や大磯のまちの商工業者を紹介した双六仕立ての広告で、そのふりだし近くに耕牧舎が出ています。
曰く、「弊社は花客御諸君のご便利を計り 各所に支舗を設置し有之に付 御手近に御注文を奉希候」とあります。ここで使われている「花客(かかく)」という言葉を辞書で引くと、「花見客」のほかに「遊郭などの得意客」という意味もあるようです。花街に近い立地を活かし、お得意さんが気軽に購入できるよう、いくつかの場所で小売りを行っていたのでしょう。近所には湯屋(銭湯)も2軒あったようで、「お風呂上がりの一杯」として売られていたのかもしれない、と想像が膨らみます。添えられた写真に目を凝らすと、牧柵のなかに8頭ほどの乳牛がいるようです。牛に寄り添うように立つ男性の姿がありました。
曰く、「弊社は花客御諸君のご便利を計り 各所に支舗を設置し有之に付 御手近に御注文を奉希候」とあります。ここで使われている「花客(かかく)」という言葉を辞書で引くと、「花見客」のほかに「遊郭などの得意客」という意味もあるようです。花街に近い立地を活かし、お得意さんが気軽に購入できるよう、いくつかの場所で小売りを行っていたのでしょう。近所には湯屋(銭湯)も2軒あったようで、「お風呂上がりの一杯」として売られていたのかもしれない、と想像が膨らみます。添えられた写真に目を凝らすと、牧柵のなかに8頭ほどの乳牛がいるようです。牛に寄り添うように立つ男性の姿がありました。
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商家案内壽語録〔小田原〕(1910年、部分)小田原市立中央図書館所蔵
「貸し牛」のリアル
神奈川県内では、明治時代から「貸し牛」というしくみが普及しました。当初は、市街地の牧場兼牛乳店で牛を飼い、搾乳して牛乳を販売しますが、牛が乳を出さない乾乳(子牛を分娩する前)になると、近郊の農家に牛を預けられていました。牛が子牛を産んで再び乳が出るようになると、牛乳店に戻されました。この預託について、神奈川県の普及員を長年務め、農家からの聞き取りを「中郡酪農発達史」にまとめた成瀬敏夫さんは、「農家は幾分の謝礼金と厩肥の収入に甘んじていた」と記しています。「厩肥の収入」とあるのは、牛ふんを有機肥料として自分の畑に使って作物の収量を増やし、余れば販売もできたことを意味しているのでしょう。自前で搾乳して牛乳を売るほどの利益にはならないにしても、機械化以前で働き詰めだった当時の農家にとって、手間の少ない確実な副業であったと考えられます。
やがて農家が自ら子牛を育成し、乳牛を所有するようになると、牛乳店へ貸し出す「貸し牛」が広がって行きました。乳牛を牛乳店に送り込む際には、農家は、自分で牛を引いていくか、または「引き子」を雇うこともあったといいます。当時の語りによれば、「引子の日当は1日50銭、出発には稲わら、麩、麦糠などを背負って牛を歩かせたもの」ということです。
やがて農家が自ら子牛を育成し、乳牛を所有するようになると、牛乳店へ貸し出す「貸し牛」が広がって行きました。乳牛を牛乳店に送り込む際には、農家は、自分で牛を引いていくか、または「引き子」を雇うこともあったといいます。当時の語りによれば、「引子の日当は1日50銭、出発には稲わら、麩、麦糠などを背負って牛を歩かせたもの」ということです。
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乳牛預りの証(1918年)二宮町史資料所在目録第1集より
上の写真は、二宮町が所蔵する1918年(大正7)年の「乳牛預かりの証」です。小田原の牛乳店「桃林舎」が、吾妻村一色の農家にあてて書いたものと見られます。
対象は、乳牛1頭で、黒くて腹が白いという身体の特徴、4歳であり、期限は「一泌乳期(乳が出る期間)」、乳代と牡(雌)子牛を合わせた預け額を80円とし、そのうち40円を当日に支払い、残りの40円を3か月後に支払うと定めています。種付け(繁殖)の料金は牛乳店側が負担することも明記されています。
「中郡酪農発達史」には、同じく一色の井上磯五郎さんが、秦野の込山牧場や小田原の耕牧舎、桃林舎、さらには平塚や茅ケ崎の牧場に貸し出していたというエピソードも収められています。
17歳から牛をひくのを手伝っていた井上佐助さんの話によれば、牛を移動させるのは主に夜だったそうです。「牛も長距離を歩くと疲れて寝てしまう。こうなるとどうにもならない。困りきったことも度々であった」そうで、星空の下、頑として動かない牛を前にため息をついたであろう、先人の苦労がしのばれます。
また、南秦野村(現在の秦野市)の農家も、小田原市街の耕牧舎や桃林舎まで牛を歩かせた際、「…国府津の国道に座ってしまってどうしても動かないのでやむなく多田牧場に一夜世話になった」と語っています。当時の人々のバイタリティと根気、そして旅先での温かい人情が伝わってくるエピソードです。大正中期以降になると、地域に近代的な乳業工場が進出し、牛乳の売り先が確保されるようになると、自ら搾乳をする農家が増えていくことになります。
対象は、乳牛1頭で、黒くて腹が白いという身体の特徴、4歳であり、期限は「一泌乳期(乳が出る期間)」、乳代と牡(雌)子牛を合わせた預け額を80円とし、そのうち40円を当日に支払い、残りの40円を3か月後に支払うと定めています。種付け(繁殖)の料金は牛乳店側が負担することも明記されています。
「中郡酪農発達史」には、同じく一色の井上磯五郎さんが、秦野の込山牧場や小田原の耕牧舎、桃林舎、さらには平塚や茅ケ崎の牧場に貸し出していたというエピソードも収められています。
17歳から牛をひくのを手伝っていた井上佐助さんの話によれば、牛を移動させるのは主に夜だったそうです。「牛も長距離を歩くと疲れて寝てしまう。こうなるとどうにもならない。困りきったことも度々であった」そうで、星空の下、頑として動かない牛を前にため息をついたであろう、先人の苦労がしのばれます。
また、南秦野村(現在の秦野市)の農家も、小田原市街の耕牧舎や桃林舎まで牛を歩かせた際、「…国府津の国道に座ってしまってどうしても動かないのでやむなく多田牧場に一夜世話になった」と語っています。当時の人々のバイタリティと根気、そして旅先での温かい人情が伝わってくるエピソードです。大正中期以降になると、地域に近代的な乳業工場が進出し、牛乳の売り先が確保されるようになると、自ら搾乳をする農家が増えていくことになります。
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秦野市歴史館の企画展に展示されていた南秦野の酪農風景。(撮影年等は不明)
| 【参考文献】 吉川英治「忘れ残りの記」1989年 成瀬敏夫「中郡酪農発達史」1990年 |
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 ▶「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]
ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事 、日本酪農乳業史研究会 常任理事
関連著書 ▶「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]


