【神奈川編】
第7回 鉄道牛乳と大地震と ~国府津・平塚・横須賀

にほんの酪農・歴史さんぽ 連載一覧

幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。

第7回 鉄道牛乳と大地震と ~国府津・平塚・横須賀

 20世紀前半の日本において、輸送・交通・物流の主役は鉄道でした。1889(明治22)年に新橋-神戸間で東海道線が全線開通し、1906(明治39)年の鉄道国有化によって「国鉄」が誕生しました。地方にも路線が伸びるにつれ、農家は駅から牛乳を街の乳業工場へと届け、工場からは製品が各地へと運ばれるようになりました。人々が行き交う駅の売店で、牛乳は売れ筋商品のひとつになりました。

国府津こうづ、国府津」とやると、「パンパン、サンドウイツチ、ゴウニユウ(牛乳)、ベンタウ(弁当)、アイスクリーム・・・」と云つて片つ端から引つ繰り返して了ふ。 
 ——随筆「汽車」(1924年)

 1918(大正7)年、33歳のときに東京から小田原に移り住んだ北原白秋の随筆「汽車」に、このような一節があります。「敷島」や「朝日」といった煙草やマッチの箱を並べ、列車に見立てる、2歳の長男との「汽車ぽっぱ」遊び。幼な子のお気に入りは、国府津駅の駅売りの呼び声でした。

 鉄道を利用できなければ、事業の発展は望めない——。守山乳業の前身である守山商会は、1920(大正9)年、それまで工場のあった七沢(神奈川県愛甲郡七沢村。現在の厚木市)から、平塚市新宿に移転しました。当時の平塚駅の北側一帯は、一面の麦畑だったそうです。同社は、鉄道で行楽地に出かける人々をターゲットに、1919(大正8)年に「ミルクコーヒー」の名でコーヒー牛乳を売り出します。菊型やハート形のマークが入ったびんを大量に発注したものの、当時は都内でコーヒー牛乳を販売していた日本均質会社の商品が人気で、売れ行きは伸び悩んでいました。

大震災と牛乳屋さん

 1923(大正12)年9月1日、相模湾北西部(現在の神奈川県西部・松田町付近)を震源とする関東大震災が発生。東京、神奈川を中心に、死者・行方不明者が10万5千人という未曾有の大災害となりました。
 その日、国府津に集金に出かけていた守山商会の守山けんは、火災で汽車が不通のため、現地で自転車を買って飛び帰ってきたといいます。その日の様子が、守山乳業の社史に生々しく綴られています。

「東から逃げて来た人の群、西から上つて來る救援者の群が、絡繹蜒々らくえきえんえん(絶え間なく続く様子)として物凄い勢である。その人達は食べるに何物も無い。畑には甘藷も大根も最早や一片の残り物もない。買ふ金はあつても濁らぬ飲料水は一滴もない。よし来たあの返品された珈琲牛乳を売り出せと兄弟は、一挙に何十箱も売ってさとつた。幸に庭にはびんが残つてゐた。よし造つて売れ、壜は拾つて来い、とばかりに、四日目には工場から景気のよい煙が濛々として昇り始めた」(「二十年を顧みて」)

 このコーヒー牛乳は売れに売れ、瓶や「王冠」と呼ばれたフタも欠乏するほどでした。守山は、東京で焼け出された瓶工場の家族を呼び寄せ、工場の敷地内に瓶製造の工場を開きます。弟たちは足柄山を徒歩で踏破して大阪へと向かい、砂糖やコーヒー豆を買い付けて、海路で国府津に陸揚げしたといいます。
 震災により、ライバル会社は工場が大破し、製造不能に陥っていました。そんな中、駅弁を販売する国府津の「東華軒」の店主が、各駅の弁当店主に電話で売り込みをかけてくれたことが追い風となり、御殿場や三島、東は横浜、品川、新宿、大宮、高崎、宇都宮へと、次々に注文が舞い込みました。
 1928(昭和3)年には、北海道から九州に至るまで、全国で守山のコーヒー牛乳が売られるようになりました。社史編集のため調査をした鈴木雅史さんによると、1929(昭和4)年の東京鉄道局管内81業者の売り上げ個数には、「上等弁当(35銭)10,687個、並弁当(20銭) 702個、お茶 6,035本、牛乳 2,532本、珈琲牛乳 1,377本 (15銭/本) 」との記録が残っています。
 並弁当の4分の3ほどの価格と結構値の張るコーヒー牛乳は、当時の人にとって、旅のお供に気分が上がる、ちょっと特別な飲み物だったのでしょうね。
  • 鉄道牛乳のポスター 「守山乳業四十年史」

