
幕末、開港と同時にやって来た西欧の人々は、横浜の外国人居留地を拠点に、次第にその行動範囲を広げていきました。交流の「最前線」に位置する神奈川では、肉や牛乳の需要が急増します。近隣の村では乳牛を育て、市街地の牛乳店に貸し出す「貸し牛」が行われるようになりました。大消費地に近く、豊かな山と海に抱かれたこの地で、人々はどのようにして酪農に取り組んできたのでしょうか。地域に残る資料をたよりに、その過程をたどります。
第8回 酪農村のことはじめ ~伊勢原市高部屋
秋山春海——。人の名前のようですが、そうではありません。その意味は、「秋には山を、春には海を見れば、天気がわかる」。そのことを、ここ伊勢原のひとびとは、こんな短い言葉で言い習わして来たのだそうです。昔から農とともにあった地域に息づく、暮らしの知恵といえるでしょう。
畑や果樹が広がる田園風景の向こうに、古来、神が宿るとされてきた大山が横たわっています。その隣には、控えめに寄り添うように富士山の山頂が小さく見えました。伊勢原市内の縄文遺跡は、みな大山を拝むことができる場所に位置しており、山頂からも縄文土器が出土していると、歴史の記録に残っています。初春の朝、小田急伊勢原駅前のバス停には、大山参りに出かける人々が長い列をつくっていました。
「県内では、酪農を営むのに最も恵まれた地域ですね」。神奈川県畜産技術センターの普及指導担当、仲澤慶紀さんが教えてくれました。伊勢原市では明治期から乳牛飼養が始まり、中でも旧高部屋村は、昭和戦前期において神奈川県内屈指の酪農村だったといいます。
畑や果樹が広がる田園風景の向こうに、古来、神が宿るとされてきた大山が横たわっています。その隣には、控えめに寄り添うように富士山の山頂が小さく見えました。伊勢原市内の縄文遺跡は、みな大山を拝むことができる場所に位置しており、山頂からも縄文土器が出土していると、歴史の記録に残っています。初春の朝、小田急伊勢原駅前のバス停には、大山参りに出かける人々が長い列をつくっていました。
「県内では、酪農を営むのに最も恵まれた地域ですね」。神奈川県畜産技術センターの普及指導担当、仲澤慶紀さんが教えてくれました。伊勢原市では明治期から乳牛飼養が始まり、中でも旧高部屋村は、昭和戦前期において神奈川県内屈指の酪農村だったといいます。
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伊勢原市内から大山(右)を望む
未完の論文に
今から95年前の1931(昭和6)年に、当時の中郡一帯の乳牛の分布を実地調査した人がいました。東京高等師範学校研究科の高橋修司さんです。残念ながら、高橋さんは2年後の1933(昭和8)年6月、論文を書き上げる前に亡くなってしまいました。「中郡酪農発達史 資料編」に収録された遺稿から、戦前の当地の酪農事情が見えてきます。
そこには、乳牛飼養のはじまりに関する興味深い語りも記録されていました。明治維新の前後から明治17〜18年頃まで、農家は通常、荷物の運搬や農繁期の貸し出し用に、一戸につき一頭の馬を飼っていたそうです。そんな中、「京浜における牛肉牛乳の需要が伯楽により宣傳され始めて乳牛飼養が興つたと称せられる」とあります。「伯楽」とは「馬喰」とも呼ばれる、馬の売買や仲買の商人のことを指しますが、この伯楽が、乳牛飼養を地域にもたらしたというのは、意外なつながりですね。
当時、現在の中郡にあった玉川村七澤(現在の厚木市七沢)、高部屋村、西富岡村(いずれも現在の伊勢原市)の篤農家が率先して乳牛を購入したのは1886(明治19)年のことで、搾乳期には都市部の搾乳業者に牛を貸付けていたと記されています。
高橋さんが実地調査を基に作成した1931(昭和6)年当時の町村別乳牛頭数と分布のデータを掲載しました。これによると、ダントツに乳牛が多かったのが高部屋村の424頭でした。次いで多い土澤村が255頭、国府村の212頭と続きます。
なお、この地域ではどの村でも豚が多く飼育されていました。明治以降、横浜などの都市部を中心に急増した肉や乳の需要に応えていたことを示しています。
