
幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。
第6回 お宮の前の牧場 ~平塚
明治時代の中頃、平塚八幡宮のすぐ目の前(平塚新宿)にも大きな牧場があったことを知る人は、地元においても、今ではほとんどいないのではないかと思います。
この牧場は「雲出牧場」と言い、その始まりは、八幡宮の神主だった雲出清五郎さんが、弟の持病だった脚気治療に役立てようと、一頭の乳牛を飼ったことでした。数年のうちに乳牛の数が増え、自家消費しきれなかった牛乳を他に売るようになったのが、雲出牧場のルーツだということです。1896(明治29)年発行の「平塚繁盛記」の中の「東海道平塚町商人録」に、「牛乳商 雲出松太郎」の名があります。また、関東大震災後の1925(大正14)年に都市調査協會が作成した平塚駅前の地図にも、雲出牧場が記載されていました。多くの参詣者で賑わったであろう表参道(八幡大門通裏)の、旅館や店舗が立ち並ぶ商店街の東側に、牧場は位置していました。
この牧場は「雲出牧場」と言い、その始まりは、八幡宮の神主だった雲出清五郎さんが、弟の持病だった脚気治療に役立てようと、一頭の乳牛を飼ったことでした。数年のうちに乳牛の数が増え、自家消費しきれなかった牛乳を他に売るようになったのが、雲出牧場のルーツだということです。1896(明治29)年発行の「平塚繁盛記」の中の「東海道平塚町商人録」に、「牛乳商 雲出松太郎」の名があります。また、関東大震災後の1925(大正14)年に都市調査協會が作成した平塚駅前の地図にも、雲出牧場が記載されていました。多くの参詣者で賑わったであろう表参道(八幡大門通裏)の、旅館や店舗が立ち並ぶ商店街の東側に、牧場は位置していました。
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大正14年に作成された平塚駅前の地図
現在のJR平塚駅から海を背にして駅前の通りを真っ直ぐ歩くと、交通量の激しい国道1号線にかかる歩道橋の向こうに、八幡宮の大きな赤い鳥居が見えてきます。この八幡大門通りの東側から旧東海道にかけた一帯がかつての牧場の跡地と思われます。現在は、企業や店舗の並ぶ市街地となっており、当時ののどかな面影は見当たりませんでした。
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八幡大門通り
「中郡酪農発達史」には、雲出清五郎さんの長女・当枝さんからの貴重な聞き取りが収められています。明治時代は天秤棒で担いで売り歩いていましたが、「年配の方は担ぐのが達者で、天秤を右に左にと肩を変えながら歩いた」そうです。1914(大正3)頃からは、荷台に幾分背の高い木箱を付けた「箱車(大八車のような手押し車)」で引いて配達するスタイルに変わりました。ペンキで緑色に塗った箱車には、「おいしいエーヤシャーの牛乳・雲出牧場」と書かれていたということです。
粋な配達夫
箱車を引く牛乳配達の若い衆はどんな格好をしていたのでしょうか。「ハイカラで、麦わら帽子に花など飾りつけ、パッチ(真っ白なパンツ風なもので体にきちっとしたもの)をはいて、上衣はハッピで牧場の名入り、おしゃれな若者はこのハッピが長いの短いのといい、よく縫わされた」。(中郡酪農発達史)
彼らの履物は、初めの頃は地下足袋でしたが、大正末期から昭和初期にはモダンなゴム靴を履くようになったそうです。写真がないので、想像してイラストにしてみました。
彼らの履物は、初めの頃は地下足袋でしたが、大正末期から昭和初期にはモダンなゴム靴を履くようになったそうです。写真がないので、想像してイラストにしてみました。
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当時の牛乳配達夫イメージ(小林志歩作成)
また、血気盛んな若者たちは、配達が終わると夜の遊びに繰り出してしまい、翌朝になってもなかなか戻ってこないこともあったとか。そんな時、真面目なひとりの従業員が乳搾りから配達までのピンチヒッターを務め、牛乳が足りない時は二宮、横浜の同業者のところへ大急ぎで出かけて調達したこともあったといいます。