被災者を元気づけた牛乳屋冥利

 「牛乳の仕事をしていてよかったなあ」と一番はじめに痛切に感じたのが、震災後の1か月間だった———。タカナシ乳業(横浜市)の創業者である高梨芳郎も、大震災の記憶を「わが人生 牛乳とバラに生きる」に綴っています。当時、高等小学校を卒業したばかりで15歳だった高梨少年は、父・庄三が横須賀で経営する牧場を手伝っていました。40頭ほどの牛を飼い、5〜6人の従業員が牛乳を近隣に配達していたそうです。
 火災や倒壊で家を失った人の避難先に牛乳を届けるうち、庄三はこう言い出しました。「牧場は焼けなかったし、牛乳は二、三日、タダで配ってしまおう」。
 焼け出されて途方に暮れていた人々に、手渡された牛乳。大八車で被災地を走る牛乳屋さんの「男気」は、どんなにかひとびとを元気づけたことでしょう。地震のショックに食料不足が重なり、母乳が出なくなってしまった母親や、身体が弱った人々に牛乳はたいそう喜ばれました。高梨は「最終的には十日ほど、こうして牛乳を無料で配達して歩いたが、(中略)私も『牛乳は人間に必要なもの』という思いをさらに深め、また被災時のお付き合いを通じて、お得意さんもさらに増えたのだった」と振り返っています。
 横須賀に当時8軒あった牧場の組合は、乳牛の飼料の配給を市役所に陳情し、横浜の焼け残った倉庫にある「フスマ(小麦のぬか)」を提供してもらえることになりました。しかし、横須賀から横浜まで道路も寸断されていました。すると、海軍が駆逐艦を出してくれることになり、牧場主たちが乗り込んで横浜沖へ向かいます。そこからダルマ船に分乗し、中華街の川沿いある倉庫からフスマを積み込んで調達したこともあったそうです。
 被災地で得た信用に後押しされ、高梨牧場はその後一挙に牛を10頭増やし、事業を拡大していきました。横須賀の牧場に生まれた少年が、牛乳配達の手伝いから牛乳販売店経営を経て、乳業メーカーを築き上げるまでの思いが綴られたこの本は、自分史であると同時に、業界の変遷をもリアルに伝える貴重な一冊です。
  • 横須賀の牛乳商組合長を務めた高梨庄三
    「横須賀経済経営史年表」

茅ケ崎に大牧場

 関東大震災により、橋脚がことごとく落下した馬入ばにゅう大鉄橋。1937(昭和12)年、新たに架け替えられた橋の近くの茅ケ崎市中島に、守山は模範牧場「守山酪農研究所」を開きます。
 「牧場敷地が6千坪、うち牛舎500坪、牧草場3500坪、乳牛の運動場2千坪」(守山乳業40年史)という大きな規模で、岩手の小岩井農場が米国から輸入した優秀な系統の種牡牛しゅぼぎゅうを導入し、乳牛の品種改良と農家への普及に着手したそうです。しかし残念ながら、終戦直前の平塚大空襲の余波で牛舎は全焼し、乳牛も被弾して命を落とし、閉鎖を余儀なくされました。その跡地は現在、ゴルフコースになっています。
 JR平塚駅北側の工場跡地にある守山乳業の事務所にお邪魔しました。プライベートブランド商品や業務用乳製品を多く製造・販売する同社の名前は、商品のパッケージに大きく記載されることはありません。「名前でなく、おいしさとこだわりで勝負しています」と同社の大沼豊さん。南足柄市にある神奈川工場では、業務用のソフトクリームミックスやココア、ロイヤルミルクティーから、コンビニやスーパーに並ぶプラスチックのカップのカフェオレ、杏仁豆腐などのデザートまで、多種多様な商品が製造されています。
 長らく自社の牛乳商品がなかった同社ですが、2025年に長期の常温保存が可能な「北海道A2牛乳」「A2ミルクコーヒー」を発売し、全国で販売しています。また、岩手県葛巻工場産のチャーン製造バターは、ロングセラー商品だそうです。こうしたこだわりのラインナップに、創業者の開拓精神が脈々と受け継がれています。
  • 平塚工場跡の守山乳業創業者・守山謙の顕彰碑
  • 1935年頃の平塚工場(守山乳業提供)
 【参考文献】
 北原白秋「岩波書店 白秋全集17 詩文評論3」1985年/「季節の窓」所収 
 守山乳業株式会社「守山乳業四十年史」1957年
 横須賀市商工会議所「横須賀経済経営史年表」1970年
 坂田俊夫「鉄道と構内営業 国鉄構内営業100年史」1972年
 高梨芳郎「わが人生 牛乳とバラに生きる」1985年
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
日本酪農乳業史研究会 会長、ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事
関連著書 ▶「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]