高橋さんはこの地域の酪農地帯を、高部屋村を中心とした丹澤東麓地域の「北部」と、大磯丘陵の土澤を中心に国府、吾妻(二宮)、平塚などを含む「南部」の2地域に分類しました。なかでも乳牛の密度が最も高かったのは、「高部屋村大字日向付近で、日向から伊勢原に通ずる街道沿い」だったそうです。
ちなみに、南部地域における乳牛飼養の始まりは、金目村の篤農家が雌雄2頭を購入した事がきっかけでした。その後、1897(明治30)年に秦野町で「小波バタ會社」が設立され、土澤村や国府村に県の種牛が預託されたことから地域で乳牛を飼うひとが増えました。
そこには、乳牛飼養のはじまりに関する興味深い語りも記録されていました。明治維新の前後から明治17〜18年頃まで、農家は通常、荷物の運搬や農繁期の貸し出し用に、一戸につき一頭の馬を飼っていたそうです。そんな中、「京浜における牛肉牛乳の需要が伯楽により宣傳され始めて乳牛飼養が興つたと称せられる」とあります。「伯楽」とは「馬喰」とも呼ばれる、馬の売買や仲買の商人のことを指しますが、この伯楽が、乳牛飼養を地域にもたらしたというのは、意外なつながりですね。
当時、現在の中郡にあった玉川村七澤(現在の厚木市七沢)、高部屋村、西富岡村(いずれも現在の伊勢原市)の篤農家が率先して乳牛を購入したのは1886(明治19)年のことで、搾乳期には都市部の搾乳業者に牛を貸付けていたと記されています。
高橋さんが実地調査を基に作成した1931(昭和6)年当時の町村別乳牛頭数と分布のデータを掲載しました。これによると、ダントツに乳牛が多かったのが高部屋村の424頭でした。次いで多い土澤村が255頭、国府村の212頭と続きます。
なお、この地域ではどの村でも豚が多く飼育されていました。明治以降、横浜などの都市部を中心に急増した肉や乳の需要に応えていたことを示しています。
高橋さんはこの地域の酪農地帯を、高部屋村を中心とした丹澤東麓地域の「北部」と、大磯丘陵の土澤を中心に国府、吾妻(二宮)、平塚などを含む「南部」の2地域に分類しました。なかでも乳牛の密度が最も高かったのは、「高部屋村大字日向付近で、日向から伊勢原に通ずる街道沿い」だったそうです。
ちなみに、南部地域における乳牛飼養の始まりは、金目村の篤農家が雌雄2頭を購入した事がきっかけでした。その後、1897(明治30)年に秦野町で「小波バタ會社」が設立され、土澤村や国府村に県の種牛が預託されたことから地域で乳牛を飼うひとが増えました。
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「中郡酪農発達史 資料編」より -

「中郡酪農発達史 資料編」より
乳牛に賭けて
「中郡酪農発達史」によると、旧高部屋村日向の西藤寅之助が乳牛を飼い始めた時期は、1898(明治31)年頃だそうです。西藤は、それまで荷物の運搬などに使っていた馬を売り払い、弟2人とともに房州(房総半島南部)まで出かけて、3頭の牝牛(めうし)を購入しました。当時の農家にとって、乳牛の購入はたいへん大きな投資でした。西藤が、横浜の本牧にあった大沢牧場や渡邉牧場、鶴見の小野牧場まで、牛にわらじを履かせて歩かせたというエピソードが残っています。
こうして育てた「貸し牛」は、1頭につき1回の搾乳期間(一乳期)で50~70円の収入になり、西藤は地域の人々に牛飼いを勧め、管理方法などを教えたといいます。
明治30〜40年代の大卒初任給が30円、大正期に入っても40-50円程度、奉公人は月給10円以下も珍しくなかった時代であることを考えると、貸し牛は良い稼ぎになりました。ちなみに、伊勢原から横浜(神奈川県庁)までの距離は「11里20丁余」(約45キロメートル)です。フルマラソンより長い距離を、牛の手綱を引いて延々と歩いていたなんて、今では想像もつきません。
こうして育てた「貸し牛」は、1頭につき1回の搾乳期間(一乳期)で50~70円の収入になり、西藤は地域の人々に牛飼いを勧め、管理方法などを教えたといいます。
明治30〜40年代の大卒初任給が30円、大正期に入っても40-50円程度、奉公人は月給10円以下も珍しくなかった時代であることを考えると、貸し牛は良い稼ぎになりました。ちなみに、伊勢原から横浜(神奈川県庁)までの距離は「11里20丁余」(約45キロメートル)です。フルマラソンより長い距離を、牛の手綱を引いて延々と歩いていたなんて、今では想像もつきません。