夏場には牛に青草を多く与えるため、牛乳の乳脂肪が低くなりがちでしたが、乳脂肪分を一定に保つため、雲出牧場では乳脂肪分の高い乳を出すエアーシャー種を1頭飼って、その乳を混ぜて調整していました。当時は、警察の衛生係官が予告なしにやって来て抜き取り検査をすることもあったため、経営を任されていた女性は、常に試験管とエーテルを使って自主的に品質検査を行っていたといいます。
明治時代の末期、平塚には日本政府と英国のアームストロング社など3社が共同で設立した火薬製造会社の工場があり、技術指導のために20数人のイギリス人技術者が滞在していました。そのため牧場では、牛乳のほかに、バターも製造していました。和菓子の花型を用いて、牡丹やバラの形に型抜きしたバターだったそうです。また、大正期の不景気を打開しようと、ヨーグルト加工用の機械を買い求めたこともありましたが、残念ながらその出番はないままに、1934(昭和9)年に牧場はその歴史に幕を閉じました。それにしても、当枝さんの記憶のこまやかさには驚かされます!これらの一見何気ない日常の記憶を丁寧に聞き取って記録に残してくれた先達のおかげで、私たちは100年前の平塚にあった牧場の様子を、いまも鮮明に思い描くことができるのです。
夏場には牛に青草を多く与えるため、牛乳の乳脂肪が低くなりがちでしたが、乳脂肪分を一定に保つため、雲出牧場では乳脂肪分の高い乳を出すエアーシャー種を1頭飼って、その乳を混ぜて調整していました。当時は、警察の衛生係官が予告なしにやって来て抜き取り検査をすることもあったため、経営を任されていた女性は、常に試験管とエーテルを使って自主的に品質検査を行っていたといいます。
明治時代の末期、平塚には日本政府と英国のアームストロング社など3社が共同で設立した火薬製造会社の工場があり、技術指導のために20数人のイギリス人技術者が滞在していました。そのため牧場では、牛乳のほかに、バターも製造していました。和菓子の花型を用いて、牡丹やバラの形に型抜きしたバターだったそうです。また、大正期の不景気を打開しようと、ヨーグルト加工用の機械を買い求めたこともありましたが、残念ながらその出番はないままに、1934(昭和9)年に牧場はその歴史に幕を閉じました。それにしても、当枝さんの記憶のこまやかさには驚かされます!これらの一見何気ない日常の記憶を丁寧に聞き取って記録に残してくれた先達のおかげで、私たちは100年前の平塚にあった牧場の様子を、いまも鮮明に思い描くことができるのです。
ベストセラーの行間から
JR平塚駅から今度は海に向って大通りを南下していきます。明治のベストセラー作家・村井弦斎にちなんだ「弦斎通り」の標柱が目に留まります。
村井は、1904(明治37)年12月、小田原からここ平塚に移り住み、1万6000坪の広い土地を購入しました。平塚を選んだ理由は「畑が作れる広い土地がある」、その一点だったといいます。
村井は、1904(明治37)年12月、小田原からここ平塚に移り住み、1万6000坪の広い土地を購入しました。平塚を選んだ理由は「畑が作れる広い土地がある」、その一点だったといいます。
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JR平塚駅南側にある「弦斎通り」
食にまつわる物語を織り込んだ実用小説「食道楽(くいどうらく、または、しょくどうらく)」は、移住の前年である1903(明治36)年の元旦から、報知新聞の紙面で連載が始まります。同年6月に単行本として刊行された「春の巻」は、またたく間に10万部を売り上げる爆発的な大ヒットとなりました。「幕末百話」の著者で、当時、報知新聞出版部に勤務した篠田鉱造によると、本屋の従業員たちが、本の出来上がりを待ちきれず、取次店で本を奪いあって取っ組み合いの喧嘩を始めるほどだったといいます。発売からわずか半年で30版を重ね、中流階級以上の家庭では「娘の嫁入り道具」に入れるべし、とも言われたとか。毎月振り込まれる巨額の印税に驚いた小田原銀行の頭取が、「うちの子孫は作家にさせようか」と真顔で言ったという逸話も残されています。