創業の地へ
道路看板「高部屋」を通り過ぎて、日向地区に向かいます。奈良時代に東大寺の大仏建立に尽力した高僧・行基が奈良時代に開山したとされる「日向薬師」を始め、古墳や史跡が点在する歴史あるエリアです。守山乳業40年史(1957年)の巻頭の口絵に掲載されている「発祥の地・高部屋村日向」の写真を見て、ぜひ訪ねてみたいと思いました。そこには、雨降山(「大山」の古くからの呼称)のなだらかな山並に抱かれるような村落と水車小屋のある風景が写っていました。
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守山商会発祥の地 高部屋村日向
「守山乳業40年史」より
この社史が刊行された、今から約70年前の風景を物語る次のような記述があります。
「水車は火災に罹り焼失したが、水車小屋はその後農家が共同で再建され 今も尚、カタコトカタコトと時代がかりの水車が廻っている。その当時特に好意を寄せられた西藤一族は今も昔も変りなく中堅農家として立派に続いている。水車の直ぐ隣の小林久兵衛翁(69)は健在で、庭には数頭の乳牛が遊んでいる」。
同社OBで社史の編集に携わった鈴木雅史さんにお願いして、創業の地にご案内いただきました。入社してまもない1977(昭和52)年に一度訪れたという鈴木さんからは、「守山乳業発祥の石碑と、関係の深かったスルガ銀行の石碑が並んでいた記憶がある」という有力な情報をいただきました。
守山乳業の「創業二十年史」(1938年)によれば、1918(大正7)年1月、当時26歳だった守山は、高部屋村日向に間口三間のバラック小屋を建て、「守山商会製酪所」の看板を掲げました。
「村の人達もみんな親戚同様の好意を示してくれて、風物の美と人情の純朴には、渾然一体となって溶け込んでいく計りであつた。中でも、大松、西藤、小林、三浦の三兄弟様方の親切は永久に忘れる事が出来ない」と感謝が綴られています。
道中、バス停「洗水」を通り過ぎました。これで「あろうず」と読みます。1194(建久5)年、源頼朝が娘の病気快癒を願って日向薬師に参詣した際、ここの沢水で馬を洗ったとの言い伝えが由来です。カーブした坂道の先がその場所ということでした。現在は住宅や企業が並んでおり、水車やその痕跡も、記念碑も見つける事ができませんでした。静かな集落に、道路脇の用水路を流れる水音だけが、たえまなく響いていました。
「水車は火災に罹り焼失したが、水車小屋はその後農家が共同で再建され 今も尚、カタコトカタコトと時代がかりの水車が廻っている。その当時特に好意を寄せられた西藤一族は今も昔も変りなく中堅農家として立派に続いている。水車の直ぐ隣の小林久兵衛翁(69)は健在で、庭には数頭の乳牛が遊んでいる」。
同社OBで社史の編集に携わった鈴木雅史さんにお願いして、創業の地にご案内いただきました。入社してまもない1977(昭和52)年に一度訪れたという鈴木さんからは、「守山乳業発祥の石碑と、関係の深かったスルガ銀行の石碑が並んでいた記憶がある」という有力な情報をいただきました。
守山乳業の「創業二十年史」(1938年)によれば、1918(大正7)年1月、当時26歳だった守山は、高部屋村日向に間口三間のバラック小屋を建て、「守山商会製酪所」の看板を掲げました。
「村の人達もみんな親戚同様の好意を示してくれて、風物の美と人情の純朴には、渾然一体となって溶け込んでいく計りであつた。中でも、大松、西藤、小林、三浦の三兄弟様方の親切は永久に忘れる事が出来ない」と感謝が綴られています。
道中、バス停「洗水」を通り過ぎました。これで「あろうず」と読みます。1194(建久5)年、源頼朝が娘の病気快癒を願って日向薬師に参詣した際、ここの沢水で馬を洗ったとの言い伝えが由来です。カーブした坂道の先がその場所ということでした。現在は住宅や企業が並んでおり、水車やその痕跡も、記念碑も見つける事ができませんでした。静かな集落に、道路脇の用水路を流れる水音だけが、たえまなく響いていました。
牛乳で製薬を