この大ベストセラー小説「食道楽」の中には、牛乳やバターが度々登場します。これは、当時の人々にとって、文明開化を象徴する最もモダンで注目度の高い食材であったからでしょう。物語の行間から当時の牛乳事情が垣間見えます。
「譬へば今の人は大抵誰でも毎日牛乳を飲みます、牛乳計りで小児を育てる人もあります。して見ると牛乳の良否が人の身體に大関係を及ぼす事は知れ切つて居そうなものですのに多くの人は不正な商人から粗悪な牛乳を押付られて平気で居ます(中略)更に牛乳の良否を検査しないであの牛乳屋は五厘高いとか一銭安いとか五厘や一銭の値段計り彼是言ひます」 ——「食道楽」夏の巻
弦斎は、牛乳の質や乳脂肪分が重要であるとして、一般家庭で「検査器」を購入することをすすめています。また、バター選びについても、次のように具体的なアドバイスを盛り込みました。
「食卓用は和製なら信州の神津バターが良い様ですし、それから札幌バター、七塚原バターなんぞも宜う御座います、舶来ならば仏蘭西の上等食卓バターが宜う御座います、三四年前までは日本製のバターが純粋だと云つて大層外国人に称賛されたものです、それは日本の製造者がまだ幼稚である爲めに植物の油を混ぜる様な手段を知らなかつたんです、然るに此の頃は追々其の手段を覚えたと見えて市中で売る和製の品には随分悪い混物が沢山あります」——「食道楽」(冬の巻)
和洋のメニューやレシピはもちろん、食材の目利き、食品衛生、さらには現在につながる「食の安全」に至るまで、まさに小説の形をとった実用書だったのです。登場人物の男女が、互いに歯に衣着せぬ闊達な議論を繰り広げるのも、当時の人々にとっては新鮮で魅力的に映ったことでしょう。
この大ベストセラー小説「食道楽」の中には、牛乳やバターが度々登場します。これは、当時の人々にとって、文明開化を象徴する最もモダンで注目度の高い食材であったからでしょう。物語の行間から当時の牛乳事情が垣間見えます。
「譬へば今の人は大抵誰でも毎日牛乳を飲みます、牛乳計りで小児を育てる人もあります。して見ると牛乳の良否が人の身體に大関係を及ぼす事は知れ切つて居そうなものですのに多くの人は不正な商人から粗悪な牛乳を押付られて平気で居ます(中略)更に牛乳の良否を検査しないであの牛乳屋は五厘高いとか一銭安いとか五厘や一銭の値段計り彼是言ひます」 ——「食道楽」夏の巻
弦斎は、牛乳の質や乳脂肪分が重要であるとして、一般家庭で「検査器」を購入することをすすめています。また、バター選びについても、次のように具体的なアドバイスを盛り込みました。
「食卓用は和製なら信州の神津バターが良い様ですし、それから札幌バター、七塚原バターなんぞも宜う御座います、舶来ならば仏蘭西の上等食卓バターが宜う御座います、三四年前までは日本製のバターが純粋だと云つて大層外国人に称賛されたものです、それは日本の製造者がまだ幼稚である爲めに植物の油を混ぜる様な手段を知らなかつたんです、然るに此の頃は追々其の手段を覚えたと見えて市中で売る和製の品には随分悪い混物が沢山あります」——「食道楽」(冬の巻)
和洋のメニューやレシピはもちろん、食材の目利き、食品衛生、さらには現在につながる「食の安全」に至るまで、まさに小説の形をとった実用書だったのです。登場人物の男女が、互いに歯に衣着せぬ闊達な議論を繰り広げるのも、当時の人々にとっては新鮮で魅力的に映ったことでしょう。
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「食道楽 春の巻」巻末の「日用食品分析表」の牛乳の成分分析。当時の牛乳の脂肪分は現在より高かった。
弦斎の牛乳レシピ
作中では、「白ソースのぺラオ飯」(ピラフ)、「牛乳飯」、「チース飯」など、牛乳や乳製品を用いた斬新なメニューが数多く紹介されています。これを見ても、弦斎自身が大の牛乳好きだったのは間違いないでしょう。その弦斎が、主人公に「ほっぺが落っこちるほどの味」と言わしめた極上の牛乳のレシピとは、さて一体どのようなものだったのでしょうか?