ところで、後に守山乳業社長となる守山謙は、なぜ、あえてこの地で「製酪所」を手がけたのでしょうか。当時、第一次世界大戦によって欧州が壊滅状態となり、牛乳を原料とする蛋白製剤(医薬品原料)の輸入が途絶えていました。そこで、横浜市に工場があった友田製薬から「原料となる生乳を調達してほしい」と注文を受けた牛乳商の話が、起業のきっかけとなったのです。「半年もたたないうちに、一石(180リットル)は集まる」との隣村の代議士が請け合ったことにより、日向が創業の地に選ばれました。
農村地域に「バタ屋(バター製造業者)」が来たことで、地域の農家の間では、乳牛飼養への関心が急速に高まります。高部屋村で飼われている牝牛の頭数は、1917(大正6)年から1926(大正15)年の間に、110から271頭と2倍以上に増えました。
守山商会は半年後、より交通の便が良い県道沿いの玉川村七沢(現・厚木市)に移転しますが、七沢で工場とする建物を貸したのも地域の農家でした。当初はバターと乳糖を製造したものの、集乳量は1石(180リットル)をなかなか上回らず、赤字続きの苦しいスタートだったそうです。しかし苦心の末、「ウエルミン」と「タンナルビン」という整腸剤の商品化に成功。その収益でジャージー種2〜3頭とホルスタイン数頭を購入し、農家に貸与するようになりました。酪農家と地域の乳業会社が、単なる売り手と買い手の関係でなく、「持ちつ持たれつ」の精神で共に歩んできたことを物語るエピソードです。
農村地域に「バタ屋(バター製造業者)」が来たことで、地域の農家の間では、乳牛飼養への関心が急速に高まります。高部屋村で飼われている牝牛の頭数は、1917(大正6)年から1926(大正15)年の間に、110から271頭と2倍以上に増えました。
守山商会は半年後、より交通の便が良い県道沿いの玉川村七沢(現・厚木市)に移転しますが、七沢で工場とする建物を貸したのも地域の農家でした。当初はバターと乳糖を製造したものの、集乳量は1石(180リットル)をなかなか上回らず、赤字続きの苦しいスタートだったそうです。しかし苦心の末、「ウエルミン」と「タンナルビン」という整腸剤の商品化に成功。その収益でジャージー種2〜3頭とホルスタイン数頭を購入し、農家に貸与するようになりました。酪農家と地域の乳業会社が、単なる売り手と買い手の関係でなく、「持ちつ持たれつ」の精神で共に歩んできたことを物語るエピソードです。
石に刻まれた名前
乳牛が最も多く飼われていた街道沿いの伊勢原市上粕屋、神奈川県酪農業協同組合連合会の敷地内に「牛供養之碑」があります。
1941(昭和16)年に高部屋村畜牛組合が建てたもので、名種牡牛と呼ばれたホルスタイン種の「ヘンドリック・ウヰル・ヘルミナ号」など2頭の記念碑です。
1877(明治10)年生まれで静岡県出身の芦川房吉は、牛の売買を生業としていましたが、この地に移り住み、種牡牛を管理して地域の農家の繁殖を支えました。乳牛の先進地である伊豆から優秀な牝牛を導入し、常時2頭の種牡牛をつないでいたそうです。近隣の村とも連携し、地域の小学校に乳牛を連れていき、児童たちの前で搾乳実演を行い、牛の習性や管理の大切さを伝えたこともあった——そんな地域の人々の語り草が「中郡酪農発達史」に記されています。
ヘルミナ号は1917(大正6)年1月、神奈川県境に近い静岡県の函南村(現・函南町)で生まれ、静岡県内の共進会(乳牛の品評会)で上位に入賞した優秀な牛でした。1932(昭和7)年に引退するまで、この地で地域の乳牛改良に大きく貢献しました。
1938(昭和13)年に芦川が亡くなった翌年、神奈川県畜産組合連合会がその功績を表彰しました。市内の宝泉寺には、当時の高部屋村内の酪農家45名が名を連ね、芦川を追悼する「宿意の碑」が建てられています。
碑文には、「性剛毅(意志が強く不屈であること)熱情篤く」「62才の一期を克く畜産業のため終始せり」「寝食家計を忘れ、一生を捧げらる」と刻まれており、在りし日の芦川の情熱と、地域の酪農家たちが寄せた深い敬意を今に伝えています。長男の金作さんも戦後、人工授精師となり、親子二代にわたって地域の乳牛改良に尽力されました。
村や街の境界を越えて、人から人へと乳牛を飼い、より多くの牛乳を搾る技術が広がっていきました。1929(昭和4)年には、昭和の戦前・戦後にかけて長年にわたり村長を務めた小沢光男を中心に「相模牛乳販売購買組合」が設立され、村内の西富岡で牛乳の本格的な受け入れが始まりました。
1941(昭和16)年に高部屋村畜牛組合が建てたもので、名種牡牛と呼ばれたホルスタイン種の「ヘンドリック・ウヰル・ヘルミナ号」など2頭の記念碑です。
1877(明治10)年生まれで静岡県出身の芦川房吉は、牛の売買を生業としていましたが、この地に移り住み、種牡牛を管理して地域の農家の繁殖を支えました。乳牛の先進地である伊豆から優秀な牝牛を導入し、常時2頭の種牡牛をつないでいたそうです。近隣の村とも連携し、地域の小学校に乳牛を連れていき、児童たちの前で搾乳実演を行い、牛の習性や管理の大切さを伝えたこともあった——そんな地域の人々の語り草が「中郡酪農発達史」に記されています。
ヘルミナ号は1917(大正6)年1月、神奈川県境に近い静岡県の函南村(現・函南町)で生まれ、静岡県内の共進会(乳牛の品評会)で上位に入賞した優秀な牛でした。1932(昭和7)年に引退するまで、この地で地域の乳牛改良に大きく貢献しました。
1938(昭和13)年に芦川が亡くなった翌年、神奈川県畜産組合連合会がその功績を表彰しました。市内の宝泉寺には、当時の高部屋村内の酪農家45名が名を連ね、芦川を追悼する「宿意の碑」が建てられています。
碑文には、「性剛毅(意志が強く不屈であること)熱情篤く」「62才の一期を克く畜産業のため終始せり」「寝食家計を忘れ、一生を捧げらる」と刻まれており、在りし日の芦川の情熱と、地域の酪農家たちが寄せた深い敬意を今に伝えています。長男の金作さんも戦後、人工授精師となり、親子二代にわたって地域の乳牛改良に尽力されました。
村や街の境界を越えて、人から人へと乳牛を飼い、より多くの牛乳を搾る技術が広がっていきました。1929(昭和4)年には、昭和の戦前・戦後にかけて長年にわたり村長を務めた小沢光男を中心に「相模牛乳販売購買組合」が設立され、村内の西富岡で牛乳の本格的な受け入れが始まりました。
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種牡牛の供養の碑(伊勢原市上粕屋) -

酪農や繁殖の技術を伝えた功労者・芦川房吉翁を称える碑
伊勢原市上粕屋の宝泉寺墓地
| 【参考文献】 株式会社守山商会編纂部「二十年を顧みて 創業二十年史」1938年 守山乳業「守山乳業四十年史」1957年 小沢幹 「伊勢原史話第一集」1983年 成瀬敏夫「中郡酪農発達史」1991年 成瀬敏夫「中郡酪農発達史 資料編」1993年 |
※この記事の文章、写真等は無断転載不可。使用したい場合は(一社)Jミルクを通じ、筆者、所蔵者にお問い合わせください。
執筆者:小林志歩
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
モンゴル語通訳及び翻訳者、フリーライター
関連書籍 ▶ ロッサビ・モリス「現代モンゴル—迷走するグローバリゼーション」(訳)[明石ライブラリー2007年]
ミルクの「現場」との出会いは、モンゴルで一番乳製品がおいしいと言われる高原の村でのことでした。人々はヤク、馬、山羊、羊を手搾りし、多様な乳製品を手作りしていました。出産して母乳の不思議を身体で感じると、地元で見かける乳牛に急に親近感がわきました(笑)。異文化が伝わる過程に興味があり、食文化や歴史をテーマに取材、執筆、翻訳等をしています。好きな乳製品は、生クリームとモッツァレラチーズ。
編集協力:前田浩史
日本酪農乳業史研究会 会長、ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事
関連著書 ▶「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]
日本酪農乳業史研究会 会長、ミルク1万年の会 代表世話人、乳の学術連合・社会文化ネットワーク 幹事
関連著書 ▶「日本酪農産業史」(単著)[農文協2025年]、「東京ミルクものがたり」(編著)[農文協2022年]、「近代日本の乳食文化」(共著)[中央法規2019年]、「酪農生産の基礎構造」(共著)[農林統計協会1995年]