「よく料理の中にフレッシバターやフレッシクリームと云ふ事がありますが何して拵へます」かと問われた主人公は、搾りたての牛乳を静置して表面に浮いたクリームを取り、泡立てることやバターを手作りする方法を細かく伝授します。
「然しバタを取るにはモー一日位置いてからの方がよいので、今朝の乳なら明日の朝クリームに取り、明後日の朝バターに取るとします、此のバターをパンへつけて食べるとそれこそ頬の落ちる程美味しうございます、クリームは果物の煮たのや林檎の焼いたのへかけても結構ですし、苺などを食べるにはクリームに限ります」。
つまり、自宅の菜園でとれたてのみずみずしい苺に新鮮な生クリームを添えた理、自家製の発酵バターをパンにつけて食べるーーこれこそが弦斎の行き着いた究極の贅沢でした。新鮮な素材本来の味に勝るものはない、というのは、21世紀を生きる私たちも納得できる結論ですね。
弦斎の長女である村井米子さんの随筆によると、平塚の邸宅には、パセリ、セロリ、レタス、アスパラガス、トマト、アーティチョークの菜園や温室、広い苺畑、弦斎自慢の桃の果樹園、さらにヤギ小屋や鶏舎もあったそうです。当時の豊かな暮らしぶりについて、米子さんは、「一食を苺だけで、済ませたことも、度々あった。実業之日本社の皆さんを招く苺会は、毎年の楽しみにされていた。新渡戸稲造博士が、外国人と学生をつれて見えたこともある」と回想されています。
邸宅には各方面の料理名人や全国の名産品が集まり、日々の食卓は、「食道楽」のヒロイン「お登和嬢」のモデルと言われる弦斎の妻・多嘉子さんが、広い厨房で女中たちを指揮して調理していたそうです。森永製菓の創業者・森永太一郎も、欧米からの帰国後すぐに村井邸を訪れた一人でした。米子さんは「マシマロを作られた。軟らかく、とろりと甘い、その珍しい洋菓子の、焼きたての味も、少女の舌にのこっている」と、古き良き時代の記憶を愛おしむように書き残しています。
「よく料理の中にフレッシバターやフレッシクリームと云ふ事がありますが何して拵へます」かと問われた主人公は、搾りたての牛乳を静置して表面に浮いたクリームを取り、泡立てることやバターを手作りする方法を細かく伝授します。
「然しバタを取るにはモー一日位置いてからの方がよいので、今朝の乳なら明日の朝クリームに取り、明後日の朝バターに取るとします、此のバターをパンへつけて食べるとそれこそ頬の落ちる程美味しうございます、クリームは果物の煮たのや林檎の焼いたのへかけても結構ですし、苺などを食べるにはクリームに限ります」。
つまり、自宅の菜園でとれたてのみずみずしい苺に新鮮な生クリームを添えた理、自家製の発酵バターをパンにつけて食べるーーこれこそが弦斎の行き着いた究極の贅沢でした。新鮮な素材本来の味に勝るものはない、というのは、21世紀を生きる私たちも納得できる結論ですね。
弦斎の長女である村井米子さんの随筆によると、平塚の邸宅には、パセリ、セロリ、レタス、アスパラガス、トマト、アーティチョークの菜園や温室、広い苺畑、弦斎自慢の桃の果樹園、さらにヤギ小屋や鶏舎もあったそうです。当時の豊かな暮らしぶりについて、米子さんは、「一食を苺だけで、済ませたことも、度々あった。実業之日本社の皆さんを招く苺会は、毎年の楽しみにされていた。新渡戸稲造博士が、外国人と学生をつれて見えたこともある」と回想されています。
邸宅には各方面の料理名人や全国の名産品が集まり、日々の食卓は、「食道楽」のヒロイン「お登和嬢」のモデルと言われる弦斎の妻・多嘉子さんが、広い厨房で女中たちを指揮して調理していたそうです。森永製菓の創業者・森永太一郎も、欧米からの帰国後すぐに村井邸を訪れた一人でした。米子さんは「マシマロを作られた。軟らかく、とろりと甘い、その珍しい洋菓子の、焼きたての味も、少女の舌にのこっている」と、古き良き時代の記憶を愛おしむように書き残しています。
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平塚市八重咲町にあるかつての屋敷跡は公園に整備されている。 -

「食道楽 春の巻」に掲載された東京・伊豆瀧のアイスクリーム
メーカーの広告。既に国内製品も売られていた。
| 【参考文献】 吉川英治「忘れ残りの記」1989年 成瀬敏夫「中郡酪農発達史」1990年 |
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
日本酪農乳業史研究会 会長、ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事
関連著書 ▶「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]
日本酪農乳業史研究会 会長、ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事
関連著書 ▶「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]

